第65話 悪女、800年前を思い出す②


 それは、突然だったのだ。


『お前は、僕と研究のどちらが大事なんだ?』


 その時、私は瘴気の研究に没頭していた。

 各地で瘴気による疫病の発生や魔物の凶暴化の件数が徐々に増えてきていた。なので、瘴気の鎮静化についての研究指令が下されるのは時間の問題なだろう――と、私は先んじて没頭していたのだ。


『んー、今は研究かなぁ?』


 私は計量をしながら答える。

 そりゃあ王太子様のお命も大切だけど、国民数千百億人の命……申し訳ないが、いくら尊き命とて、私は大勢をとる主義である。むしろ尊いお方だからこそ、そこは合理性をとっていただきたいと思うのは私のわがままなのだろうか。


 まぁ、最近殿下のそばに女の影が絶えないという噂くらい耳にしている。

 男爵家の令嬢という話だけど……まぁ、私なんか元は孤児ですし。殿下の暇に付き合ってくれるならありがたいくらいである。というか、お前も暇なら手伝えっての。


『そんなことより、このレポート見てくれるかな。地脈から噴出している瘴気をおさえる装置はもうすぐできそうなんだけど、でもそれをすると自然体系が崩れて火山活動が頻発かしちゃいそうで――』

『もういいっ!』


 あら、私のレポートを一瞥もせずに行っちゃった。

 そんなに読みにくかったかな。さすがに忙しいといっても、もう少し丁寧に記すべきだったか。


『ま、それなら一人でやるか』


 まだ状況が緊迫化しているわけでもないから、一人でやっても間に合うだろう。


 その憶測は当たっていた。およそ半年後、緊急事態として協会に最重要案件と研究を依頼された時には、私はほとんどすべての研究を完成させていて。その時には瘴気の再生利用法として医療に応用するすべの立案報告書の作成も済んでいた。


 結果としては瘴気は完全に止めてしまうとやはり環境に悪影響があるので、しばらくは避難に徹しつつ、その間にゆっくりと瘴気濃度を下げる魔法陣を敷いて、数百年単位で元の環境に戻す――その報告を、ひとまず私はスエル殿下に報告したのだ。レポートの不備があれば教えてほしいと、そのお願いもあって。


 だけど、彼は言った。


『この――悪女めっ!』

『えっ?』

『瘴気を止められるのに、止めないだと⁉ しかも瘴気を利用して人体の治療に活かそうなどと――そんなこと国民に報告できるわけがないだろうが⁉』

『待って? だからちゃんと書いたじゃない。』


 しかし、ビリビリと。

 私が半年以上かけて完成させたレポートが破られてしまう。


 直すには簡単だ……だけど、あまりのショックで少しだけ動けずにいた、その時。


『衛兵、この女を捕らえよ! こいつは全国民を己の研究に利用しようとする稀代の悪女だ!』


  ◆


 いやぁ、まったくもって、未だに理解できないわ。

 なぜ、スエル殿下が急にあんなことを言い出したのか。


 あれから八百年経っても夢に見てしまうほど、あの時の胸の痛みは消えてくれないらしい。


 まだ外は暗かった。シシリーも起きる気配がない。


「がんばって研究……してたんだけどなぁ……」


 でも実際、世界は八百年後もこうして平和に続いている。

 むしろ、今の方が平和なんじゃ……?


 その事実は、世界にノーラ=ノーズなんていなかったほうがいいと、そう告げているようで。


「私なんて、目覚めなきゃよかった――」

「それじゃあ、夜の散歩でもする?」


 その声は、窓の外から。

 トントンとノック音に揺れる窓に、私は苦笑してから開いてみれせば。


 そこには女好きする色男が、にっこりと目を細めていた。


「女の寝室に乗り込むなって前にも言わなかったっけ?」

「だから乗り込んでないよ。ちゃんとノックしたじゃん」

「窓からだけどね」


 アイヴィン=ダールはまるで悪びる素振りもなく、こちらに手を差し出していた。


「行こうよ。俺も今日寝つきが悪くてさ、遊び相手が欲しかったんだよね」

「私が寝ていたらどうするつもりだったの?」

「女王様の寝顔にキスして目覚めさせようと思ってたけど」


 その得意げな顔が気に食わなくて、私は彼の通った鼻を思いっきり摘まむ。


「シシリーのファーストキスをアイヴィンなんかにあげるわけがないでしょ」

「あ、そういう解釈になる?」 

「シシリーに内緒にしてほしければ、私にアイスでも奢ることね」


 私は適当なカーディガンを羽織って、窓から出ようとすれば。


「それ、いつものことじゃん」と苦笑したアイヴィンが私の手を掴んでくる。


「喜んで、俺の女王様マイ・クイーン

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