世界の終わりの塔

六野みさお

第1話

 その時計台は、ほとんど一様な草原の中に立っていた。草原は静かなときがあるかと思えば、時折あまり強くない風に煽られてざわざわと揺れた。草原の向こうにはかすかに海が見えて、草原と同じように基本的に静かな時間を過ごしていた。まだ東の空はほんの少し黒が薄まった程度で、草原と海はまだ本来の鮮やかな色を取り戻していなかった。


 彼女はその景色から目をそらして、自分のいる時計台の屋上を観察した。灰色の床はあちこちがひび割れていて、軽く押せば全てががらがらと崩れてしまいそうな箇所があちこちにあった。もちろん、彼女の顔の高さあたりが文字盤のいちばん下である大時計も、彼女が生まれるずっと前からその回転を停止していた。


 この世界の文明が崩壊してから、すでに莫大な時間が経っていた。わずかな生き残りたちも次第にその数を減らしていき、彼女が生まれたときには、彼女の小さなコミュニティー以外に人間はいなかった。


 そのコミュニティーも、どれだけ前だったか思い出せないほど昔に瓦解してしまった。たまたまその場にいなかった彼女だけが生き残った。発見したときには手遅れだった最後の一人を葬ってから、彼女は人間を見ていなかった。


 彼女はゆっくりと腰をかがめて、時計台の端に腰掛けた。それから、自分の足を覆っているところどころ破れた服と、その下にある、漆黒の中でほのかに浮かぶ大地を見た。


 彼女はしばらくそのまま動かなかった。世界は依然として断続的な無音に包まれていた。ときどき弱い生暖かな夏の風が吹いて、彼女の背中をそっとなぞった。


 彼女は突然、体を前に投げ出して空中へと飛び込んでみたい衝動に駆られた。そして、もうそうしてしまった自分を想像した。きっと自分はなるべく美しい姿勢で、まっすぐに地面に落下するのだ。そうして朝になれば、上った太陽がいつものように草原を照らし、その中に自分は、かつて人だったものの残骸と、いくらかの血痕として色彩を加えているのだ。


 そこまで考えて、彼女は乗り出しかけた状態を再び直立に戻した。どうせ自分の命が終わってしまうのなら、そのやや不埒でかつ絶妙のコントラストも、誰も永久に見ることはないのだ。


 彼女はもともと死ぬつもりでここに来ていた。人工物である時計台の上には、もちろん食料などあるはずがなかった。彼女は自分の寂しい生活に――食べ、少しだけ動き、寝るだけの生活に飽きてしまったのだった。そうして、みずから何も食べられない生活に追い込まれようとして、前日の宵口にその時計台に上ったのだった。もしかすると、長い放浪生活の果てに運命的に現れた建造物に興味を示したのかもしれなかったが、彼女はそんな自分の深層心理について考えようとは思わなかった。


 それなのに、彼女は早くも恐怖を感じ始めていた。自分をいちばん苦しめると思っていた空腹感は、真夜中のあたりから感じなくなってしまった。自分の体に何かが足りていないのだというささやかな空虚感だけが彼女を侵食していた。それは気のせいかもしれなかったけれど、本当の感覚かもしれなかった。もしこのまま自分が何も食べなければ、自分の中の空洞はどんどん広がっていって、しまいには自分をこの世界から無くしてしまうのではないか、と彼女は考えた。


 彼女は立ち上がって、意味もなく目の前の虚空に手を伸ばした。むろん何が掴めるわけでもなく、彼女の細い手は、重力に従って倒れる板のように、ぱたんと体の横に下ろされた。


 彼女はまた大時計の方を向いた。そうしてそれに近づいていって、そのいちばん下の文字盤に触れた。そこにはただ冷たい金属の感触があるだけだった。


 彼女はさらにもう一歩踏み出し、目を閉じてその文字盤に頬を押しつけた。彼女の熱い頬と冷たい文字盤が相互作用し合って、彼女の頬は冷たくなり、文字盤は暖かくなった。


 彼女は右手を伸ばして、大時計の一部である壁に触れた。彼女はできるだけ大時計を感じようとした。人間が作った大時計は、人間のいない場では用をなさない。もう一度大時計を動かすことはできないけれど、彼女は少しでも大時計の慰めになるように、大時計の冷たい大きな体躯から何かを受け取ろうと努めた。


 長さを忘れそうなほど長い時間が経った。彼女の頬と文字盤との温度はもはや一致していた。彼女はなんとなく大時計が何を言いたいのかが読み取れるような気がした。たぶん彼は疲れたのだ。彼女よりずっと長い時間を見てきた彼は、おそらく人間の没落の過程をも目の当たりにした彼は、もう何かを感じようとは思っていないようだった。


 彼女は文字盤から頬を離した。彼女が一歩大時計から離れるごとに、彼女は何かの糸が切れていくような感覚を覚えた。それはまるで彼女からすべてのものを断ち切るように、彼女の頬で何度も小さく爆ぜて、彼女に熱さを感じさせた。


 彼女はふらふらと歩を進めた。彼女はもう自分が何をしているのか意識していなかった。ただ境界線をすっと越えて、無限の虚空へと身を委ねようとしていた。ところが、彼女はその一歩前で足を止めた。


 世界に、色彩が戻った。


 世界に光をもたらすその橙色の球体は、海の上にその頭をのぞかせたかと思うと、力強く自身をぐいぐいと押し上げ、その全身を地上に現した。ほとんど黒かった海は一気に青を越えて白近くまで染まり、さざ波はきらきらと金色に輝いた。草原は奥から手前へと次々にその本来の黄緑色を取り戻し、ちょうど吹いた風に合わせてダイナミックな運動を見せた。


 彼女は茫然と立ち尽くしていた。こんなに綺麗な世界があることを、彼女はすっかり忘れていた。それは生とか死とか空腹とか疲れとか、彼女がさっきまで感じていたことを全部なかったことにしてくれるくらいの衝撃だった。


 そのとき、彼女は声を聞いた。その日の出の壮大な綺麗さを賞賛する声が、不思議にはっきりと彼女の耳に響いたのだった。どこから出たものかはわからなかった。彼女自身かもしれないし、後ろの時計台かもしれないし、他の何かかもしれなかった。彼女は辺りを見回したが、もちろん何が見えるはずもなかった。


 彼女は右手を上げて、空気の一部を掴んだ。そうしてそのまま、右へ左へと動かしてみた。そうすれば、さっき聞いたあの声の持ち主を捕まえられるような気がした。その手には何も当たらなかったが、彼女はいつかその手がかけがえのないものを手に入れられるはずだと確信していた。


 彼女は手を下ろして、そっとその目にあふれた涙をぬぐった。右手をこんな風に使ったのはいつくらいだろう、と彼女はぼんやりと考えた。


 彼女はそのふわふわしたものを、左手を上げてもう一度しっかりと掴んで、それから確かな足取りで時計台の階段を降りていった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界の終わりの塔 六野みさお @rikunomisao

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ