ダンバーとグスターヴァス・2

 ***


 皇太子が学ばねばならないのは、学問ばかりではない。

 国教であるユーゴー正教は、皇帝は神によって選ばれた統治者であるとしている。したがって皇帝は、常に神の教えを忠実に守る存在でなければならない。言い換えれば、皇帝とユーゴー正教とは互いに依拠し合う関係にある。

 ハーレイの誕生後、ダンバーはクロードとともに皇帝の名代として、オルファシウス教会の早朝礼拝に参加することになった。ふたりの皇子も分別ある年齢になったと、皇帝が認めたのである。

 もしかすると、亡妃の冥福を祈り新たな災厄を退けたいという思いもあったのかもしれない。皇帝ハルバード三世は、信仰心篤く教会に従順な皇帝だった。

 月に二回の早朝礼拝が母の冥福を祈るだけの行事なら、ダンバーにとってさほど苦ではなかった。

 今際いまわの際に、母はダンバーやクロードだけでなくグスターヴァスも枕元に呼んでこう言った。「三人でハーレイを守ってあげてね」と。

 いま思えば、あれは兄弟で殺し合ってほしくないという意味だったのかもしれない。この先たとえクロードやグスターヴァスや、成長したハーレイと衝突することがあっても、ここへ来て祈る限りは母との約束を忘れずにいられるはずだ。

 けれども礼拝が終わって司教の講義が始まると、まったく身が入らなくなる。ダンバーは父ほどに信心深くはなれなかった。

 神がいるなら、なぜ母上は生まれたばかりのハーレイを遺して死ななければならなかったのか。なぜクロードよりも、皇太子たる自分を優れた人間にしなかったのか。なぜ自分は、神の戒めを苦しく思うのか――

 神の戒めは斯くあり。姦淫すべからず、男は男を愛すべからず、女は女を――

 遠くから聞こえていたはずの司教の声が、急に耳元へ滑り込んできた。――いや、気のせいだった。はっと顔を上げたとき、司教は変わらず祭壇の上にいた。

「姦淫とは、子をなすためではなく、もっぱら快楽を求めるための交わりのことであります。子をなしてよいのは、神前で契りを交わした夫婦だけであり……」

 隣のクロードを横目で見ると、彼は涼しい顔で頷きながら聞いている。ダンバーの目には、クロードは生まれながらの聖人に見えた。この出来た弟が神の戒めに背くことなど、生涯にわたってないのだろう。

「……破戒の誘惑はそこここに転がっておりますが、決して心を許してはなりません。強い信念を持って、試練に打ち克つのです……」

 試練。実に都合のいい言葉だ。

 ダンバーにのしかかるあらゆる苦悩を一言で片付けるのだから。

 


 ***



 ある日、ダンバーは朝から不機嫌だった。

 教師には気分が優れないので今日の授業やあらゆる訓練を休みたいと申し出たが、教師が医者を呼ぼうとすると「どこも悪くない」と言い張る。矛盾した言いようを、教育係は深く追及しなかった。

 グスターヴァスは朝のうちクロードとともに授業を受けていた。昼過ぎから厨房の片隅で黙々と芋の皮を剥いているとき、急に料理長に呼び出された。

「お前、昼食まだだよな? 後はリッカに任せて、皇太子殿下の部屋で一緒に食ってこい」

 リッカは洗濯係の少女だった。洗濯係だってまだ忙しい時間帯のはずなのに、なぜ厨房に呼ばれたのか。

 グスターヴァスが疑問に思っていると、料理長が耳元で囁いた。

「リッカは昨日んだよ。かわいそうに年増女どもに色々聞かれて、恥ずかしくて泣いてたから連れてきてやったんだ」

 グスターヴァスはわずかに動揺し、しかしすぐに何も聞かなかったことにしようと決めた。リッカが「召し出された」相手は、ひとりしかいない。

 ダンバーは朝から何も食べていないという。主食のパンと、牛乳で煮た野菜とベーコンのスープに、ほぐした鶏の笹身と塩漬けのキャベツの和え物が添えられている。どれもダンバーの好物だ。

 だが、グスターヴァスが二人分の昼食を携えて部屋を訪れても、ダンバーの気分は晴れなかった。

「……悪いな、わざわざ」

 ダンバーが寝間着姿のままベッドから降りる。何気なく発された言葉が、グスターヴァスを驚かせた。

 神に選ばれた皇太子が、庶民たるグスターヴァスに謝ることなどあってはならない。ダンバーにとっても、物心ついた頃から嫌というほど教え込まれ、完全に理解しきっているはずのことだった。

 ふたりが向かいあって食卓につく。先にパンをちぎったのはグスターヴァスである。なかなか食事に手をつけないダンバーを促すためだった。

 グスターヴァスのパンは、ダンバー皇太子の真っ白なパンとは違う、雑穀の混ざった庶民のパンである。スープに浸してもさほど吸わない。そのスープも、屑野菜を煮込んだ粗末なものだ。

 ダンバーはしばらくグスターヴァスの手元を見つめた後で、自分のパンを半分にちぎった。

「食えよ」

 白いパンの上に、ダンバーはベーコンまで載せた。牛乳のスープが染み込んだパンの甘い香りが、グスターヴァスの空腹に強く訴えかける。

「だめだよ、これは皇族の方々の食べ物だ」

「俺がいいって言ってんだから、いいんだよ。ほら」

 結局グスターヴァスは受け取った。一口かじると、口の中で牛乳の甘さとベーコンの脂が溶け合う。

「……おいしい」

 同時に、自分には畏れ多い食べ物だとも思った。グスターヴァスは申し訳ない気分になって、雑穀パンを口に詰め込む。ざらつく舌触りが、すぐに美食の味をかき消していく。

 ようやく、ダンバーもパンをかじった。

「昨日、閨事ねやごとの練習をやらされた。相手は召使の女の子だった」

 あらかじめ知っていたことだったが、グスターヴァスの胸中はまたもざわめいた。

「初めてにしては上出来だったと思う。世継ぎを作る皇帝の務めを果たせる自信がついた」

「そうか。よかったね」

「ああ」

 予想と正反対の答えが返ってきて、グスターヴァスは拍子抜けしていた。同時に突き放されたような気持ちにもなった。他に何を言っていいのか分からず、ただ呑み込みきれない不味まずいパンを延々と噛んでいた。

 しかしダンバーには、まだ言うべきことが残っていたのである。

「ただ、分かったことがある。俺は女が好きじゃない」

 ダンバーは平然と食事を続けながら言った。

「……そういうことも、あると思うよ。君が選んだ相手じゃなかったんだし」

 どうにか返したグスターヴァスの答えに、ダンバーは首を振った。

「そうじゃない。たぶん俺は女じゃなくて、男が好きなんじゃないかと思う」

 お前が、とは言わなかった。

 ダンバーは脂で光る唇を拭布ナプキンで拭った後、驚きで見開かれたグスターヴァスの目を見据えた。

「なぜだ? 俺は神に選ばれた皇帝になる男だ。なのに、神の戒めに背く心を持ち合わせている。俺は確かに信心が足りないが、あえて神に逆らおうと思ったことは生まれてこのかた一度もない。俺の心はどこから来た? 神がそうなるように俺を創ったのか? 何のために? これも『試練』だっていうのか?」

 常日頃は皇太子の矜恃に輝いている琥珀の瞳はくらかった。深淵を覗いているためだ。ひとたび落ちれば出口はなく、永遠に彷徨い続けるほかない深淵である。皇太子といえどもまだ十四歳の少年でしかないダンバーの双眸は、これから彼がかねばならない暗闇を映していた。

「なあグス、教えてくれよ。俺はいったい、何なんだ?」

 投げられた問いかけに、グスターヴァスは答えを持ち合わせていない。ただ感じるだけだ。

 ひとりでは往かせない、と。

 胸中に湧き起こった衝動を名付けられないまま、グスターヴァスは立ち上がった。それを追うダンバーの視線が自然と上向く。

「ダンバー、神に背いているのは、君だけじゃないよ」

 ――僕も、皇帝陛下の息子なんだ。 

 ダンバーは何も知らない。クロードも同じだろう。知らないのは、城内で彼ら兄弟だけだ。

 ――それを知っていながら、僕は。

「お前の何がいけないんだ、グス」

 本当のことは話せなかった。皇子はあくまでもダンバーとクロードだけだ。異母兄だと明かしてしまえば、ふたりと仲良く付き合うのは難しくなる。――そう皇帝に命じられたこと自体、グスターヴァスにとっては己が存在してはいけない証左そのものであった。

「生きていることが」

 神に選ばれた皇帝が神に背くはずがない。

 では、僕は? 神に背く交わりによって生まれた僕は何なのか?

 グスターヴァスの存在は、この国を支えることわりから外れていた。その矛盾に気づきながら、彼は見ないふりをするしかなかった。でなければ息ができなくなってしまう。ことによると、若くして母が病に倒れたのも、眼鏡なしでは歩けないほどに視力の弱い目も、神罰なのではないかとさえ考えてしまう。

 生まれながらに神に背いているグスターヴァスにとって、腹違いの弟たち、とりわけダンバーとの交流だけが心の支えだった。彼を支えられているなら、自分も生きていてよいのだと思えた。

 だからダンバーの告白は、いっそ後ろ暗い福音のようであった。彼も神に背いているなら、手を差し伸べられるのは自分だけだ。口元には笑みが浮かびかけ、しかしすぐに罪悪感がかき消した。

「グスターヴァス」

 一方でダンバーの表情には怒りも、悲しみも、喜びも絶望もなかった。グスターヴァスの言葉の意味はつまびらかでない。ただどうやら彼も自分と似た苦しみを抱えているらしいと知れた。そのことは、グスターヴァスとは違って、何の喜びにもならなかった。

 ダンバーには分かっていた。グスターヴァスを救うことはできない。できるのは、ただ共有することだけだ。己が神に背いていると、証明してみせることだけだ。

「試してもいいか。お前で」

 使用人に否を唱える権利などない。まして神に背いている人間である。

「君は皇太子だよ、ダンバー」

 ダンバーが立ち上がると、もうグスターヴァスとほとんど同じ背丈になっていた。

 眼鏡を取らせたのは、お互いの動揺を和らげるためだった。ダンバーは異母兄と知らぬ少年の頬を撫で、目を伏せて唇を寄せた。唇より先に、鼻と鼻が触れ合った。グスターヴァスは白く霞んだ視界の中でその感触を得た。やわらかな皇太子の唇には、まだ乳臭い香りが残っていた。

「間違いない。俺は、確かに神に背いている」

「……うん」

 ふたりはそれぞれの肉体の内に湧いた熱を確かめ、しかし身を任せはしなかった。

 ダンバーはひとつ大きな息を吐くと、「食べよう」と言って再び席へついた。グスターヴァスもそれに従い、後は黙々と食事を平らげた。

 ダンバーに真実がもたらされたのは、その翌日のことだった。

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