ダンバーとグスターヴァス
ダンバーとグスターヴァス・1
帝国暦一七一年(ニアーダ王国暦五五二年)九月
ペンが紙上で固まっている。ここに何を書けばいいのか、全然思いつかない。余計なことを考えてしまって、目の前の問題に集中できない。
「いかがですか、ダンバー殿下」
教師の冷たい声が頭上から降ってきた。
ユーゴー帝国の皇太子ダンバーはペンを転がして、降参の意思を示した。隣の席では二つ年下の弟クロードが、心配そうに兄を見つめている。
「仕方ありませんね。ではクロード殿下、お兄様に説明してさしあげてください」
はい、と返事したクロードは、兄のほうへおずおずと椅子を寄せた。
「上の三角形と、下の三角形は
ダンバーはうんうんと相槌を打ちはするものの、実のところあまり頭には入っていない。クロードも、兄の機嫌を伺っておどおどしている。その素振りが余計にダンバーを苛立たせた。教師がいなければ、声を荒らげて拒んでいるところだ。
幾何学の授業が終わると、「あの、兄さん」とクロードが控えめに声をかけてきた。
「別に怒ってねえよ」
先回りして言い放つ。立ちすくむ弟に背を向け、ダンバーは勉強部屋を出た。
皇族の住まいであるファークロウ城三階の長い廊下に、ほかに歩く人の姿は見えない。育ち盛りの背中に、天井いっぱいの孤独がのしかかる。
ダンバーが向かった先は南の角部屋だ。ドアを開けた途端、湿っぽくて甘ったるい悪臭がむっと漂ってきた。甲高い赤ん坊の泣き声がする。
「ごめん、ダンバー」
顔を上げた眼鏡の少年は、ダンバーを呼び捨てにした。
「ちょうどハーレイのおむつを変えていたところで」
「いいよ、俺の弟だ。おーいハーレイ、兄上だぞー」
この部屋は乳母の部屋だが、いま乳母は休憩時間だ。低い寝台に、昨年生まれた第三皇子ハーレイが寝かされている。
ハーレイはどんなに泣いていても、なぜかダンバーの顔を見るといつも泣き止んで笑顔になるのだった。おかげで、ダンバーは母の命と引き換えに生まれてきたこの小さな弟を憎まずにすんだ。
「俺になついてくれるのはこいつと、お前だけだな、グスターヴァス」
眼鏡の少年――グスターヴァス・ライサンダーは、手は動かしつつも気遣わしげな視線を送る。
グスターヴァスは当時十九歳。分厚い眼鏡は、生まれつき視力が弱いためのものである。親を亡くし、使用人として城に住み込みで働いているが、皇帝の計らいで仕事の合間に皇子たちと同じ教育と、皇子たち以上に厳しい武術の手ほどきを受けている。
――というのが、ダンバーの認識だ。事実は少し違う。
ただの召使の遺児が、皇帝に目をかけられるわけがない。グスターヴァスの母親は、当時皇太子だった今上帝の教育のために召し上げられた下女だった。しかしふたりは本当に恋に落ちてしまった。密かに逢瀬を重ねた末、彼女は密かにグスターヴァスを産んだ。皇帝が亡妃と結婚するより前のことだ。
だからグスターヴァスにとってダンバーとクロードは異母弟にあたる。グスターヴァスは知っているが、皇子たちには明かさぬよう皇帝から固く口止めされていた。
「今日は幾何学の授業だったよね。何かあったの」
「何てこともねえよ。いつもの皇太子様いびりだ」
当時十四歳のダンバーは数学や幾何学が苦手だった。
教師が難しい問題を出す。ダンバーには解けないがクロードには解ける。教師の指示で、弟が兄に解法を教える。
「あいつ、俺が図形の問題が苦手なの分かってて、わざとやってるんだ」
政治や経済の勉強に比べれば、将来皇帝になるためにはあまり必要な学問でもないから、できなくてもさして支障はないはずだ。だがクロードに教えられるのは、いつもダンバーの自尊心を傷つけた。
本当はクロードのほうが次の皇帝に向いている。口にはせずとも、教師たちも今上帝である父上も、みなそう思っているはずだ。苦しい確信を抱えながらも、ダンバーは帝位を継ぐ者として努めねばならなかった。
「最近は少し分かる。歴代の皇帝たちが、帝位を巡って兄弟で殺し合いをした気持ちが」
冗談めかして言ったつもりだったが、グスターヴァスは眉を曇らせた。
いつかクロードや、いまは幼くて愛おしいハーレイと争うかもしれない。ダンバーの漠然とした不安は、グスターヴァスにも伝わった。
グスターヴァスはクロードも好きだ。心優しく聡明で、立派な皇子だと思う。ただ、次代の皇帝という逃れられぬ運命を背負って生まれたダンバーに対して、より感じるところがあった。もし母親が高貴な身分であったなら、グスターヴァスが皇太子だったかもしれないのだ。
「なあグス、お前は解けるか?」
宙に図形を描きながら、ダンバーが言った。
問題の概要を聞いたグスターヴァスは、すぐさま「相似かな」とクロードと同じことを言う。分からないふりをして、皇太子を慰めるような遠慮はしない。
「なんだよ、解けねえのは俺だけかよ」
ダンバーが思いきり舌打ちして、その後笑った。憂鬱な話が笑える話に変わった。グスターヴァスが傍にいる限り、ダンバーは孤独ではなかった。
「いいよなあ、頭のいいやつらは」
「そういうんじゃないよ。先生の出す問題なんて、教わった定理を組み合わせたら解けるようにできてる。気づけるかどうか、それだけだよ」
「俺はその『定理』ってのが、苦手なんだよなあ」
ダンバーはハーレイの傍に腰を下ろし、グスターヴァスが手際よくおむつを洗うのを眺めていた。
「ふたつの三角形は相似だ。なぜだ? 対頂角と、平行線の錯角が等しいからだ。なぜ対頂角と平行線の錯角は等しい? それは証明できても、そもそも角度って何だ? 平行って、線って何なんだ? 永遠に交わることのない線なんて本当に存在すんのか? 『なぜ』と『何』を繰り返していくうちに、どんどんわけが分からなくなってくる」
「考え過ぎだよ。定理なんて、『そういうものだ』って覚えてしまえばいい」
「『そういうもの』って、それで本当に分かったことになるのか?」
グスターヴァスは苦笑した。幾何学は得意でも、皇太子を納得させる答えは持ち合わせていない。
「二直線が平行ならその錯角は等しい。そういうものだ。神様がそういう風に創ったんだ。……深く考えたってどうしようもないよ」
「ふうん……」
ダンバーはそれ以上の追究を諦めて、ハーレイの丸い頬をつついた。
幼い末弟はきゃっきゃと笑って足をばたつかせる。おむつの紐を結んでいたグスターヴァスが、思いきり左手を蹴られた。
「いたた。こんなに小さいのに、意外と脚力強いんだね」
右手が左手をさするのを、ダンバーはぼんやりと見つめていた。
四つ年上のグスターヴァスの手は、鳥が翼を広げたように大きい。毎日の仕事や剣術の稽古で荒れた皮膚は、ダンバーにとってはむしろ美しかった。謙虚な逞しさと、自分を絶対に裏切らない誠実さが表れているように思われた。
この手が「よく頑張ったね」と頭を撫でてくれたらどんなにかいいだろう。
「どうかした?」
「……別に」
ダンバーは視線を逸らし、胸をよぎった願望を恥じた。
努力したところで、褒めてくれる人もねぎらってくれる人もいないのは残念だ。だからといって、グスターヴァスに甘えるとは。
しかし年長のグスターヴァスは、ダンバーが隠そうとする欲求を敏感に察した。
「元気出して」
グスターヴァスも、ダンバーを励ませるのは嬉しい。
けれども肩を叩いて励ますのは、もう馴れ馴れしすぎる気がした。ダンバーの成長は早く、身体はもう大人同然である。その肩の厚さに戸惑ったグスターヴァスは、これから夕食の支度を手伝ってくるのだと言って、そそくさと部屋を出て行く。
ダンバーはほんの一瞬感じたグスターヴァスの体温を記憶に繋ぎ止めようとしていた。まったく意識してのことではなかった。
「あーいー」
ハーレイがけらけらと笑った。意味をなさない言葉で、兄を慰めようとしているのだろうか。
兄は声もなく微笑んだ。弟への親愛と、自嘲を込めて。
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