外伝集 暁天/払暁Ⅱ

泡野瑤子

カイハーン

カイハーン

 重版出来じゅうはんしゅったい

 映画化決定!


 満員の地下鉄を降り、改札をくぐり抜けたカシーダ・カイハーンは、うんざりした目つきで巨大なポスターを見送った。

隠者いんじゃ払暁ふつぎょうねむる』――半年前、史学書の専門出版社だったソアント出版が、創業百周年を記念して初めて出版した歴史小説だ。自宅の最寄り駅に宣伝ポスターがあるから、出勤時と退勤時にいやでも目に入る。従来のニアーダにはなかった歴史解釈と、作者不詳というミステリアスさが話題を呼び、ここ最近ニアーダ国内でベストセラーになっている。

 が、まさか映画にまでなるとは。個人的には「あの小説の何がいいんだ?」と思っているが、いい小説と売れる小説は必ずしもイコールではないのがこの業界の常だ。

 ソアント出版とは別の出版社で文芸部門の編集部員をやっているカシーダは、この本のおかげでそれなりに迷惑をこうむった。売上をごっそり持っていかれて業績査定に著しく響いたし、「うちもあんなヒット作が欲しい」と社長が無責任な期待を寄せてくる。馬鹿言うな、そう簡単にベストセラーが作れるものか。

 迷惑なのは、それだけではなかった。

 ――あの小説に出てくる『カイハーン氏』ってお前だろ?

 電話で、メールで、または直接、学生時代の友人や親戚たちに、何度そう言われたことか。そのたびにカシーダは「違うよ」と説明をせねばならなかった。

 確かにカシーダの苗字も「カイハーン」だし、ソアント大学卒で出版社勤めなのは同じだが、ソアント出版の編集部員「カイハーン氏」とは全くの別人である。

 カシーダが勤めているのはソアント出版みたいな大手ではなく、ナンシーン出版という弱小の出版社だし、カシーダは文学部卒だから、歴史学部のターミ・ポアット教授の教え子でもない。

 そもそもあちらの「カイハーン氏」は仮名かめいで、よしんば本名だったとしてもニアーダではよくある苗字なのである。そう書いてあるだろ、ちゃんと読めよ――うんざりしながら答えた後、カシーダは必ず最後にそう付け加えた。

 ただ、「カイハーン氏」と間違えられるよりも、もっと迷惑な勘違いをされることもあるのだ。

 カシーダはニアーダの首都チェンマ市内にあるアパートメントに住んでいる。市の中心部に近いため、古い割に家賃はなかなかお高いのだが、ここに住んでいるには理由があった。

「あ、お兄ちゃん、おかえりー」

 帰宅したとき、居間の座卓では弟のウェサンがノートPCに向かっていた。

 頬杖を突く弟の傍らには、その座高と同じくらい本が積まれていた。点いているだけのテレビが、誰にともなく新商品のチョコレート菓子をやかましく宣伝している。

「ウェサン、メシは食ったのか」

「まだだよ。『近代ラマヤット史』のレポートが終わらなくてさー」

 カシーダは弟とふたり暮らしだ。実家はニアーダの北西、ジョナワットの茶農家である。ウェサンはかつての兄と同じくソアント大生だが、歴史学部生なのと学費全額免除の奨学生なのは異なる。

 学費が浮くほど優秀な弟を贔屓ひいきした両親は、進学に当たってチェンマで働いている兄と同居させることを勝手に決めてしまった。こぢんまりとしたキッチン付きの居間と、ベッドでほとんど埋まる寝室が二つあるだけの西方風のアパートメントは、兄の勤め先よりもソアント大学に至近である。

 やれやれ。

 ネクタイを緩めながら、カシーダは冷蔵庫を開けた。

 ずっと家にいるのなら夕飯の支度をしておいてくれたらありがたいのだが、歴史以外に興味がない弟には期待するだけ無駄というものだ。

 まず鍋にお湯を沸かし、粉末の牛骨スープと魚醤ロドスを目分量で入れる。冷凍しておいた二人分の米を煮て塩で味を調え、煮立ったら溶き卵をひと回し。最後にこれまた冷凍しておいたパクチーのみじん切りを入れたら、ニアーダ風の卵粥ニャートクの完成だ。買い置きの鶏ハムをいくらかスライスして電子レンジで温めれば、とりあえず夕飯らしいものができあがる。

「ほら、メシにするぞ。パソコンと本をどけろ」

「ありがとー」

 ウェサンの動作はのんびりだ。早くしろよこっちは残業明けで腹減ってんだよ……などと急かすのも、もう諦めている。カシーダが何気なくテレビを消すと、部屋は一気に静かになった。

「今日テレビでさ、あの小説の特集やってた」

 ニャートクをひとすすりしたウェサンが、だしぬけに言った。

「『あの小説』?」

 カシーダはあえて分からないふりをした。

「あれだよ、『隠者は払暁に眠る』。今度ポトラントと共同制作で映画化するって」

「ああ、そうらしいな」

「それでね、アテュイス王役の俳優決まったらしいんだけど、誰だと思う?」

 弟が口にした名前は、ある中年俳優の名前だった。ニアーダでは国民的な大スターで、もう五十歳を過ぎているのに美男子ぶりは衰えを知らない。カシーダから見ても素晴らしい俳優だと思う。だが。

「アテュイス王にしては、線が細すぎないか」

「でしょー? 兄さんならそう言うと思った」

「俺はあの小説のアテュイス王描写に納得してないからな。アテュイス王は『妖精王サイオシス』なんて柄じゃない。どの歴史書を見ても、兵学に明るく武芸百般に通じて毎日鍛錬を欠かさなかったって書いてある。ユーゴーに囚われた後に夜な夜な花の世話をしてたなんて、とても考えられない」

「遠くからキョウ族の子どもを弓で射殺すくらいだもんね。自分の手を汚さないニアーダ歴代の王の中では、明らかに異質だ」

「だよな? 当時としてはなかなか大柄な人物だったようだし、もし俺がハーレイ少年なら夜中にアテュイス王に遭遇したら卒倒するね。『あの小説』は、全体的に妄想が過ぎるんだよ」

 ウェサンが急に黙った。かと思うと、口角に米粒をつけたままでにやにや笑っている。

「なんだよ」

「いや、兄さんってほんと、『あの小説』のことになるとムキになるなあと思って」

「別にムキになんかなってねえよ。ただ、俺とは解釈違いだってだけ」

「ま、兄さんなら、そうだろうね」

 カシーダが狙っていた鶏ハムの最後のひと切れを、ウェサンが奪い去った。兄に対する遠慮というものがないのか。

「なんで『あの小説』の作者が、カシーダ兄さんだなんて思う人がいたんだろうね?」

 嫌なことを言う。

「……知らねえよ」

 思わずむっとして、素っ気ない返事をした。

 ――あの小説の作者って、本当はお前なんだろ?

 それは、「カイハーン氏(仮名)」と間違われるより、もっとカシーダをうんざりさせる質問だった。

 確かに、カシーダは歴史が好きだった。アテュイス王が生きたニアーダ第一王政時代のことなら歴史学部の学生よりもずっと詳しく、題材に小説も書いていた。完成したら、どこかの賞に応募するか出版社に持ち込みするつもりだった。大学の文芸クラブでは一目置かれる存在だったし、自分でも将来は小説家になるのだろうと漠然と思っていた。だが、ならなかった。なれなかった。

 ――いや、なろうとしなかったのだ。

 カシーダが大学卒業を半年後に控えていた頃。卒業論文の傍らで小説も書き進めていたが、もう少しというところで行き詰まってしまった。拡がりすぎた想像をまとめ上げられずに、次の展開を定めあぐねていた。

 そんなとき、文学部の教授から就職先を斡旋あっせんしてやると言われ、いまのナンシーン出版を勧められた。

 断る選択肢は、カシーダにはなかった。翌年から入学する弟の学費を稼がなければならない(と、そのときは思っていた。まさか全額免除になるとは!)のだから、安定した職業を得るのが先決だ。小説はある程度仕事に慣れてから書けばいい、そう思った。

 けれども、卒業論文と「体験入社」という名目のアルバイトで忙殺されているうちに、カシーダは書きかけの小説を忘れた。原稿のデータは、PCを買い換える際にうっかり消去してしまった。

 だから、カシーダの小説は「あの小説」ではない。カシーダの小説は、未完のまま、誰にも読まれないまま、この世界から消えてなくなってしまったのだ。

「兄さんは、もう小説書かないの?」

 危うく粥を噴き出すところだった。ウェサンは本当に遠慮がない。いや、容赦がないというべきか。

「書かねえよ。毎日忙しいし、データも残ってねえし」

「そっかぁ……」

 ウェサンはまた静かになった。何でもずけずけ言う奴が黙るのは怖い。ニャートクを咀嚼そしゃくする音だけが、狭い居間に響き渡る。

「……念のため言っとくけど、別に、働かなきゃいけなくなったからやめたわけじゃねえよ」

 空いた食器を手に、カシーダは立ち上がった。

 今日のように残業で遅くなった日は、食器を水を溜めたシンクに漬けて、明日洗っておくよう弟に命じる(だが結局忘れられて明日自分で洗う)ところだが、今日はすぐに蛇口をひねった。

「完成させる力がなかっただけなんだ」

 聞かれたくない部分は、水音に紛れさせた。

 ウェサンは「え、何?」と聞き返し、辛抱強く答えを待っている。しばしそれを無視して、カシーダはさして汚れてもいない椀をスポンジでごしごしこすった。

 心底うんざりする。自分のダサさに。

 本当はただ実力不足で小説の完成を断念しただけなのに、就職と弟の進学を言い訳にしたのだ。そのくせ、玄人くろうと気取りで「あの小説」にはああだこうだ言っているのだから。

 長いため息を吐き出して、カシーダは水を止めた。

「お前のために書くのをやめたわけじゃねえって言ってんの」

 背を向けたまま言った。

 ほら、食い終わったなら食器持って来いよ。カシーダが催促すると、ウェサンは箸をくわえたままでのろのろと立ち上がった。

「……兄さんて、すごいね」

「は?」

「僕が何を考えてたのか、分かったんだ」

 隣に立った弟は、いつの間にかカシーダと肩を並べるほどに背が伸びていた。それでも、歴史に対する探究心と、ボサボサの髪の毛と、素直なところは子どもの頃からちっとも変わっていない。

 少しばかり得意になって、カシーダは弟の口から箸を引っこ抜いて、「当たり前だろ」と答えた。

「俺だって、お前の兄さんなんだから」

 再び蛇口に手をかけると、ウェサンがフフッと笑った。

「『あの小説』のクロード皇子も同じこと言ってたよ」

「ああ、それも解釈違いだ。俺は、クロード皇子が追放されたのは、単にほかの兄弟と不仲だったからだと思ってる。そもそもポアット教授も書いてたように、サナミアなんて女性は実在してないし、ユーゴーの歴代皇帝は、当たり前のように自分の兄弟を殺したり追放したりして帝位を得てきた。ひょっとすると、まだ少年だったハーレイ一世の差し金だったのかもしれないぞ。そう考えるとダンバー皇太子の暗殺も、塩田一揆も全部きな臭く思えるな……」

「はいはい、そこまでそこまでー。妄想が過ぎるのは、兄さんもどっこいどっこいだね」

 弟と一緒に笑いながら、カシーダは「あの小説」の作者が誰なのか分かった気がした。

 きっと自分と同じだ。カイハーン姓と同じくらい、どこにでもいるありふれた誰か。

「……ま、それも妄想かもな」

 口をついて出た言葉に、弟が首を傾げる。「何でもない」と笑った後、カシーダは言葉を継いだ。

「また書いてもいいかもな。あんまり長いのは無理だけど」

「ほんと? できたら読ませてよ」

「やだよ。歴史学部生のお前に見せられるようなもん書けねえよ」

「じゃあ僕が監修してあげるから」

「余計いやだわ」

「なんでさー!」

 いいから早くレポートの続きやれよ。カシーダは無理矢理ウェサンを押し返して、皿洗いを再開した。

「あの小説」は、どちらかというと嫌いだ。

 でも、悪くはないと思う。

 いまこの国のどこかで、『あの小説』に触発された誰かが、真っ白な原稿用紙に最初の一文字を綴る。想像するだけで胸が踊る。できればそれを読んでみたいとも思う。カシーダは小説が好きだ。

 明日は、どんな小説が生まれるだろうか。 

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