第4話 たった二分の距離
それから一週間、真二郎からは何の音沙汰もなかった。
礼一郎はカウンターに腰かけ、ぼんやりと煙を吐き出した。灰皿にはこんもりと吸殻が積もっている。
控えめな鈴の音がして扉がそっと開いた。目を上げると、すいかのような腹をコートに包んだ女が顔を覗かせた。
「涼子ちゃん……」
「入ってもいいですか」
礼一郎が慌てて煙草を消すと、涼子はおずおずと店内を見回しながら近づいた。
「こういうお店、初めてで。なんか、興味があって」
「どうぞ、座って」
丸椅子を差し出すと涼子は大儀そうな仕草で腰かけた。
「そんなお腹で出かけて大丈夫なの?」
「大丈夫、ちょうどいい運動になるから」
笑いかけた涼子の顔は少し疲れている。
「真二郎は……」
「──落ち込んでます。この一週間、ほとんど口をきいてくれなくて。気にしないでって言っても、駄目で。あの人、男ぶってるけど、本当は繊細で気が小さいでしょ……自分が礼さんにしたこと、すごく後悔してるの」
涼子はまっすぐ礼一郎を見上げた。
「礼さんが彼を恨んでるのはよく分かった。でもあんなやり方はひどい。いくら兄弟でもひとの家庭を壊すような真似はしないで下さい」
抑えた言い方だったが声には芯があった。
「……ごめん」
目を伏せた礼一郎の喉仏がぐっと上下する。
「なんだか羨ましくって。可愛い娘とお腹の大きな奥さんがいてさ。絵に描いたような幸せな家庭を見せつけられたら、悔しくなっちゃって」
恥ずかしいね。弟の幸せに嫉妬するなんて。あいつの汚点を晒すつもりがかえって自分が惨めになっちゃった。
そう言って礼一郎はひっそりと自嘲した。
「……知ってる? 私と真二郎の生まれた時差。二分」
「二分?」
「そう、たったの。本当はね、兄だの弟だのってどうでもいいんだ。たまたま私が先に生まれただけなんだから」
カウンターへ入り、ポットを火にかけながら小さくため息をつく。
「なのに、どんどん離れて、もうレイくんともシンちゃんとも呼べなくなって、今じゃ他人。悲しいよね。たった二分の距離が、いつの間にかこんなに遠くなってしまうなんて」
「そんな。今ならまだ戻れるはずです」
無理だよ、と礼一郎は小さく首を振った。
「一度離れたものはもう戻らないもの。だからもういいの。これがお互いのため。せっかく涼子ちゃんやほのかちゃんとも出会えたのに。ごめんね、こんな下らない関係に巻き込んでしまって」
表情を翳らせた涼子を見て礼一郎は苦笑した。
「そんな顔しないで。カフェオレでいい? 今日ぐらいゆっくりしていって」
そう言うとカップを二つ取り出した。ドリップの白い湯気がふわりと立つ。
少しの間沈黙が流れた。
「──お店の名前」
「ん?」
「ジュモーって、双子って意味ですよね」
「よく知ってるのね」
「自分の店にそんな名前つけるなんて、本当は礼さんだって──」
言いかけた涼子がふいに小さく息を呑んだ。
礼一郎は顔を上げた。涼子が強張った顔でこちらを見つめている。
「どうしたの?」
「礼さん……私、カフェオレ飲めないかも」
涼子の座った丸椅子を見て礼一郎は目を見張った。深紅のカバーがじっとりと濡れている。
「涼子ちゃん!」
思わず叫ぶとカウンターから飛び出した。
*
足音を響かせて廊下をやってきた真二郎は、分娩室の前でベンチにうずくまっている礼一郎を見ると小走りに詰め寄った。
「なんでお前が……涼子に何があった?!」
「店で破水して。私そういうの全然分からないから、涼子ちゃんに言われるままここまで」
「今どうしてる?」
「さっきからこの部屋にいる。色んな人が出たり入ったり」
真二郎は苛々とベンチに座りこんだ。場所が場所でなければ兄の胸ぐらを掴みたいところだ。なぜよりによってお前の店でこんなことに。
「涼子ちゃん、話をしに来たの。私たちのこと心配して」
真二郎の気持ちを察したように礼一郎が言いかけたところへ、分娩室から看護師が出てきた。
「えっと、お父さんはどちら?」
「俺です!」
食うようにして真二郎が立ち上がる。
「緊急帝王切開になります。同意書にサインを」
それを聞いた礼一郎が飛び上がった。
「大丈夫ですよね? ちゃんと生まれるのよね、大丈夫よね?!」
「それを今からするところです。静かにしていただけますか」
叱られた犬のような顔で、礼一郎は再びベンチに座りこんだ。
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