第5話 ゆきどけ

 永遠とも思える時間だった。

 待合室の中を行ったり来たり、椅子に座ったかと思えばまた立ち上がり、扉へと目をやってはため息をつき。

 自分一人ならともかく、そばにいる礼一郎まで同じことをしているのだから、真二郎は迷惑なような心強いような、複雑な気分だった。



「──あのさ、こんな時に言うことじゃないんだけど」


 長椅子の隅で小さくなっていた礼一郎が、ためらいがちに声をかけた。


「こないだはごめん」

「……今そんな話すんな」

「分かってる。だけど、言い残したことがあって」

「また恨み言か」

「違うの」


 緊張して乾いた唇を湿らせると、おもむろに口を開く。


「今だから判ることなんだけど。私はこれでよかったって思ってる」

「何が?」

「想像したの。もしあのまま無事に大学を卒業して、就職してたら? そのうち結婚しろ、子どもを見せろって言われて。自分に嘘をついたまま、ずるずると流されることになる」


 黙っている真二郎の傍らで礼一郎は訥々と続ける。


「後回しにすればするほど、本当のことが言えなくなる。手遅れになる。そうじゃない? どっちにしろごまかしながら一生を終えることは無理だったもの……だから、早い方が、若いうちの方がよかった。ずいぶん手荒いやり方だったけど、あんたがしたことは、結果的に私を助けてくれたの」


 真二郎は思わず兄を見返した。


「……だから、これでよかったの。おかげで私は今、自分を偽らずに生きてる」


 そう言うと礼一郎は小さく微笑んで見せた。

 真二郎は兄の顔を見つめた。腹の底で淀んだ何かがすうっと溶けてゆく。


 ──お前は、俺を許そうとしているのか?

 喉元から言葉が出かかった。


 その瞬間。

 ふいに待合室の扉が開き、看護師が姿を現した。


「おめでとうございます! 元気な女の子です!」


  *


 ガラス張りの新生児室には、透明なベッドに収まった赤ん坊たちが並んで眠っていた。

 みな一様にまん丸いほっぺたを膨らませている。楓よりも小さな手がはみ出ている子もいる。時々ピクリと反射的に動いては、また脱力して穏やかな眠りに落ちる。


 新生児が並ぶ光景は可愛らしいが、三十も半ばの男が二人並んでガラス窓に張りついているのは妙な眺めだ。


 窓に額をこすりつけるように赤ん坊を凝視している礼一郎を見て、真二郎はふっと可笑しくなった。兄にこんな顔があるとは想像もしなかった。



 娘の誕生を告げられた時、二人はどちらからともなく抱き合っていた。涙で互いの服を濡らしながら、ただひたすら肩を叩き合った。真二郎も泣いていたが、礼一郎はさらに輪をかけてボロボロと涙を零していた。こんなに泣かれてはどちらが父親だか分かりやしない。

 だが、子どもの誕生を我が事のように喜んでいる姿を見ると、真二郎には別の熱いものがこみ上げてくるのだった。



「あ、動いた!」


 礼一郎は赤く腫らした目を真二郎に向けて笑いかけた。


「可愛いね。目の中に入れられるよね。これなら命を投げ出してもいいと思えるよね」

「ああ、思えるよね」

「私たちも、こんなだったんだね」

「きっと、もっと小さかったろうよ」


 小さな布団に並ぶ赤ん坊の自分たちを思い浮かべ、真二郎は胸の中に甘酸っぱい感触を覚えた。


「真二郎。ありがと」


 ふいに礼一郎がしみじみとした口調になる。


「あんたがいなかったら私は一生こんな経験できなかった。涼子ちゃんが破水した時はもうパニックでさ。救急車? タクシー? どこへ電話すればいいの? どうすればいいの? 訳分からなくなって、店のおしぼりありったけ出して」


 その時のことを思い出したのか、礼一郎は恥ずかしそうに笑った。


「帝王切開って聞いた時は怖くて怖くて、体じゅう冷たくなって。そしたらこうして無事に……父親って、こういう気持ちを味わえるんだね。幸せだね……私、あんたのおかげでそれを味わわせてもらったよ。──だから、ありがと」


 真二郎は赤面した。こんなに素直な言葉を投げられるとなんだか体が痒くなる。

 

「じゃ、さっき言ってたこと、信じていいのか。俺のこと……俺のしたこと」

「ああ、それ」

「……許してくれるのか」


 礼一郎はガラスの向こうの赤ん坊に目をやると、悪戯っぽく笑った。


「恩赦よ。この子に免じて」

「なんだよそれ」

「冗談よ。もういいの。何度も言わせないで。……で、あんたはどうなの」

「俺?」

「私を、まだ家族だと思ってくれるの?」


 おどけた口調だが、瞳には切実な色が浮かんでいる。

 真二郎はひとつ咳払いしてからこう言った。


「あのさ、退院したら、またショートケーキ持ってうちに来てくれよ。ほのかとも、もっと遊んでやってほしいし」


 礼一郎は驚いたような目で弟を見上げた。それからプッと吹き出すと、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。母親似の上唇がめくれあがり、真二郎はそれを今さらのように懐かしいと思った。



「……じゃ、私、行くわ。店開けなきゃ」

「またマリリンか」

「そうだよ。あんたは雇われ社員だけど、私はこれでも一国一城のあるじだからね。悪酔いしたかったらまたおいで」


 憎まれ口を叩いて礼一郎はガラス窓から離れる。


「それから、涼子ちゃんによろしく伝えてね。くれぐれも大事にするのよ」

「分かってるよ。──あ、なあ、」


 行きかけた背中を呼び止める。


「この子が出かけられるようになったら、みんなで母さんのところへ行かないか。お披露目がてら、一緒に」


 見せたいものは、孫と、それから──


 こらえたものが溢れ、泣き笑いの顔になった礼一郎の隣に寄り添うように並ぶ。


 これが、俺たちのあるべき姿だ。

 十五年の空白は、これからゆっくり埋めていけばいい。


「行こう。下まで送るよ」


 背丈の違う二人の男は、新生児の小さな手に送られながら、肩を並べて廊下を歩きだした。



 了

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おとうと 柊圭介 @labelleforet

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