第3話 悪魔のようなあいつ

 日曜日の午後はすっきりとした小春日和だった。妻の涼子は朝から掃除ばかりして落ち着かない。体に障るから動くなと言っても何かしていないと気が済まないようだ。そばでは三歳になる娘のほのかまで母の真似をして人形をひっきりなしに着せ替えている。


 消息不明の兄に再会したことを話した時、涼子は目を見開き、自分のことのように喜んでくれた。ゴタゴタした家庭事情を嫌がられるのではと心配していたのはまったくの杞憂だった。

 この女を妻にしてよかったと思うことは何度もあるが、今日も涼子の明るさに救いを感じる。お腹のせり出した可愛らしい姿も、真二郎の緊張を和らげてくれた。


  *


「ねえ、これみて」

「あら素敵、ほのかちゃんが描いたの?」

「うん。これはパパ。これはママ」

「上手だねえ」

 

 ソファに腰かけた礼一郎は笑みを絶やさずに娘の相手をしている。いちごのショートケーキを余るほど買ってきた兄は、涼子ともすぐに打ち解けた。客商売で鍛えた如才のなさかも知れないが、自然に弾む会話と穏やかに流れる時間に、真二郎は心から安堵していた。



「私、小さい頃こんな格好してみたかったんだ。いつもお揃いの男の子の服を着せられてたから。つまんなくて」


 ワンピース姿のほのかを眺めながら礼一郎がぼそりと呟く。


「ちょっと、不躾なこと訊くんですけど」

 ケーキに乗ったいちごを頬張りながら涼子が言った。


「礼さんって、いつから分かったんですか。その、自分が、ゲイだってこと」


 飲みかけた紅茶が喉に詰まり真二郎はむせそうになった。


「おい、そんな話」

「いいんだよ。そうだな……中学生の時かな」

「へえ」

「でも、誰かと付き合ったのは大学生になってから。それまではひたすらエロ本」

「そうなんだ」


 涼子はクスクス笑いながら真二郎に向き直った。


「ね、真ちゃんは知ってたの? 礼さんのこと」

「あ、いや、俺は、」

「知ってたよ、真二郎は」


 礼一郎がすかさず挟んだ。真二郎はハッとして兄を見返した。


「知っててね、知らないふりしてくれてたの。優しいよね」

「俺は、」

「この人には何でも分かっちゃう。双子のテレパシーかな。でもどうせならずっと知らないふりをしてくれればよかったのに」


 そのひと言を涼子は聞き逃さなかった。


「どういうこと?」


 礼一郎は小さく笑うと、ひと呼吸おいてから話し始めた。


「私ね、大学の時に父の部下と付き合ってたの。父はその人をすごく可愛がってて、独身だからよく家にも食事に来てて。私は彼のことがずっと好きだった。もちろん付き合ってることは秘密よ。父はそういうの許さないって分かってたから。だけど、ある日匿名の電話がかかってきたの、父のところに。──お宅のご長男とあなたの部下はデキてますよ、って」


 真二郎の背中がすうっと冷たくなる。


「おかげで父に問いただされた。私は正直に白状したの。その電話があんまりショックで、ごまかすこともできなかった」

「やめろよ、なんで今そんな話するんだ」

「大事なことだから、涼子ちゃんは知っといた方がいいと思って」

「どういう意味?」


 涼子の眉間が曇る。


「私は家を出て、あと一年だった大学も辞めちゃった。決まりかけてた就職も取り消し。彼は会社を辞めて、それっきり音信不通になった。全部終わったの、たった一本の電話で。……でもね、それで得した人もいるのよ。私の代わりにコネ就職して、最近はめでたくご昇進なさって。だから万々ざ──」


 涼子が口を挟んだ。


「ちょっと待って。その匿名の電話したのって……」


 礼一郎は涼子の目をまっすぐに見て言った。


「真二郎よ」

 

 涼子は絶句して真二郎へ視線を向けた。

 真二郎は大きくため息をつくと天井を仰いだ。


  *

 

 魔がさした、としか言いようがなかった。

 あの時、受話器に手を当てて声色を作り、父の内線に洗いざらい暴露したことを、真二郎は昨日のことのように覚えている。


 大学四年にしてまだめぼしい就職先がなかった。父の伝手ですでに関連会社に決まりかけていた兄とは歴然と差がつけられていた。

 双子だというのに何事も二番手の自分を差し置き、礼一郎はその名のとおり長男の冠を戴いて真二郎の上に立ちはだかっている。

 鬱憤と嫉妬のかたまりから、ほんの溜飲を下げるための悪戯のつもりだった。兄はお灸を据えられてお仕舞いになるだろうと思っていた。まさか、出ていくとは思ってもみなかった。

 忘れようとしても忘れられない、鉛のような自責が腹の底で淀んでいる。

 

 それを今さら、この場で掘り起こされるとは。



 兄が帰った後はただ重たい空気が残っただけだった。


「レイちゃん、またくる?」

「さあねえ……」


 あどけない娘の声も首をかしげて微笑む妻の顔もよそよそしく感じた。


 迂闊だった。

 してやられた。

 少しでも気を許したのが馬鹿だった──


 苛立ちに任せて、真二郎は食いかけの真っ白なケーキにフォークを突き立てた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る