第7話 この家の娘

 翌朝、カーテンの隙間から覗く陽射しに起こされ、秘翠はベッドの中で伸びをした。

 今まで、眠るのは長年使い古した布団の上だった。綿がすっかり柔らかさを失ったそれの上、気持ちよく眠った記憶はない。しかし今日は、何とも目覚めが良い。


(でも、夢を見たと思う。……内容は、忘れちゃったけど)


 良い気持ちの中に、少しだけ混ざる不安。秘翠は首を横に振って雑念を払うと、隣にいたはずの未来がいないことに気付いた。何処に行ったのかと上半身を起こすと、未来はパジャマを脱いで普段着に着替えているところだ。

 長袖のワンピース姿の未来は、長い髪をピンク色のシュシュでくくった。それから物音に気付いたのか、秘翠の方を振り返る。ぱっと笑みを浮かべ、軽い足取りでベッドに近付いた。


「おはようございます、秘翠さん。よく寝られましたか?」

「お蔭様で。おはよう、未来ちゃん」


 未来につられて笑顔を浮かべた秘翠は、そっとベッドから下りる。それから未来の服を借り、寝間着から着替えた。大きめのシャツワンピースから、和佐が置いていったという白のブラウスと藍色のジャンパースカートを身に着ける。

 着方がわからない秘翠だったが、それも未来が丁寧に教えた。体の前側にたくさんついているボタンをかければ、帯などを巻かずとも衣服が安定する。

 それから二人して一階に下りると、既に碧と雄青、和佐が居間にそろっていた。雄青は新聞を読んでおり、和佐はキッチンでフライパンを操っている。碧はテレビを見ながらも、手は人数分のコップを並べるために動いていた。


「起きたのか。おはよう、二人共」

「おはよう、碧くん」

「おはよ、兄さん」


 秘翠と未来が起きて来たことに気付いた碧が、少しだけ眠そうな顔で挨拶する。黒のティーシャツと紺色のジャージズボン姿の彼は寝起きらしい。

 碧に返事をした秘翠は、未来に背を押されて食卓に足を進めた。テーブルの上には、新鮮そうなサラダと焼き立てのソーセージ、スクランブルエッグを乗せた皿が人数分置かれている。その彩りに目を奪われた秘翠は、トースターがパンを焼き上げた音に驚いた。


「これは?」

「トースター。パンを焼いていたんだけど……秘翠の住んでた所にはこれもないのか」

「うん、見たことないだけだと思うけど」


 まだ、碧たちには自分の境遇を話せていない。秘翠はそう言って誤魔化すと、未来に薦められるままに彼女の隣の席に腰を下ろした。そこへ、和佐と碧が焼き立てのトーストを持って来る。


「さあ、秘翠ちゃんもどうぞ」

「あ、ありがとうございます」

「頂こうか」


 雄青も新聞を畳んで食卓につき、五人分の「いただきます」がそろう。

 トーストにバターを塗った碧が、秘翠の方を見た。そして「ここで訊いても良いか」と尋ねる。秘翠が頷くと、碧は両親に向き直った。


「父さん、母さん。頼みたいことがあるんだ」

「秘翠ちゃんの件なら、帰れるようになるまでここに居たら良い。な、母さん」

「はい。昨日の夜、お父さんと話し合ってそういう結論に至ったのよ」

「え?」


 ぽかんとする碧と未来を放置し、和佐は目を丸くしていた秘翠と目を合わせて微笑んだ。


「あなたには深い事情があるのだろうって、お父さん……雄青さんが言ったの。そうでなかったとしても、こんな寒空の下で放り出すわけにはいかない。ここで事情が落ち着くまでは面倒を見ようって」

「本当に、良いのですか? その、わたしは自分のことを何もお話していません。もしかしたら、皆さんに多大な迷惑をかけるかもしれませんよ?」

「何があっても、息子が何とかするでしょう。そういう覚悟を持っていると思ったから、僕らは信じてみようとなったんだよ」


 秘翠の不安を打ち消すように、雄青は微笑む。


「きみは、今日からこの家の子だ。少しずつ、日常を学んでいきなさい」

「はい。ありがとうございます」


 深々と頭を下げ、秘翠は顔を上げると笑みを見せた。滝壺に落ちようと覚悟した時とはまた異なる、新たな自分への一歩を決めた表情だ。

 まだまだ固いが、いずれは年相応の表情も見せるだろう。雄青と和佐はそう考え、彼女を新たな家族として受け入れた。

 両親の適応能力の高さに驚かされながらも、話を聞いている間にトーストを食べ終わった碧が頭を下げる。普段そんなことは滅多にしないため、家族を驚かせた。

 どうしたのかと雄青が問えば、碧は照れて目を逸らしながらも応じる。


「父さん、母さん。……ありがとう。秘翠を護ってくれて」

「構わないよ。それに、楽しくなりそうだ」

「あなたたちの気持ちが伝わったからね。――ほら、冷えてしまうから食べちゃって!」


 和佐に急かされ、秘翠たちは朝食を慌てて口に運んだ。パリッとした外身とふわふわとした食感のトーストは、その温かさもあって秘翠の気持ちにじんわりと染み込んで行った。

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