第5話 顔合わせ

 碧の背を見送り、秘翠は未来に手を引かれて食卓についた。そこには彼女が見たこともない料理が並び、息を呑む。


「あの、これは」

「カレーライス、知らないんですか!? えっと、人参とかじゃがいもとかが入っていて、スパイスっていう香辛料……辛さのもと? をもとにルー、この茶色い液体を作ってご飯にかけた料理のことです。ああ、説明難しいっ」

「カレーライス……」

「良い匂いですし、お母さんのはとってもおいしいです。このスプーンを使って、食べてみて下さい」

「うん」


 未来の見様見真似をして、秘翠はスプーンですくった。するとピリッとした辛さの後にうまみが広がり、ぱっと表情を明るくする。


「おいしい!」

「ですよね! でも、カレーライスも知らないなんて、秘翠さんって何処から来たんですか?」

「それは……」

「今は訊いてやるなよ、未来」

「お帰り、兄さん」

「あ、お帰りなさい」


 秘翠と未来が振り返ると、タオルで髪をわしゃわしゃと乾かしている碧の姿があった。彼は黒のジャージ上下を着て、未来に向かってわずかに眉をひそめる。


「さっき言った通りの状況で、まだ落ち着けてないだろ。俺は秘翠が話しても良いと思えるようになってから話してくれれば良いと思う」

「それも、そうだね。ごめんね、秘翠さん」

「いえ、気にしないで。でも……ごめんなさい、今は」


 目を伏せ、秘翠はすまなそうに声を震わせた。しかしそれ以上自分について語るつもりはなく、口をつぐむだけだ。

 何となく、空気が湿っぽい。碧は空咳をして、さっさと手を合わせて「いただきます」と言ってからカレーライスをかき込んだ。

 ごくんと最後の一口を食べ終えると、碧はシンクに空の食器を持って行きながら未来に頼み事をした。


「兎に角、秘翠は今夜未来の部屋で一緒に寝させてやってくれるか。ここは客間もないしな。父さんと母さんには俺から説明するから」

「わかった。じゃあ、後で案内するね。秘翠さん」

「うん、お願いします」


 秘翠が今夜どうするのか決まり、兄弟はそろって食事の片付けをし始めた。彼らがキッチンに立つ後ろ姿をソファーに座って見ながら、秘翠はふと考える。


(きょうだいがいたら、ああいう感じなのかな?)


 弟はいるが会ったことのない秘翠にとって、そして家族との縁の薄い彼女にとって、碧と未来の様子は新鮮で羨ましいものだ。羨ましくもあり、同時に心が穏やかになる。

 片付けを終えて三人でテレビを見ながら、碧と未来は秘翠に日常の当たり前を教えていく。例えば、玄関脇に置いてあったのは自転車ということ。子どもは学校に行くこと。碧は高校に、未来は小学校に通っていること。

 碧たちが当然だと思うことでも、秘翠にとっては未知のことだ。十年間世間と隔絶された生活を送って来た彼女は、碧たちの話を興味深く聞いていた。

 その時、玄関で二人分のただいまが聞こえた。未来がまず駆けて行き、碧もソファーから立ち上がって戸惑う秘翠に肩を竦めてみせた。


「父さんと母さんだ。今日は同時帰宅みたいだな」

「ご両親?」

「そう。……秘翠のこと、説明しないとな」


 碧は秘翠を待たせ、玄関へと歩いて行く。玄関を覗くと、未来が母親に抱き付いているところだった。


「お帰り。父さん、母さん」

「ただいま、碧。もうご飯食べた?」

「ただいま、碧。今夜はカレーだって聞いたぞ。楽しみだ」

 碧と未来の母は、渡辺和佐かずさ。近所のスーパーマーケットでレジ打ちのパートをしている。週に三日ほどシフトを入れ、時折レジ閉めも任されるプロだ。実の父が剣道の道場を経営しており、彼女も師範代の腕前を持つ。

 兄妹の父は渡辺雄青ゆうせい。全国展開している大型書店の経営管理部で働いている。休日の半分は大学時代の専門だった日本古代史を研究に費やし、アマチュア歴史家として各地の発掘現場を見学しに行っていることもある。その小旅行には碧も幼い頃から連れて行かれていたため、普通の高校生よりも日本史には詳しい。ただ、その分野は教科書に載っていない範囲も含まれるため、全てが学校の成績に還元されるわけではないが。


「父さん母さん、話があるんだ」


 両親が居間に行く前に、と碧は話を切り出す。未来も兄が何を言おうとしているのか察し、同調するように頷く。

 和佐と雄青は互いに顔を見合わせると、子どもたちの話を促す。


「どうかしたのか? 話してみなさい」

「今日、家に泊まらせてやりたい子がいるんだ。俺の友人で、未来も仲良くなってくれた」

「あのね、すっごく優しい女の子だよ。兄さんと同い年で、綺麗な人」

「帰りに自殺しかけていたところを止めさせて、行く所がないらしいから連れて帰って来た。……だめかな」

「まず、会わせてもらおうか」


 兄妹の説明を聞き、その上で雄青は靴を脱いだ。和佐も同意し、不安そうな子どもたちの視線を受けながら居間に入る。

 テレビの前のソファーに座るのではなく、秘翠は立ち上がって二人を迎えた。だぼっとしたシャツワンピースと少女の端正な顔立ちが不釣り合いで、雄青たちは思わず立ち尽くす。

 秘翠はやって来た雄青と和佐に気付くと、深々と頭を下げる。


「お初にお目にかかります。碧くんと未来さんに助けて頂いて、今日ここにお邪魔しております。秘翠と申します」

「これはご丁寧に。僕は渡辺雄青。こちらは妻の和佐だよ。きみは、秘翠さんと言うんだね」

「秘翠さん、初めまして。和佐です。訊きたいことはたくさんあるけれど、全ては明日にしましょう。あなたもみんなも、明日は土曜日だから。ゆっくり話せるわ」

「はい」


 まずは、追い出されることはない。そのことに安堵した秘翠は、未来に手を引かれて彼女の部屋に行くことになった。


「おやすみなさい。お父さん、お母さん。兄さんもね」

「……おやすみなさい」

「あ、ああ。また明日な、秘翠」


 翡翠色の瞳にじっと見詰められ、碧はわずかに目を逸らせた。秘翠はそれに気付かなかったが、隣にいた未来がニヤニヤと笑うのがわかる。碧はあえて妹に文句を言うことはなく、二人が仲良く廊下に消えるのを眺めていた。


「じゃあ、後を頼みます。おやすみなさい」


 碧も両親に挨拶を済ませると、さっさと自室に引き上げた。

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