第2章 初めての世界

第4話 未来

 ずぶ濡れだった服は風で少し乾いていたが、秘翠の服は体の線がわかるほど透けてしまった。それに気付いた碧が滝壺に飛び込む直前に脱ぎ捨てた制服のブレザーを彼女にはおらせ、二人で手を繋いだまま山を下りる。

 山道に人の影はなく、見咎められる心配はない。碧が秘翠に、この山は立ち入ることを禁じられた山なのだと説明した。その後も、人目につくことなく歩く。

 山を下りるとしばらくは寂しい田舎道が続くが、すぐに人家の明かりが目につくようになる。その人工的な明かりも住居の様子も、秘翠にとっては見慣れないものだ。家々が軒を連ね、知らない世界へと足を踏み入れる。


「あのっ」

「あ、あそこが俺の家。多分まだ両親は帰って来てないけど、妹はいるはず」

「あ……うん」


 あれは何か、それは何か。碧に尋ねる前に時間切れだ。秘翠はまだ訊くチャンスはあるだろうと思い直し、彼に導かれるままに家の前に立った。

 碧の家の前には胸の高さの小さな門が付けられており、設置された鍵を回すと開く。二階建ての住居の壁は白く、レンガ色の屋根が電灯に照らされている。隣には広いスペースがあり、自転車が三台置かれていた。自動車一台分のスペースが余っているが、碧の父が使っているために今はない。

 碧は鞄から取り出した鍵で戸を開け、家の中に向かって「ただいま」と叫ぶ。すると、二階から誰かが下りて来る足音が聞えて来た。


「お帰り、兄さん。遅かった……ね?」

未来みく、留守番ありがとな。彼女は」

「兄さん、彼女いたの!?」

「待て、違うっ」


 素っ頓狂な声を上げる未来に対し、碧は大慌てで弁明を試みる。そしてキャーキャー叫ぶ妹に事実を説明し終えたのは、帰宅してから五分後。この間、三人は玄関から全く動くことが出来なかった。


「……というわけで、連れて帰って来たんだ。帰る場所もなさそうだし、服もずぶ濡れだし、腹も減ったしな。未来、悪いんだけど」

「良いよ。でもまず、お風呂入って。二人共顔が疲れてるし、そのまま着替えても風邪ひきそう。沸かしてあるから、秘翠さんからどうぞ」

「あ、ありがとう」

「説明とかは頼むぞ、未来」


 碧が秘翠のことを頼むと、未来は笑って請け負った。


「任せて。秘翠さんこっち……って、靴履いてなかったの!? 血だらけだし、まずは足拭かなきゃね。タオル、持って来る。消毒は、お風呂に入ってからの方が良いか。兄さんの分もね。何で腕とか足とか怪我してるのよ」

「後ちゃんと説明する」


 騒がしく脱衣所に行った未来が戻って来て秘翠の世話を焼くのを見届けて、碧はタオルで全身を拭き始めた。濡れて気持ち悪かったが、風呂に入るまでの我慢である。それから、滝壺に飛び込む直前に放り投げた通学用鞄の中身を確認した。乱暴に扱ったはずだが、スマートフォンも無事だ。碧はほっと息をつくと、父母に帰宅したことをメールした。

 メールを打ち終えた時、丁度未来が碧のいる居間に戻って来た。聞けば、秘翠は風呂の入り方も知らなかったと言う。


「あの人、まるで現代の人じゃないみたい。お風呂は今までどうしてたのか訊いたら、世話役の人にしてもらってたって言うんだもん。小説の中のお嬢様みたいだね」

「まあ、服装からして浮世離れしてるしな。あれ、洗えそうか?」


 碧が懸念したのは、秘翠が身に着けていた巫女装束のような服だった。普段ジャージやティーシャツで過ごす碧にとって、平安貴族のような秘翠の服装はコスプレかと言いたくなるものだ。

 兄の懸念に対し、未来は軽く胸を叩いた。


「洗濯用せっけんで洗ってみる。お母さんに訊いてからだけどね。それまで、まず乾かそうと思うから、ベランダに干したよ」

「助かる。服も貸してくれたんだろ」

「あたしのじゃ少し小さいかと思ったけど、秘翠さん細いんだもん。大丈夫そう」

「そっか」


 碧は苦笑いし、未来に夕食の用意を頼んだ。とはいえ、母親が用意してくれたものをレンジで温めるだけなのだが。

 秘翠が未来より細い、というのは問題だろう。未来は小学六年生の十二歳。彼女よりも細いというのは、真面に食事を摂って来なかったということになる。


(そういえば、滝壺から引き上げた時も軽かったな)


 痩身の秘翠の姿を思い出し、碧は頭を振った。余計なことまで思い出しそうになったからだ。頬が熱くなり、慌てた。

 しばらくして浴室から音がして、未来が様子を見に行った。碧は秘翠が来る前にと鞄を自室に置き、着替えのジャージを持って居間に戻る。

 戻ると、丁度寝間着代わりの服に着替えた秘翠と鉢合わせした。風呂で体を温めた彼女の頬は上気し、髪も濡れて先程とはまた違う雰囲気を醸し出している。

 思わず固まる碧に対し、秘翠はふにゃりと微笑んだ。


「お風呂、ありがとう」

「いや、風邪ひくな……よ」

「ふふっ。兄さん、顔真っ赤」

「五月蠅いな」


 悪戯っ子の顔で笑う妹を無視し、碧は改めて秘翠を見て言葉を失った。


「……っ」

「あの、変、かな」

「いや、全然そんなことない。むしろかわ……」

「かわいいですよ、秘翠さん! あたしには少し大きいサイズなんですけど、ぴったりでしたね」


 未来が碧を手でどかすように秘翠の前に出て、女子二人で話している。除け者にされた碧だが、内心ではほっとしていた。自分が何を口走ろうとしていたかを思い出し、碧は一気に赤面する。

 秘翠は膝上丈の薄桃色のシャツワンピースを着て、頬を上気させている。濡れた髪が甘い雰囲気を作り出し、碧は彼女を直視出来ない。

 碧は軽く頭を振り、雑念を外に追い出そうとした。うまくはいかなかったが、それでも少しだけ落ち着く。そのまま二人の顔を見ることなく、風呂に入ろうと言葉を捨て置く。


「俺も風呂入って来る。未来、秘翠と一緒に先に食べててくれ」

「はーい」


 未来の返事を背に聞きながら、碧は半ば走るように居間を出て行った。

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