第3話 滝壺からの救出
「――かはっ。は、はぁー、死ぬかと思った」
「死んではない、か。けど、びっくりした……」
ようやく安堵の息をつき、碧はここに来るまでの自分の足取りを思い出した。
碧の住む地域には、大昔から山には鬼が住むという言い伝えがある。舞台となる隠れ山は、その名の通り鬼の隠れ里があると言われていた。しかしその山には冬でも凍らない滝があると噂され、碧は一度で良いからその滝を見てみたいと思っていた。
隠れ山は、人々が入ることを許されない禁断の地。迂闊に入れば鬼に食べられてしまう、と地域のお年寄りは皆口をそろえる。しかし碧は、鬼の存在をそもそも信じていなかった。どうせ、子供騙しの言い伝えだと心の何処かで思っていた。だから、放課後に友だちと別れた後、ふと思いついて一人で山に分け入ってみたのだ。滝を見付けたら、さっさと家に戻るつもりでいたはずだったのだが。
(まさか、女の子が滝から落ちて来るとは思わかなかったけど)
全身ずぶ濡れになり、額にくっついた前髪をかき上げる。碧は自分が滝壺から引きずり助けた少女を見詰め、彼女の美しさに息を呑んだ。
夕暮れの光に照らされた肌は白く、対して長く伸びた髪は黒々としている。少しパサついている気がしたが、それが気にならない程整った容貌をしていると思う。身に着けた衣服は所々擦り切れて白い肌が見え隠れし、白い巫女装束のような薄い布がぴったりと細い体に張り付いている。
碧はハッと我に返ると、そっと少女の肩に触れた。その細さにおののきながら、軽く揺さぶる。
「おい、起きてくれ。おいっ」
胸が上下していることから、少女が生きていることはわかる。しかし目覚めなかったらどうしよう、という怖さが碧にはあった。
何度か揺さぶりを繰り返すと、少女が身じろぎをした。眉間にしわを寄せ、咳き込んでから目を薄く開ける。
「うっ……」
「気が付いたか?」
「ここ、は」
「お前、滝の上から落ちて来たんだよ。それで滝壺に落ちたのを、丁度通りがかった俺が助けたんだ。……見た所怪我はないようだけど、痛い所はあるか?」
「いえ。……わたし、生きてしまったんですね」
見知らぬ少年に助けられて死にぞこなってしまったことを悔いる秘翠は、それでも礼は言わねばと少年に頭を下げる。ぽたぽたと髪から水が滴り落ちて地面に染みを作った。
「偶然とはいえ、助けて頂きありがとうございました」
「……お前、本当は死ぬ気だったろ?」
「何故、そう思うのですか?」
「表情が、すごく残念そうで悲壮感が濃い。だから本当は、あのまま息絶えたかったんだろうなと思った。それに、俺と一度も目を合わせようとしないしな」
「……そうでしょうか?」
「ああ。ほら、俺を見ろよ」
秘翠は少年の両手で頬を挟まれ、ぐっと上を見上げさせられる。間近に見ず知らずの少年の顔が迫り、秘翠は勢いよく赤面した。鼻がくっつきそうな程異性と近付いたことなど、彼女には一度も経験がない。目を瞬かせ、顔を逸らせることも出来ずに少年の瞳に魅入られた。
少年の瞳は、秘翠の瞳の色と全く違う。黒に近い焦げ茶色をしており、その中に赤面する秘翠の顔が映り込んでいた。
「あ、あのっ」
「あ。ああ、ごめん」
秘翠が硬直していることにようやく気付き、少年は手を離して一歩退いた。それをわずかに残念に思う自分に戸惑いながらも、秘翠はようやく息をつく。
すると少年がじっと秘翠の目を見て、柔らかく頬を緩ませた。
「お前の目、凄く綺麗な翡翠の色だな」
「え、あ、その……ありがとうございます」
「同い年くらいだろ。丁寧な言葉遣いしなくても良いよ。俺は渡辺碧、十六歳。お前は?」
「秘翠。年は、多分十六」
「ひすい、か。目の色と同じで綺麗だな」
「……ありが、とう。渡辺さん」
「せめて『くん呼び』でお願いするよ。それか、名前呼び捨てでも良いよ」
碧と名乗った少年は、からりと笑って秘翠の顔を覗き込む。
「ほら、呼んでみろ。俺は碧だ。あ、お」
「碧、くん?」
たどたどしく碧の名を呼び、秘翠ははにかんだ。その笑顔にどれほどの破壊力があるかという自意識などあろうはずもなく、碧は正面からダメージを受ける。
どきどきと拍動する胸の奥に戸惑いながら、碧は「それで良いよ」と少しだけぶっきらぼうな物言いをした。そして、頬を掻きながら彼は自分を指差す。
「俺は『秘翠』って呼ばせてもらうな。それでもいいか?」
「はい。あ、うん」
「ありがとな」
にっと笑い、碧は座り込んだままの秘翠の前にしゃがむ。秘翠が首を傾げると、碧はふと表情を変えた。
「ところで、何でまた滝の上から飛び降りて死のうとしたんだ? 何か、よっぽどなことがあったんだろうけど」
「……」
碧からの当然の問いに、秘翠は口をつぐむ。水に濡れることも厭わずに助けてくれた碧には、自分の自殺願望の理由を話すべきかもしれない。それはわかっていたが、秘翠は黙り込むことしか出来なかった。まだ、誰かを心から信頼するのが怖い。
そして、自分が鬼の一族だなどと言って信じてもらえるとは思えなかった。だから、話そうにも喉でつかえてしまう。
「……ま、無理にとは言わないさ」
秘翠の心中を慮った碧は、そう言って立ち上がる。夜が近付く今、このままでは風邪をひくだろう。ずぶ濡れのシャツを軽く絞り、碧は秘翠に手を差し出した。
「行くところ、ないんだろ? 俺んち来いよ」
「え、でも」
「このままじゃ、二人共風邪ひく。家に妹がいるから、服を貸してもらおう。腹も減ったし、考えるのは後だ」
ほら。碧に急かされ、秘翠は思わず彼の手を取る。するとぐいっと引き上げられ、立ち上がった。秘翠が少し自分よりも高い場所にある碧の顔を見上げた直後、碧は彼女の手を引いて歩き出した。
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