第2話 この世との別れ

 鈴女すずめたちが慌てていたのと同じ頃、秘翠ひすいの姿は里の外にあった。里は石造りの鳥居によって外の世界と隔てられ、鳥居は結界の役割を果たしていた。昔生きていた高名な巫女によって創られた結界だが、令和の現代では最早その効力を失いつつある。ただ、境界線としてあるだけだ。

 その鳥居の一つを抜け、秘翠はある場所を目指した。以前、世話役である鈴女に聞いたことがある場所へ。

 鈴女は言葉少なな少女だが、懸命に自らの役割を果たそうとした。それは秘翠を封じていた祖母の死を乗り越えるためであったかもしれないし、彼女の死のために自分に向けられる厳しい視線を弾き返すためだったかもしれない。

 ただ一度だけ、ほとんど交わさない会話の内の一度だけ、秘翠は尋ねたことがある。この里の外で、美しい場所はないかと。


「それならば……、里から少し行った場所に滝がございます」

「滝?」

「はい。大量の水が高所から滑り落ちる、あの滝です。幼い頃、一度だけ……祖母と共に見たことがあるのです。その荘厳な姿は見る者の息を呑み込むようで、美しかったことをよく覚えています」


 鈴女は祖母のことを口にする時、少しだけ唇を噛んだ。それでも気丈に真面目な顔をして、彼女は本棚から引っ張り出した地図を見せてくれた。

 その地図は秘翠の頭に刻みつけられ、お蔭でそれが手元になくても目指すことが出来る。一度も出たことのない里を飛び出し、秘翠は見たこともない山道を転びそうになりながらも駆けていた。

 山道は運動経験の少ない飾り物の娘には険しく、何度足を滑らせたかわからない。その度に立ち上がり、頬の泥を拭って前を向く。何が秘翠にそうさせるのか、彼女自身にもわからない。ただ強固な意志に突き動かされるようにして、秘翠は目的地へと辿り着いた。


「ここが、滝。初めて見た」


 文字か言葉でしか知らない滝。それが目の前に立ち塞がった時、秘翠はただ息を呑んだ。水が流れ落ちる音が轟き、耳を覆うよう。

 どれほどの高さがあるだろうか。自分の十倍はあろうかという滝を見上げ、秘翠は覚悟を決めた。この場所こそ、自分の死に場所に相応しい。

 翡翠は決意を固め、目の前にそびえ立つ岩の壁に手をかけた。それから体を引き上げ、登って行く。


「ん、しょっ。……着いた」


 泥だらけを通り過ぎ、もう体は疲れ切った。巫女服のような白一色の服は泥や草、砂で汚れて所々破れて見る影もない。これだけ汚れていれば、誰も自分をまさか『秘匿』だとは思うまい。


「風、気持ちがいい」


 森をざわめかせる風は、秘翠の頬を撫でる。泥だらけの髪はきしみ、鈴女に整えてもらったはずが申し訳ない。そんな感情が過る自分に、秘翠は苦笑した。この世からさよならする直前に思うのが、こんなことだとは。

 秋が深まった山の水は、冷たくて震えが止まらない。しかし、もうあの牢獄のような場所に戻ろうとも思わない。

 秘翠は滝の上に立ち、下界を見下ろした。傷だらけの裸足は冷たい水につかり、傷にしみる。それももう、終わりだ。


 ――ぴちゃん、ぴちゃん。


 水面に波紋が生まれ、轟く滝の本体へと足を延ばす。何故か、何も怖くなかった。心は感情をなくしたようで、凪よりも穏やかだと秘翠は思う。


(さよなら)


 足を踏み外さないよう、秘翠は跳んだ。風と水が体を包み込み、一気に速度を増していく。何故かゆっくりと落ちていくような感覚に陥ったが、秘翠の意識は徐々に薄くなる。滝壺に入る直前、夕日と共に黒い影が見えた気がした。


「危ないッ!」

「――!?」


 ――ザバンッ

 ――ザバンッ


 何故か二つ分の入水音が響き、驚いた鳥が木々から飛び出して行った。

 自分の呼吸が生み出す泡のその先で自分に向かって伸ばされた手を見て、秘翠は目を見開く。


(誰……?)


 必死に水をかく誰かが、秘翠の手を取る。そんな幻が見えた気がした。

 しかしそれが誰なのか、そもそも現実なのかを確かめる余裕もなく、秘翠は意識を手放した。



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