【永禄十年(1567年)五月】


【永禄十年(1567年)五月】


 厩橋に戻った俺は、冷静な勢いに押し切られる形で、佐竹義重の岩城領訪問に同意させられた。


 夫を監禁したのではないかとの疑惑がある梅姫は、兄である義重に懐いていたそうで、説得してみたいというのである。自分ならできるとは言わないあたりが、この人物の誠実さの表れなのだろう。


 やがて帰着した義重によって、岩城親隆の解放が確認された。監禁を主導していたのは梅姫だったが、蘆名にいる佐竹勢から働きかけがあり、岩城の重臣が同調したため、逆らえなかったのだという。監禁しないのなら、いっそ殺すと脅されていたのだとか。


 監禁中も梅姫によって手厚く世話はされており、岩城親隆に恨みに思うつもりはないものの、妻と家臣らに押し込められた展開は衝撃だったようだ。


 とはいえ、岩城親隆は反蘆名派と組む形で統治権を取り戻し、ひとまず反新田連合からは離脱した形となる。蘆名に通じていた者達は退去したそうで、まずは一安心だと言えそうだ。警戒は怠らない方がよいだろうけれど。


 


 二階堂、白河結城の領内に、田村、石川らに対抗するための部隊を残しつつ、会津侵攻軍は準備を進めていた。


 こちらの攻勢の構えを察したのだろう。先に仕掛けてきたのは蘆名勢だった。かくして、新田側の防衛陣地で戦さの幕が上がった。


 蘆名が雨の日に攻めかけてきたのは、鉄砲を無力化したかったのだろうか。だが、既に火縄を使っていた着火部分の改良や覆いの装着などにより、銃自体にある程度の雨対応を施している上に、仮設陣屋が使える環境なら、大嵐でもなければ銃撃が妨げられることはない。


 二階堂領の須賀川城周辺、白川城の西方など各方面で蘆名勢を撃退し、追撃戦に移る。ひとまず、猪苗代湖の東に位置する山々から海側の蘆名領は確保し、本格的な山越え侵攻の準備に入った。


 ただ、先方から仕掛けられた結果として、このまま猛襲を掛けると、上杉との約定の日取りよりもだいぶ早くに会津盆地入りすることになる。ここはゆったりと、陣地を作っては進む方式で侵攻していくとしよう。


 進軍路は、北から磐梯山の北方、猪苗代湖の北回り、南回り、白河から阿賀川を北上するルートの四通りとなる。戦力分散の形にはなるが、まとまって突入できる状況でもないので、割り切るしかないのだろう。


 割り振りは、北から飫富昌景軍団と北条家、次の猪苗代湖北側が青梅将高軍団、南回りが春日虎綱軍団と東海から転じた安東愛季指揮する部隊、そして、阿賀川を北上するのが明智光秀軍団となる。全体の軍師的役割は、真田昌幸、師岡一羽が務め、後見に真田幸綱が控えてくれている。


 佐野氏と千葉氏は、二階堂領の防衛に回ってもらっている。この方面の主将は、保科春次という、常備軍出身の武将が務めている。新田包囲網と呼ぶべき反新田連合との旧小田領での戦いの折りに、戦死した保科正俊と共に領民と友軍が退避するための時間を稼いだ人物である。その経緯を知らされた保科正俊の息子たちからの、保科の養子としたいとの要請を受けての保科姓へ改めた状態となっている。家は別に立てる形としているので跡目争い的展開は避けられそうだ。


 緩やかな進軍を、蘆名側はどう捉えただろうか。恐れをなしたためだと考えてくれるとよいのだけれど。




 そして、上杉との約束の五月十五日を目指して、各方面での攻勢が強められた。ゆったりした動きからの急進に蘆名方が戸惑っているうちに、越後側から上杉勢が乱入し、各方面での砲撃を含めた攻勢からの会津盆地侵入が果たされた。


 特筆すべきは、鬼真壁の金棒の威力、鉄砲隊を引き連れた阿南姫の勇戦、そして、本庄繁長の鬼神めいた働きだろうか。越後方面からは揚北衆に加えて、なんと信濃から村上義清が参戦していて、こちらも活躍したらしい。俺としては、城を焼いてしまった負い目があるのだが、それ以上にあちらは信濃復帰に恩義を感じていたようだ。


 新田側の勇将と呼ぶべき面々は、方面軍の指揮を取っており、個人としてはさほど目立っていない。だが、今後の戦い方を考えれば、むしろそれでよいのだった。


 忍者部隊は、米沢側への山路を封鎖に入る。ただ、足利義氏御一行様は落ち延びさせる手筈が整えられていた。




 会津の対応は青梅将高と明智光秀に任せて、俺は少人数の伴を連れて白河を経て鎧島へと向かった。八丈島=マカオ船団が帰着し、次の航海準備を始めている時期なので、方針を調整しておくためとなる。


 今回の派遣船団では、高砂島南端部への入植第一弾が投入される予定である。ここには、明で奴隷として暮らしていた和人が幾人か立候補してくれたほか、忍者や黒鍬衆らも赴く形となる。襲撃を受けた際の退避場所も整備する必要があり、どちらかというとそちらを優先してもよいかもしれない。


 養殖真珠の数が増えても、ポルトガルのもっとよこせ状態は継続中となっている。マカオからゴアへは定期商船団が往来しており、アジアの物資はそこから本国へ向かう流れとなる。その中で、紅茶と並んで優先度高く求められているそうだ。


 真珠と紅茶をポルトガル商館に渡して得た銀を使って、明の商人から帰りの船荷を得るだけでもかなりの利益となる。それに加えて、明国向けの干しアワビ、干し海鼠、フカヒレに、干し椎茸、椿油も人気となっていた。先代蔵田五郎左衛門プロデュースのガラス容器入りの林檎酒、炭酸葡萄酒、ネクターなども珍重され、高値で買い取られている。


 試供品としての干し牡蠣、干し貝柱も好評だったというので、採集、養殖、加工と大規模に進めていきたい。


 ポルトガル商館には、桐生、厩橋産の生糸や絹織物も販売している。それらのうちの一部は、明の産品として南蛮船に載せられ、長崎で日本の商人に売られることになるらしい。まあ、そんなもんなのだろう。


 その他の新田の産品としては、蒔絵を施した櫛や刀剣、武具の類に、小分けにした薬なども人気になっている。薬は、それぞれの効能ごとに猫のイラストをあしらって、言葉が違ってもわかるようにと工夫されている。熱冷ましには、熱に苦しむ猫が団扇で風を送られている様子がコミカルに描かれていた。こちらは、若き蔵田五郎左衛門と、岩松親純の力作である。


 また、前回の船団で馬を持ち込んでみたところ、興味を示す向きが多く、商談が幾つか持ちかけられたそうだ。「静寂」「衝撃」の系譜に南部馬の血脈が合わさったことで、新田馬は馬匹向上しつつ、従順ながら勇猛さを併せ持つ特色を備えつつある。


 元時代では、日本の馬は小さくて粗暴でとにかく劣悪だ、時代遅れの原種のような馬だ、なんて評価が行われる場合が多かった。だが、ネーデルラント商人のリーフデに聞いても、重騎兵向けの馬としてならともかく、軽騎兵向け軍用馬としてなら劣るところはないという。


 日本馬が劣悪だったという話は、明治期の馬と、当時の改良済みの欧米馬との比較の話が、戦国の時代と混同されていたのだろうか。弓を使う軽騎兵を多用して、かつてユーラシア大陸の大半を制した蒙古の馬も、馬格では大差はないようだ。


 特に明では重騎兵が導入される事態は想定しづらく、機敏で丈夫な馬が好まれるとのことで、一定の需要はありそうだ。ただし、去勢が必須だというので、そこの対応は必要となる。


 一方で、販売面で総額の過半を占めているのは、かき集めて持ち込んだ硫黄となっている。そう考えると、硫黄と銀さえ持ち込めば、交易は成立するわけだが……、産業振興も並行で進めるならば、市場としての明は魅力的であり、進めていくとしよう。


 買い付けの方では、引き続きの硝石、銅銭と金に、書籍や芸術品、薬の材料などが多くなっている。絹織物、生糸などは、高級品を買い付けて上方向けに売り払う流れとなる。


 職人招聘については、難航しているとの報告があった。それならばと、技術を持った和人奴隷を探してみるようにと求めてみた。そのまま奴隷として扱うつもりはなく、日本に連れて来てからならば、雇い入れの交渉のしようはあるとの発想となる。


 年三回の定期船団化についても、関係各所に触れ回ったとのことなので、今回の反応や新たな情報を反映させ、より大規模な船団を送り込む流れとなりそうだ。


 産業振興は続けていくとして、収益面では硫黄の確保が重要となる。上州の温泉地周辺はもちろんだが、硫黄島の開発も進めるとしよう。箱根や恐山なんかも、産地だっただろうか。


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