【永禄十年(1567年)三月/四月】


【永禄十年(1567年)三月】


 忍者による探索と阿南姫が集めた情報が一致し、岩城の当主である岩城親隆が監禁されていることがほぼ確実となった。現状の岩城の差配は、佐竹出身の親隆の妻、梅姫が取っているらしい。


 家臣や豪族衆が梅姫を担いだのか、あるいは蘆名、佐竹からの働きかけがあったのか。いずれにしても、岩城は敵方に回ったと考えてよいのだろう。


 石川も、どうやら新田戦の準備を始めたようだ。個々の戦力はさほどではなくても、石川、田村、岩城に一致して決起されると、やや面倒ではある。


 一方で、二階堂領と結城領のうちの白川城域の田植えに向けた、肥料四天王の準備も進めている。戦乱に巻き込まれる可能性もあるが、それでも米作りは進めておくべきだろう。新田の勢力圏に入ってからある程度の時間が経過した地域では食料における米の比率が落ちてくる傾向にあるが、日が浅い地域では米への執着が強いし、領外ではやはり米の価値が高い。


 売り先として考えてもそうだし、実際に農作業をする者たちも安心感が違うようだ。余るものではないので、まったく問題はないが。


 春になれば、蘆名との戦さが始まる可能性が高い。そう考えると、今川の去就決断は早い方がいいのだが、家の命運についての話だけに急かすわけにもいかない。まあ、春になれば武田が動き出しそうだと考えれば、さほどの時間はかからないかもしれない。


 蘆名と伊達、南部といった大勢力は、剣豪使節団による奥州鎮撫への協力要請を黙殺する形となった。事実上の拒否と捉えてよいであろう。


 彼らに親しい勢力は、右に倣えと考えるべきだろうが、独立性の高い勢力も幾つかある。そんな勢力のうちの一つが相馬家である。剣聖殿の訪問時には、検討する時間が欲しいとの話だったそうなので、再び海路で使者を送り込むと、帰りの船で相馬盛胤、相馬義胤の当主親子がやってきた。いかにも武辺の者という印象の二人は、髭面にやや硬い表情を浮かべている。


 対面の場で彼らは、蘆名、伊達と組んで新田と戦うつもりはないが、一方で新田に従うつもりもないと表明した。敵かもしれない陣営にやってきて、そう明言するのはなかなかに清々しい振る舞いである。そして、新田に一定の信用を置いてくれているのだろう。ここは、真摯に応えるべきと思えた。


「承知した。新田と、その友好勢力を攻めない限り、こちらからは攻めない」


 やや表情を緩めた二十歳の息子に対して、当主の盛胤は厳しさを保っている。


「どこが新田の友好勢力か判断できぬが」


「なるほど。攻められて困るところは、連絡しよう。その使者が到達する前に仕掛けていたのなら、問題視はしないと誓う。いかがか」


「誓紙をいただけるか?」


「ああ、問題ない。……ただ、誓紙を書くのは初めてだな」


 俺の言葉に、髭の父親の方が目を丸くする。


「なんですと……? 上杉と盟約を結び、武田、上杉と三国不可侵を約し、今川に攻め込む際にも協約を結んだと聞いておる。その過程で、一度も書いておられないと申されるのか」


「軍神殿とは、誓紙も人質の交換もしていないな。武田との三国不可侵は、実際には上杉が武田を押し込んで、現状を確認した状態だったからなあ。今川は……、新田が圧迫する側だったし。あ、いや、だからといって誓紙を出したくないわけではないぞ。そして、交わす以上は、必ず守る」


「そうですか……」


 相馬盛胤は、やや毒気の抜かれたような表情をしていた。


 縁側での茶会へと移行して、緑茶と大福でもてなすと、二人ともおっかなびっくりであった。


「これが、噂に聞く茶の道というものですかな?」


「いや、これは茶道とは別の、純粋に楽しんでいただくためのものです。茶道は、畿内では盛んなようですな」


 史実では千利休によって、ひとまず完成される形となる茶道だが、この時代にはもう少し緩やかなものであるようだ。千利休……、田中与四郎は、三好家の御用商人をしているようではあるが、瀬戸内航路を仕切る商家の一つとしても名を上げているようだ。


 後年の暗さを備えた茶道は、生家の零落と、御用商人として取り入った三好の繁栄と没落、次の標的とした織田信長の天下に手をかけた状態での横死といった、自らの波乱に満ちた体験を反映させたものと思われる。瀬戸内航路での活動が元の歴史でも行われていたかどうかは判然としないが、仮に今回で生じた変化なのだとしたら、茶道も変わってくるのかもしれない。


 ただ、茶の湯による身分を取っ払った交流については、方向性はまったく違うにしても、縁側茶会で実現できている。茶道の今後の進展に捕らわれる必要はないだろう。


「この菓子は、夢のような味がしますな」


 無骨な印象の相馬義胤が目をつぶって楽しむさまは、なんとも微笑ましい。大福御前に供するため、最初に俺が試作したものとは完全に別物にまで進化している。あんこの滑らかさは、感嘆ものだった。


 どうも、関東の諸勢力よりも、すれてない……という表現が妥当かどうかはわからないが、より純粋な状態にあるようにも思えた。この相馬もまた、何代も伊達からの血が入っていながらも、伊達との抗争を続けているわけだ。血よりも家の方が強いという実例でもある。


 俺は、二人に問いを投げてみた。


「もしも、周囲の国が攻めてこなくなったら、相馬はどうされますかな」


「それは……、夢のような世界でござるな」


 応じたのは相馬義胤の方で、当主の方はやや油断ならない表情をしていた。


 この時代、隣接勢力に隙があれば仕掛けるのは、むしろ自然な振る舞いとされる場合も多い。実際、これまでも攻めて攻められてきたのだろう。


 そう考えると、関東での佐野氏や千葉氏にしても、さらには白河結城も含めて、油断すべきではないのだろう。彼らが新田の隙に乗じて攻め込んでくれば、反撃して討ち滅ぼすことになるわけだ。互いの不幸を招くと考えれば、各所に一定の防御力を備えておくべきなのかもしれなかった。



【永禄十年(1567年)四月】


 武田勢の動きが活発化し、田植え後の本格侵攻が予想される段階となって、今川から使者が訪れた。一月長徳という名の僧侶は、氏真の弟であるそうだ。


 臣従が本決まりとなり、厩橋から鎧島、鎧島から伊豆半島を越えて駿河沿海部へと伝令が向かう。今川の武田と接する拠点への進軍計画は、既に細やかに立案されていた。その方面の総大将は、真田幸綱となる。


 駿河入りした武田の軍勢の中には、幸綱の息子である真田信綱、昌輝の名もある。確実な手切れではないとはいえ、親子で別陣営に分かれて対峙するのはこの時代に稀なことではない。


 幸綱にとっては、息子たちだけではなく旧主とも向かい合う形になるが、寝返りについては心配していなかった。実際には、東海方面軍を掌握している幸綱が、大半を傘下に収めたままで武田に帰参したなら、大きな痛手とはなる。ただ、幸綱に見放されたらそれまでだとの割り切りが、俺の胸中にはあった。


 そして、追加の兵力も進発している。こちらは、情勢によって向かう先が南奥州になるか、東海方面になるかを決めていなかった部隊で、忍者隊、鉄砲隊と常備兵団で構成されている。その指揮役には、出羽から転じてきた安東愛季を任じていた。


 檜山安東と湊安東をまとめた新生安東家の当主として立っていた人物なのだが、陸上勢力としての傾向が強い檜山安東の流儀での統治を推し進めたことから、海上通運に軸足を置いていた湊安東側の反発を招く流れとなった。


 史実では何度かの反乱に近い湊騒動と呼ばれる動きを経て、秋田氏として地盤を固めていく流れだったのだが、湊安東勢に新田が助力した経緯から、放逐される状況に陥ってしまったのだった。しかも、湊安東の姫で、従妹にあたる月姫に性根を叩き直す宣言をされていたのだが、無事に離脱する許しを得ての今回の役回りとなる。


 本人は、安東から離れて臣従するのであれば、武田と向き合いたいと言っていたそうなので、適役であろう。


 武田との手切れになれば、北信濃には上杉勢がいるにしても、碓氷峠の防備は固める必要がある。大砲陣地作りの練達も急務であることから、峠の出口には防塁が設置され、演習場として設定された周辺地域を中心に砲撃訓練が繰り広げられ、角度を変えた砲兵陣地作りの研究も進められていた。


 ……そういった備えをしていたところに、武田で騒動が生じたとの報せがもたらされた。武田信玄が放逐されたというのである。




 今川への侵攻が、新田の動きを踏まえて、手切れとなるのも覚悟した動きだったのかどうかは、今となっては判然としない。


 諏訪神社は、信濃の中央に位置する神社で、代々諏訪氏が大祝(おおほおり)として現人神……、要するに生き神様として治めていたという。外形としては諏訪大社を擁する国人領主なのだが、内部では宗教的権威による結束が見られる点で、一向一揆と類似性がある。この時代、一向一揆は富樫氏の内輪揉めに助勢した勢いが余る形で、加賀一国を支配している。


 諏訪氏は信玄の父親、信虎の時代には武田氏とは同盟関係にあったのだが、その信虎が放逐されたタイミングで袂を分かち、結果として滅ぼされる形となった。


 諏訪氏の生き残りの娘が信玄の側室となり、生まれたのが諏訪勝頼……、史実での武田滅亡時の当主、武田勝頼である。


 ただ、この時点では嫡子の武田義信が健在であるため、諏訪勝頼を名乗って諏訪氏を継いだ形となっている。厳密には継いだのは、諏訪惣領家ではないらしいが、武田の勢力圏にある以上は武田の血筋の影響力は大きい。


 諏訪の姫が既に死去しているのは史実通りで、周辺の城域を上杉が制圧しているのは史実とかけ離れた状況にある。ただ、上杉が不可侵の約定を破らない限りは安全圏であるとも言えるわけだ。そのはずだった。


 今回の信玄放逐は、諏訪大社へ戦勝祈願に出掛けた折りの退路遮断だったそうで、諏訪を切り離す大胆な策となる。


 首謀者は世継ぎの武田義信だと伝わってきている。史実では、この義信が謀反を企てたとして信玄に廃嫡、処断されるので、逆の形になったにしても、親子での闘争が生じたという意味では外れてはいないのかもしれない。


 史実で義信が処断されたのは、信玄の今川侵攻の動きを妨げようとしたためとされているが、今回はそれが実行に移された形となる。義信に同心したとして処刑された飯富虎昌は既に戦死しているわけだが、今回は誰と連携したのだろうか。


 武田義信が親今川である理由には、今川義元の娘にして、氏真の妹にあたる嶺松院の存在が大きいだろう。彼女の母は信玄の姉なので、いとこ同士の婚姻ということにもなる。


 この時代、婚姻相手が後ろ盾としての役割を果たす場合も多いが、現状の今川に武力面での援助は期待できない。それは史実で廃嫡される頃にも同様ではあるのだけれど……、さすがに現状よりは頼りになる状態だっただろうか。


 義信の基盤が完全に固まったかどうかは不明で、信玄が諏訪に拠って家臣に自分の側に立つように呼びかければ、状況は一変しかねない。ただ、今となっては新田との手切れに直結する今川侵攻は、いったんは遠のいたと見てよさそうだ。


 こうなってくると、より深く調整が必要になる。俺は駿府へと向かって氏真との会談に及ぶことにした。




「このまま武田が義信に代替わりすれば、攻め込んでくる心配はあるまい。それを踏まえれば、臣従の話は撤回してもかまわないぞ」


 やや惜しいと考えないでもないが、行き違いのような形で臣従させて、後になって背かれるのも面倒である。そう考えて発した俺の言葉に、今川家の当主は晴れやかな表情を浮かべて応じた。


「いや、武田と新田殿で友好関係が築けそうな今こそ、新田に臣従して、この地に安寧をもたらしましょう」


「よいのか?」


「もちろんです。東海にも坂東のような楽土を築くとしましょう。差支えなければ、農業と産業振興についてご教示いただければ」


「それはもちろんだ。むしろ、発展させて関東や奥州を指導する立場になってほしい」


 頷く孫の姿を、寿桂尼殿が朗らかな表情で見つめている。今回は元気に同席しているこの女性は、三代にわたって今川を見つめてきたわけだ。血は繋がっていないにしても、若き氏真が新たな生きる道を切り開こうとしているのがうれしいのだろう。


 新秩序に賭けてくれるというのなら、提供する側としては張り切るしかない。そして、武田が信玄にあっさりと奪還されない限り、東海方面に心配はなさそうだ。となれば、奥州に集中できるというものだった。


 こうなると、沿岸部も含めて預ける形が効果的だろう。まずは真田幸綱とその下僚と連携させつつ、内政組、治水組、産業振興組などから選抜して、統治要員を送り込むとしよう。




 東海地方の動きがひとまず収まったために、俺の視線は他地方に転じられた。まあ、にらみ合いや小競り合いが生じたとしても、並行して動く予定ではあったが、同時に考える事柄が少なくなるのは良い展開である。


 駿府から海路を経ての利根川上りで厩橋に戻り、三国峠を越えて越後に向かう。春日山城で軍神殿と蘆名攻めに関する細かな相談を詰め、その裏で、佐渡侵攻が実行に移されると決まった。戦線がばらけているが、両方とも重要である。


 上杉方からの参加者は、本庄繁長単独となっている。かつて軍神殿が話していた通り、水軍に興味を示したのが一人だけだったのと、新田との関係性も影響しているのだろう。もうひとり、縁の深い長尾藤景は越後全体の殖産担当大臣のような立場になりつつあり、蔵田屋親子と連携して越後国内を飛び回っているようだ。


 新田勢としては、十三湊から派遣された水軍に、連動する遊撃部隊が中心となり、指揮は本国組を率いて合流した青梅将高が務める形となった。


 海賊行為を行う相手に、宣戦布告をする必要もない。夜明けと同時に湊に押し入った船団から、軍勢が進発した。


 佐渡の本間氏は、本家が雑田本間氏で、河原田本間氏、羽茂本間氏と、一族でそれぞれ城を保有し、断続的に抗争を繰り広げているようだ。


 本庄勢は繁長自身が率いており、新田の青梅将高とは軍事S同士の共演となる。さらに、兵力的にも装備面でも優勢とあっては、事故が起こる可能性は低い。


 本気の侵攻に、奇襲を受けた形となった城が次々と陥落していく。現状で最大の勢力を持つ羽茂本間の主城、羽茂城の攻略こそ翌日に持ち越したものの、それも夜通し大砲を射ち込んだからには、惨憺たるありさまでの降伏となった。


 海賊働きなどしていないとの申し開きが行われたそうだが、実際には潜入した忍者によって、少なくとも雑田本間は関わっていると調べはついている。海賊の実行犯と解放された商人に対面させられ、当主らは崩れ落ちたという。


 


 本間の三氏族の主だった者たちは直江津に移送され、詮議が行われる形となった。海賊働きに関わっておらず、本庄と新田の共同統治を受け容れる者は、解き放つ予定である。


 佐渡の奪取が無事に済むと、本題の蘆名についての決着の前に、軍神殿からは能登を追われた畠山氏を援助したい旨の相談があった。


「……それは、持ち出しで援助のみするということになりますかな? 一部から「都合のいい軍神」などと呼ばれているのはご存知でしょうか」


 後段は俺の創作だが、思い当たる節があったらしい。


「正統な統治者を回復させるのは、意味があるではないか」


「戦国が煮詰まりつつあり、下剋上が頻発する世の中で、当初の正統にどれほどの意味がありましょう。関東の状況もそうですし、越後にしても……」


 そこで、越後の龍が少し傷ついた表情をした。軍神殿の出身家である長尾家は、越後守護代の家系となっている。守護だった上杉家からの権力の移譲についての見方は色々あるようで、義輝には認められていたにしても、誰が将軍になるかで覆る可能性はあるのだった。


 だが、ここで心の傷を抉っても意味がない。少し話を逸らすとしようか。


「動員する以上は、配下の皆への目に見える形での還元が必要となりましょうな。所領でも、金子でも、芸術品でも」


「感状では足りんかのう」


 先日の問答で、産業振興で得た資金を諸将に配分する件に納得したかと思っていたのだが、まだ完全ではなかったらしい。


「足りませぬな。輪島湊くらいは貰い受けて、そこからの収入を分配するくらいしてもよいでしょう」


「護邦殿の物言いは……、藤景が二人になったように思える時があるな」


「それは……、失礼致した」


 頭を下げると、軍神殿の端整な顔に苦笑が浮かんだ。その様子からすると、深刻な話ではなさそうだ。


 そして、史実での長尾藤景に対する、間違った意見をしてくる誅殺すべき存在、だったと思われる認識が、一定の理がある諫言をしてくる疎ましい存在、くらいまでは変わっているようである。いい傾向だと言えるだろう。




 春日山城での滞在中に、上杉家中での調整が落着に至った。軍神殿と重臣らだけで決めるのではなく、国人衆の意見までも聞き取るというのは、これまでとは大きく違う方向性となる。


 話の流れとしては、蘆名攻めに難色を示していた軍神殿とその周辺に対し、これまでたびたび仕掛けられてきた国境付近の揚北衆らが、介入を強く求めたという状況だったらしい。そして、彼らの要望を中枢へとつないだのは、河田長親、鯵坂長実、吉江資堅らの近習勢出身の家臣だったそうだ。


 新田の作戦案の開示を求められたので、佐渡攻めを手早く済ませた青梅将高から説明させたところ、参戦が本決まりとなった。確かに、新田勢の会津地方への侵攻とタイミングを合わせて、西から攻め込んでもらえば非常に効果的である。


 参加するのは、斎藤朝信、長尾藤景、本庄繁長という馴染み深い顔ぶれに、揚北衆の面々の名前が並んだ。彼らには、越後から山越えで会津盆地に出た周辺を押さえた上で、以降は自由に動いてもらう形となる。確保した土地は尊重するが、最終的には事後に相談しようとの話にしてある。


 会津盆地への突入時期は五月十五日と定められた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る