【永禄九年(1566年)九月】その二


【永禄九年(1566年)九月】承前


 越後への船団派遣の詳細は、芦原道真、川里屋の岬と蔵田五郎左衛門で詰めてもらうことにして、俺は軍神殿をお茶に誘った。


 最近ではもう酒はたまに嗜む程度で、主に緑茶を、たまに紅茶を愛飲しているらしい。


 よもやま話の中で、俺はもう少し先の話かなと考えていた件を前倒しで投げ込んでみた。


「ところで、佐渡についてはどう考えておられるのかな」


 状況を確認すると、佐渡を治める本間氏の内部で断続的に揉めていて、やや手を焼いているものの、すぐにどうこうというものでもないらしい。


「上杉で確保されるつもりはないと?」


「うむ、その考えはないな。よほどひどい状態にでもなれば、また話は変わるが」


 上杉が金の採掘で潤ってくれるといいなとも思ったのだが、まさかそう告げるわけにもいかない。


 一方で、仮に佐渡の金が入手できたとしても、産業振興は進めておいてもらった方が助かるのだった。現状で、上杉との手切れは考えづらい。道を違えるとしたら、だいぶ先のことになるだろう。


 そう考えると、世継ぎになるはずの甥っ子殿と誼みを結んでおくべきか。まあ、そこはあまり早まりすぎてもよくなさそうだが。


 話が京の方面に向くと、やはり義輝殿の後釜についてに話が転がる。軍神殿としては、将軍継位については、先代の将軍を殺害した三好三人衆らに担がれている足利義栄ではなく、義昭の方に好感を抱いているらしい。


 現状は朝倉が確保して、上洛の機を窺っていると聞いている。史実では朝倉義景は動こうとせず、焦れた義昭が織田信長を頼る展開になり、その動きには明智光秀も参加するはずだった。


 光秀には今のところ、将軍継位関連の話題に入れ込む感じはない。やはり、史実でも越前で細川藤孝に見出されて、将軍家に仕官する流れだったのだろうか。


 ……光秀がいない影響は、どれくらい大きいものなのだろう。ただ、帰蝶のいとこではないようなので、義昭が織田家を頼るにあたっての必須条件ではなさそうである。織田家も陸遜の加入で変化はしているだろうし、新田の東国での行動の影響も考えられる。そこは、書き換え済みの流れに身を任せるしかないのだろう。


 そうそう、義輝殿の遺産となる、狩野永徳の手になる洛中洛外図屏風は、京を発った頃だろう。その件を伝えたら、前年に落命した武家の棟梁へと鎮魂の祈りを捧げていた。屏風の存在はまったく把握していなかったそうで、サプライズ的な贈り物となる予定だったのかもしれない。後世に伝わるように、大事にしてほしいものだ。




 さらなる調整を経て、春日山城下の湊である直江津に、北回りでの明や蝦夷地からの物品を集積させる件は本決まりとなった。津料は値上げせず、様子を見ることになったので一安心である。


 同時に、直江津には三国峠を越えた新田の産品も並ぶことになるだろう。上方と直江津での商いで満足する商船もいるだろうし、北へ向かう船もあろうが、そこは自然な流れに任せてしまえばよい。既存の交易路を潰す必要はないので、直江津への商船団は間隔を置いて定期的に、商材的に根こそぎにはせずに、という形にしていきたい。


 本庄繁長の拠点である本庄城に近い、元時代での村上市の岩船湊については、物資を送り込むと同時に、港湾設備、接待所なども設置して、立ち寄りを促すよう計画している。津料なしで停泊できるとなれば、一定の需要は生じるだろう。そして、塩引き鮭だけでなく村上茶も名産になりそうだ。


 この時代は、海の名前は一定しておらず、元時代の日本海については北海や日本内海と、太平洋のことは日本海、大日本海などと呼ばれている。


 新田では俺が日本海、太平洋と呼んでいたため、それが通用していて、よその勢力にも伝播しつつあるようだ。


 現状での新田が絡む通商路は、新設される直江津、岩船湊との航路も含めて、次の三つに大別できる。




 日本海側で、越後の直江津、岩船湊から土崎湊、十三湊を経て蝦夷地へ至るルート


 蝦夷地、または十三湊から太平洋側へ出て、久慈、深谷、銚子、勝浦から、鎧島・江戸湊方面と、伊豆方面へと至る外洋船航路


 鎧島、八丈島から琉球、マカオへの南蛮船航路




 蠣崎氏を通じてのアイヌとの交渉次第では、さらに樺太への航路も設定される可能性があるが、それは先の話となりそうだ。


 水上交易の利便性だけ考えれば、間に南部、伊達、蘆名、大崎といった勢力が存在していても、さほど問題はない。


 ただ、奥州鎮撫を拝命したからには、少なくとも止戦を求めなくてはならない。おそらく諸侯らがあっさり従う展開とはならないだろう。


 そうそう、伊豆の下田、伊東は温泉地としての開発も進めている。伊豆大島も、火山活動はあるにしても、避難港としての整備が行われていた。


 伊豆大島の波浮湊は、この時代にはまだ湖となっていた。そう言われれば、確か元禄関東地震での津波で海と繋がった、みたいな話に触れた覚えもある。


 元禄関東地震は、徳川幕府の綱吉の頃だったと記憶しているが、何年頃なのか……。被害を考えると、相模や安房、上総辺りの海岸利用は、配慮が必要となる。港湾整備、開発する土地の選定は、悩ましいところとなる。漁民、水軍勢との対話は密にしていくべきだろう。


 海近くの高台の土地や、川沿いの高地を開発し、いい土地として認知させるのが早道だろうか。漁業の利便性だけ考えれば、沿岸の利便性は高いのだが、バランスが難しいところとなる。




 戦場となった旧佐竹・宇都宮領の復興、再開発に注力しつつも、関東には穏やかな時間が流れていた。もちろん、盗賊、海賊がいなくなったわけではなく、敗残兵から転身した者達や、関東が豊かになっているらしいとよそから入ってくる一味もいて、しかも対処する領域が広がっているため、主上に言上した通り、盗賊追捕隊はむしろ忙しくなっているほどだ。


 それでも、ある日突然に戦さが起こることはなさそう、というのはこの時代には貴重なことである。


 足利義氏を奉じる関東からの転出組は、白河に滞在して蘆名に合力を求めているところだった。参加している氏族は、佐竹、太田、里見、宇都宮、小田、小山、結城らが大名勢で、正木、江戸、那須といった従属国人衆の姿も見えるそうだ。


 敗残勢力の主力が奥州へ去ったことには、良い面と悪い面がある。新田にとって助かるのは、本来なら頑強に反発する勢力となるはずの彼らが不在であるため、統治がやりやすくなる点だろう。


 悪い面は、場所が変わって戦さが続くことに尽きるが、奥州鎮撫を命じられた現状からすると、攻め込む取っ掛かりにできるので、助かる面もある。恐れていたのは、新田を共通の敵として、蘆名、伊達、南部が手を結び、他の勢力も参加した奥州大連合が組まれる流れだったが、幸いにして未だその兆しはない。


 まとまったところを一気に攻略との考え方もあるのだろうが、可能であれば各個撃破を目指したいものだ。


 側近として潜入している忍者の鷹彦からの情報によれば、足利義氏は蘆名を手始めに味方を集め、関東に逆侵攻するつもりのようだ。そう考えてくれるのならば、正直なところ対応はしやすかった。


 足利義氏陣営の内情は、鷹林将連(たかばやしまさつら)という名で側近として活動中の新田忍び、鷹彦から入ってきている。


 槍大膳と呼ばれる正木時茂に、岩付太田氏の当主となった梶原政景は、以前の情報のままに足利義氏の直属の家臣状態だそうだ。


 意思決定は、引き続き佐竹が発言力を握っているが、佐竹義昭が退場し、謹慎処分を受けていた義重が新田に捕らわれたことで当主になった佐竹義尚は未だ十五歳で、言動こそ勇ましいものの、やや軽躁なところが見受けられるという。


 二十歳の宇都宮氏の当主、広綱ははっきりと病弱で、ついて来ている家臣は半ば自立したり、足利義氏に接近したりという状況らしい。所領を保っていれば、話も違ったのだろうが。


 領地だけでなく息子も失った里見義堯は、めっきり老け込んでしまったようで、里見家臣は求心力を失っているそうだ。正木時茂は、わりと早い時期に離脱して足利義氏に従うようになったというから、思うところがあったのだろう。正木時忠ら一族が新田の里見領攻めを迎え入れるような形になったのも影響しているかもしれない。


 岩付太田氏もほぼ崩壊状態にあり、梶原姓を維持している政景に付き従う者がいる程度となっている。




 関東からの退避組に頼られた形の白河結城氏は、新田が攻め滅ぼした結城氏と同族だが、だいぶ早い時期に分かれたらしい。


 足利義氏御一行様を攻撃こそしなかったものの、半ば廃城となった白川城に案内して、支援も最低限としていたようだ。


 歓迎されていないことを察したのか、彼らは早々に迎えを出してきた蘆名氏のもとへと移っていた。


 その状況で、結城晴綱の使者が白河から訪れ、会見を求められた。まず明智光秀が入って下打ち合わせをして、日を改めて俺も向かうことになった。


 当主の結城晴綱は、四十六歳という年齢にしてはだいぶ老け込んで見える。そして、会って早々に昔話が展開された。


「我が家の先祖である結城宗広は、新田義貞公に従って鎌倉の北条高時を攻め、北畠顕家様と共に奥州の仕置を任されました。顕家様が京に足利尊氏を攻める際にも行動を共にし、敗死しております。その後の結城氏は、幕府側についたわけですが……」


「それは無理もなかろう。そうでなければ、生き残れなかっただろうからな。……そして、俺は義貞公の子孫ではなく、別の新田なんだ」


「朝廷から新田の嫡流として認められ、奥羽の鎮撫を命じられたと聞き及びますが」


「まあ、そうなんだが……」


「浪岡御所の北畠顕家公の末裔とも連携されているとか」


「交易に行ったつもりが、なぜかそういう流れとなっていてな」


「新田と北畠と再び手を取り合える日が来るとは、こんなにうれしいことはありません」


 感涙をこぼしているようでもあるが、俺自身には義貞の血は流れていないわけだし、反応に困る。


「義父上、昔話はよいでしょう。護邦殿も困っておられるではありませんか。これからの話をさせていただかないと」


 そう口を挟んだ若武者のステータスには、結城義親との表示がある。二十六歳で、武力が高めであるが、特筆するほどではない。まあ、付き従ってくれている林崎甚助も含め、剣豪勢が身近にいるために、目が肥えてしまっている面がありそうだが。


「おう、そうじゃな。恥ずかしながら、目を悪くしておりましてな。新田殿のお顔もぼんやりとしか見えておらんのです。弟の義親を養子に迎えて跡取りとしておりますので、今後のことはこの義親主体でお願い致したく」


「弟御でしたか。……義親殿は、小峰氏ではないのかな?」


 応じたのは、結城義親本人だった。


「庶流の小峰が断絶していたので、一時そちらを任されておりましたが、今は結城姓に復しております」


 元時代では、幼い嫡子を追放した庶流の小峰義親として知られるが、混乱があるようだ。そして、結城晴綱に嫡出の男子はいないそうなので、これから生まれてくるのか、あるいは改変の影響で生まれなくなっているのか。


 そこから、今後の実務的な話が進められた。奥州、羽州では、新田による鎮撫に初手から協力してくれた勢力には、所領安堵を認める方針を固めている。関東とで話が違ってくるが、そこは臨機応変で進むしかない。


 この白河結城氏には、光秀を介した事前折衝よりも前に奥州鎮撫の勅諚についての話は伝わっていたようだが、地理的な近さも影響していよう。奥羽の諸侯には、積極的に伝達していく必要がありそうだ。


 蘆名、伊達、南部が新田による仲介を受けて止戦し、鎮撫に協力してくれるなら、とてもめでたい展開となる。ただ、実際問題としてそれはありえないだろう。


 一度でも矛を交えれば、完全な所領安堵は認めない想定だが、どう対応するかは状況に応じて、とするしかない。行きあたりばったりもまた、新田の家風として定着しつつあった。


 結城晴綱、義親親子は、佐竹、蘆名、石川らから領地を蚕食される流れの中にいたために、新田の覇権を受け容れるので、庇護を願いたいとの立場を表明した。関東の情勢を身近に感じる立地な上に、藤氏長者である近衛前久からの働きかけもあったようだ。


 ……そう言えば、史実では久我の当主がこの頃に密通疑惑かなにかで官位を剥奪されていた気がする。足利将軍の位階は実力に応じてなのか、だいぶ低くなっていたはずで、従二位を受けていたら、源氏の最高位、源の長者になっていたかもしれない。その意味でも、危ないところだった。


 白河結城では、義親の正妻に蘆名の姫を迎える話が進んでいたそうだが、それも蘆名の動き次第で取りやめる覚悟だという。


 こうして、南方からの奥州進出の足場が築かれたのだった。




 白川城を借り受けられたので、そこに簡易陣屋を構築し、城の修繕も進めて拠点化を行った。足利義氏が提供されて、軽んじられると捉えて去っていったのと同じ城なのだが、なかなか瀟洒な造りで好ましく映る。


 白河結城側には、借用はあくまでも一時的なものだとの確約をしており、改築部分も退去後は自由にしてくれとも伝達してある。


 蘆名は足利義氏一行を歓待しているらしい。奥州には南北朝の抗争の頃に奥州管領が幾人も並立した時期があったわけだが、その末裔で不来方(こずかた)を拠点にしていた斯波氏は南部氏の南下で滅ぼされたようだし、蘆名と伊達、田村に取り囲まれた形となる二本松畠山氏も風前の灯状態となっている。


 奥州管領職を上書きされる形で設置された奥州探題は、かつての大崎氏から伊達氏に移ったそうで、羽州探題は最上家……、岩松守純が連歌外交の対象としている最上義光の最上家が世襲している状態であるようだ。


 そして、奥州探題の上位には鎌倉公方が置かれていて、その流れを汲む古河公方を掌中に収めることには、大きな意味があるのだろう。蘆名と伊達の関係性も、それで変わってくるのかもしれない。


 蘆名としては、足利義氏を受け入れながらも新田方に付き、伊達を討滅するという選択肢もありそうだ。だが……、鷹彦からの報告によれば、ここでも新田は軽んじられているらしい。奥州勢からすれば、坂東武者など何するものぞという感覚があるのかもしれず、関東を制覇したとはいえ、ぽっと出の新田を認めたくないとの心理もありそうだ。勅諚を得たとの話は伝わっているようだが、こちらが無位無官であることもあって、偽勅だ、無効だと嗤っているらしい。


 蘆名は、隠居と言いつつ蘆名盛氏が実権を握っているそうだ。四十五という年齢は、この時代だとはっきりと老け込む場合もあるが、盛氏は元気そのものらしい。


 この盛氏は戦国時代が煮詰まる少し前の時期に、多くの戦さを重ねて南奥州の覇者として君臨していた人物である。ただ……、戦国が本格化する前の南奥州は、小勢力が乱立している状態で、守りやすい会津盆地から外征を重ねた状態だと、やや割り引いて考える必要があるかもしれない。


 それでも、軍神殿による越後統一の過程で幾度か越後にちょっかいをかけたりもしており、なかなかの奮戦ぶりだったのは間違いない。上杉側では、どう考えているのだろうか。


 当主である蘆名盛興は、十九にして既に代替わりから四年が経過しているものの、酒に溺れ気味だそうだ。伊達から伊達晴宗の娘である十三歳の彦姫が嫁いできたばかりだが、関係性はいまいちだとも。


 そして、この婚姻を決めた父親をやや煙たがっている気配もあるようだ。まあ、偉大な先代を持つと苦労するのかもしれない。


 若き当主が伊達から姫を迎えたことが、新田と対抗しようとする方針に影響した可能性もある。まあ、今のところは蘆名からの明確な敵対表明は行われていない。鷹彦とその手の者から相手の内情が把握できるのは、とても助かる状態だった。


 この蘆名に、奥州鎮撫への協力を求める使者を送ったとして……。嘲笑されるのならまだよいのだが、斬り捨てられるとなると人的損失は看過できないものとなる。他の諸侯にしても、相手の気性によっては同様だろう。


 そうであるなら……。そのあたりは、光秀や道真らと検討していく必要がありそうだった。


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