第五部

【永禄九年(1566年)九月】その一


【永禄九年(1566年)九月】


 京から厩橋に帰着すると、ほぼ同じタイミングで到着した北からの帰国便で、小金井桜花がやってきていた。


「よお、元気か桜花。奥州では大活躍だったそうだな」


 横瀬氏討滅時に加入した鉄砲好きの女性武将は、用意された床几に座らず、腰を落として応じてきた。


「主上より勅諚を得たと聞き及んでおります。おめでとうございます」


「単に用事を言いつけられただけで、俺自身の立場は何も変わっていない。その口調も態度も勘弁してくれ」


「ですが、奥州鎮撫の勅命となれば……、北方では北畠顕家卿に重ねる声が多く出ています」


「南北朝の英雄と重ねられてもなあ。子孫とも友好関係なわけだし」


 とぼけてみせるものの、主上や関白殿下も口にしていたその意図は、いずれ伝わっていくだろう。けれど、踊らされる必要もない。


「主上に仇なす者を討てとの含意を感じますが」


「気のせいだろう。なんにしても、息苦しいのはご免だなあ。どうにかならんか。ポルトガル商人から仕入れた鉄砲をあげるからさぁ」


 俺の言葉に、桜花が破顔する。


「そういうことでしたら、手を打ちましょう。ただ、怖い人の目があるときは、外面対応させていただきますからね」


 まあ、ただの無位無官だったこれまでと、勅諚を得たことによって、朝廷から現勢力圏に加え、今後の奥羽への勢力拡大の事実上のお墨付きを得た後の無位無官とでは、確かに意味合いが違ってくる。これまで通りではいけないのかもしれない。……そのあたりにうるさいのは、道真や光秀あたりだろうか。まあ、状況によるだろうが。


「で、安東はどうなったって?」


 檜山安東と湊安東の安東勢同士による内紛は、新田とその友好勢力の介入によって、湊安東勢の勝利に終わっている。湊安東の血筋である月姫には、佐野氏出身の虎房が寄り添っているそうだ。


「月姫様と虎房殿の息はぴったりでして、湊安東の方々に祝福されています。元は、檜山安東の横暴に反発した方々だったのですが、今ではすっかりまとまっていて。……新田絡みの商売の方への期待も大きいでしょうが」


「まあなあ……、農民から搾り取る勢いで、外来の商人も含めて通商に課税しちゃ駄目だよなぁ」


「はい。本拠地近くの能代湊は小規模だったために、商人の影響力、発言力は強くなかったようでして。檜山安東では、なにと戦っているのかわかっておられなかったのでしょう」


 内紛に先立って、血脈を合同させる形で檜山安東と湊安東は一つになったわけだが、重用されたのは檜山系の家臣のみだったようだ。結果として、商売について詳しい者がおらず、そのあたりの機微がわからなかったのか。


「で、安東愛季はどうしてるんだ?」


 安東愛季とは、檜山安東の父親と湊安東の母親を持つ血筋の人物で、若き当主として両者を一度は統合させた存在だった。史実では、後に弟を湊安東の当主に据え、湊騒動と呼ばれる幾度かの内紛はありつつも、秋田氏と改称させた一族をまとめ上げていく流れになるはずだったのだが。


「新田に従うとなれば、武田と向き合ってみたいと言っていましたが……」


「武田とは不可侵の約定を結んでるんだがなあ。まあ、いずれ破られるかもしれんが。それにしても、切り替えが早いな」


「実は……、月姫様は従妹にあたるのですが、母方で過ごした時期もあって、兄妹のような関係だったそうで」


「あー、それは複雑だろうな」


 母親系の勢力をまとめた馴染みの妹分に、……しかも、仲睦まじい恋人と手を取り合って打倒されるとか、我が身に置き換えると震え上がってしまいそうである。


「なるべく早く、出羽から離れさせた方がいいか……。武田を相手にしたいなら、足柄城でも任せるかな」


「ただ、月姫様は、しばらく心根を叩き直してからね、と仰せでした」


 敗れながらも早期離脱が許されないというのは、どんな関係性なんだか。まあ、しかし、そんな雰囲気であるなら、旧檜山安東勢との間も、ひどいものにはならないのかもしれない。通商中心に活動してきた湊側からすれば、陸の安東を軽んじて収奪するなんて発想は、そもそもないだろうし。


「で、北畠・大浦・新田連合と湊安東の関係性はどうなんだ」


「商人同士は、きっちり話がついているようです。檜山安東の一部は大浦が確保していますが、湊安東との間には新田領を挟む方向で話が進んでいますし。……できれば、四者連合に、あるいは蠣崎も加えた五者連合に発展させたいと考える者も多くおります。一度、殿にお運びいただくことは可能でしょうか? あるいは、道真殿か、光秀殿でも」


「現地組に任せようかと思ってたんだが、出向いた方がいいか?」


「ええ。あちらで状況を確認した上で、任せられるところは任せるのがよろしいかと。同じ結果でも、殿の顔が見えるかどうかで、友好勢力の家臣らの受け取り方も変わりましょう」


「調整しよう。……鉄砲の威力はどうだった?」


「奥州での効果は猛烈でした。大砲も含めて、集中運用まではしていないのに、敵が勝手に崩れていく感じでして」


「そうか……。今後の奥州鎮撫を踏まえると、鉄砲を本格投入せずに済ませてくれたのは大きい。出し惜しみによって命を落とした兵には申し訳ないが……」


「その時点では、奥州鎮撫の勅諚が下りるとは思っておりませんでしたし」


「まあ、確かに。……鎮撫については、新田主導で対応することになるだろう」


「いえ、北畠、大浦、湊安東も、ここで除け者にされたら怒ると思いますよ。そして、蠣崎もやる気満々ですし」


「慶広殿が一緒に来てるんだよな。世継がほいほい出てきていいのか? まあ、わりと遠出している俺が言うのも何なんだが」


「主家だった安東家が檜山安東から湊安東に移行し、月姫様にも虎房様にも、蝦夷地交易を独占するおつもりはありません。殿と新たな縁を結ばれようとしているのでしょう」


「蝦夷地か……」


 アイヌ民族との関わりは、考えていかなくてはいけないだろう。北海道から樺太、一部は大陸のアムール川の河口やアリューシャン方面まで進出しているはずで、できれば連携しつつ防衛態勢を築いていきたい。


「それにしても、奥羽の鎮撫を命じられてすぐに、北の四半分の鎮撫が済んでしまったな」


「残りはなかなかの大勢力です。気を引き締めて参りましょう」


「ああ。……ところで、雲林院松軒は健やかかな」


「ええ、あの御仁は相変わらずですね。人の心を解さぬところがあるようです」


 そっけない言葉のわりに、頬がほんのりと染まっているからには、少なくとも一気の破綻には至っていないのだろう。それも含めて、確かめてくるとしようか。




 蝦夷地からはるばる厩橋までやってきた蠣崎慶広との交流を持ちつつ、関東惣無事令の布告準備に入った。千葉氏と佐野氏との事前調整は済み、文言の細かな相談が続いている。


 外敵と盗賊には新田が対処し、訴訟についても千葉、佐野の所領以外は新田が第一審扱いとして、不満があれば関東管領の上杉家が受ける方向性となりそうだ。


 そのための役所は古河に設置し、代官に常駐してもらう形とした。古河の統治は上杉の代官が行なうともしている。


 ただ、それでは上杉の得るものが少なすぎるので、北信濃の戸石、小諸を渡そうとしているのだが、難色を示されている。まあ、真田や依田だけでなく、飫富昌景の根拠地でもあるため、受け取りづらいというのもあったかもしれない。


 埋め合わせとして、十三湊、土崎湊からの船を越後に回して、通商を活性化させるべく努めるとしよう。まずは、話が進んでいる本庄氏の勢力圏である岩船港からになるだろう。


 現状の越後の特産品である青苧からの麻は、綿織物と絹織物が一般化してくれば需要が落ちていく可能性が高い。史実では、河川を整備して米どころへの道を進むはずだが、おそらくだいぶ先の話だろう。




 上杉家とのそういったやりとりは、書状で行っていた。京との往来の際には越後を通過したのだが、軍神殿が行きは出羽方面、帰りには越中に出兵していて、どちらも素通りとなっていた。


 二度とも、留守居役にあいさつはしていたのだが……、溜まっていた雑務をこなして一息ついたタイミングで、先触れと相前後して本人がやってきた。三国街道の整備が進んできているとはいえ、なんとも腰の軽い大名である。


「幕府の動きはどうだったかな?」


「特に幕府に接触はしませんでしたな。将軍だけでなく、将軍候補も不在だと認識しておりましたので」


「……それでも、将軍家の者がおったのではないかな」


「なんですと?」


 この時点で、室町幕府の幹部的な者たちは足利義栄か義昭のどちらかの陣営に参じている想定だったのだが、下僚的な者たちが京都に残っていたのではないかというのである。その認識はなかったし、光秀からも話はなかったので、思いつきもしなかった。


 まあ、明智氏が一族の土岐氏の下で幕臣だったのは祖父の代だったそうだから、幕府の事情にさほど詳しくないのも無理はない。それに、あちら側からの働きかけもなかったようだし。


 軍神殿は、俺からの書状を受けて、京の事情に詳しい神余親綱(かなまりちかつな)という家臣を急派してくれたらしいのだが、追いつけなかったのか、行き違ったのか。どちらにしても、悪いことをした。


 主上から奥州鎮撫の勅諚を与えられた件は伝えたが、軍神殿は、ほほうと聞いているのみで、特に反応はなかった。まあ、命じられたのは新田だし、出羽に手を出すとなると、越後北部の揚北衆と呼ばれる国人衆らがざわついてくるだろう。


 頼み込めば、あるいは協力してくれるのかもしれないが、そうなれば上杉の家臣や従属国人衆に大きな負担をかけることになりかねない。


 元時代での史実のように、関東での北条、武田との長期の抗争が行われず、武田の策謀による越後国内や越中での反上杉の謀反、離反の動きがないとしたら、越後の龍は何を目指すのだろうか。越後と北信濃を固め終えれば、越中、能登、加賀へと向かうのかもしれない。


 直江津への船団派遣、北方物資の搬入についての相談を持ちかけたら、その話よ、と膝を打って、同行してきた人物が呼び込まれた。蔵田五郎左衛門と名乗った商人は、単なる御用商人というには、上杉の財政に深入りしているらしい。


 越後の名物である青苧を京へと流すにあたって、既存の流通機構を打ち砕いて上杉の財政を豊かにした張本人とのことだ。そうでありながら、自らはさほど儲けていなさそうなあたり、軍神殿の心酔者なのかもしれない。


 であれば、調整すべきことは多く出てくる。


「青苧から紡がれる麻が現時点で貴重な産物なのはわかるが、今後は綿織物、絹織物と競合していくことになる。その点は、どうお考えかな」


「他家の当主の方に、あまりきついことを言うのも憚られますが……」


「よい。家風として、立場の差を考えずに議論するのを奨励している。好きに話してくれ」


「では、ご遠慮無く。……新田殿は、上杉の蔵を打ち壊すおつもりですかな」


 語調こそ柔らかいが、はっきりと喧嘩腰である。軍神殿は面白い見世物だとばかりに見物モードに入っているので、好きにやれということなのだろう。手仕草で内政組を呼び寄せるよう指示を出して、話を続ける。


「綿織物は、麻を扱っていた職人も惚れ込む素材だ。棲み分けていくことにはなるだろうが、麻織物の需要の一部を侵食するのは間違いない。絹織物も、一定の品質に達しないものは、廉価で捌いていくことになる」


「なぜ、苧麻を排除しようとなさるのです」


「青苧を排除するつもりは毛頭ないぞ。絹は、明や南蛮に売りつけるために、質のいいものを作ろうとしている。綿織物には、麻とは違う用途がある。枕と布団は、軍神殿にも気に入ってもらっていると聞いているが」


「ああ、もはや雲取屋の寝具は手放せん。遠征先でも、野営時は仕方ないが、小屋でも確保して布団にくるまれば、極楽だからなあ」


 戦陣に持ち込んでいるのか。それなら、武将向けの携帯用寝具とかも需要があるだろうか。量は捌けなくても、宣伝効果は高そうだ。高利貸しから転身した雲取屋は、人足の手配を本業としており、新田領の発展の基盤となってくれている。ただ、当主の左平次の興味は布団の高度化に向かっていて、改良が重ねられていた。


「じ……、実は手前も、もはや布団なしでは……」


 苧麻至上主義による完全拒絶モードでないのなら、話は通じそうだ。


「新田がやらずとも、少なくとも綿織物は普及期に入りつつある。青苧の先は見ているのか、と訊いておるのだが」


「なれど、もう一つの柱の奥羽、蝦夷地との交易も、新田殿と関連勢力が牛耳ろうとしていると聞き及びます。そうなりますと……」


「いや、奥羽で商いをしようとしているのは確かだが、既存の商人を締め出すつもりはないぞ。むしろ、岩船湊や直江津に、蝦夷地や奥羽からの物品を持ち込もうかと思っていたのだが」


「なぜ、岩船湊なのです。直江津の商いの邪魔をされるおつもりか」


「傑山雲勝との対話で、そうなったんだが……」


「御屋形様、やはりあの者は危険です」


「まあ、本庄繁長は護邦殿と関係が深いからなあ」


 軍神殿は、やや他人事めいた口調である。そして、あの坊さまはやはり危険視されていたのか。


「繁長殿は、自らの危険を顧みず、新田の臨時招集農兵を守ってくれた御方でな。恩は返さなくてはならぬ」


「なれど、それでは直江津が……」


「なら、直江津に盛大に北方からの物資を供給するのではどうだ。上方からの商船が、直江津で商材を確保して、戻っていく流れも生じるだろう」


「価格はどうなりましょう。あまりに高価では捌けませぬ」


「新田船で直接持ち込むからには、運賃分を無料でとは言わんが、沿海航法の商船が運ぶよりは安くなるさ」


「そうなれば、津料で潤いましょうが……」


「あ、岩船湊はおそらく、津料を取らんぞ」


「なんですと。どうして、直江津の邪魔ばかり……」


「利点がなければ、岩船湊に寄る船はないだろう。商船が損得勘定をした上で、好きな航路を取ればいい。新田が交易全体を牛耳るつもりはない。定期航路として、品目もある程度絞ることになる」


「なれど……」


 三条西家が握っていた青苧の既得権益を崩したからには、頭は回る人物のはずだが、それでも考えが固いところがあるようだ。


「土崎湊を治めていた安東氏は、檜山安東と湊安東に分かれていたのが、近年になって婚姻により一体化した。だが、実際には檜山安東が牛耳った形になり、土崎湊には多大な津料を含めた税が課せられた」


「そのようですな」


「湊安東は、長らく津料を最低限に抑え、商業の振興に努めてきた。そこに重税がかかったのだから、怨嗟の声が充ちるのは無理もない。そこで立ち上がったのが、湊安東の姫である月姫様で、その隣に立つのがこの軍神殿の養子である佐野虎房殿だ」


「なんだか、琵琶法師のようだな」


 にやりと笑っている越後の龍とは対照的に、やってきていた明智光秀が慌てた声で囁いてくる。


「殿、お控えください」


 まあ、確かにちょっと芝居じみていたかもしれない。


「あー、なんだな。結局、檜山安東は放逐されたのだが、要するに、津料で搾り取るよりも、産業を振興して、儲けた方がいいんじゃないか、との話だ」


「そちらに税をかけろと?」


「それでもいいが、できればその産業を雇い人にやらせて、直接上杉家の蔵に入れる、なんてどうだ?」


「御屋形様に商人の真似ごとをしろと申されるのか」


 強い口調になったのは、軍神殿に関わる話だからか。


「控えよ、五郎左衛門。新田殿がいかに寛容だとしても、その態度はならん」


「はっ」


「いや、いいんだ。人物だと見込んだからこそ、こうして話をしているのだから。……なあ、蔵田殿。軍神殿は、領民に米を作らせ、年貢を課しておる。それは、よいよな」


「はい、おっしゃる通りにございます」


「かしこまらなくてよいと言うのに。では、領民に農閑期に賦役をかけるのは、まあ、よいよな」


「なんの問題もござらん」


「なら、領民のうちの手業が得意な者を雇い入れた上で、物を作らせ、機を織らせ、名物を生み出して何が悪い」


「悪くはござらん。ただ……、御屋形様が御自らやられるのは、武士として……」


「官位を得ているからには公家でもあるわけだ。三条西が青苧を仕切るのなら、軍神殿が越後の物産の振興を仕切ってなにがまずいのか、本気でわからないんだ」


「なれど……」


 そこに、軍神殿の柔らかな声が響いた。


「五郎左衛門、お主が我が身の体面を考えてくれているのは感謝する。だが、何を選び取るかは、自分で考えさせてくれ」


「ご無礼致しました」


「さて、護邦殿。青苧を求める者が減るかもしれぬから、穴埋めを考えようというのはわかる。けれど、そこまでして金を稼ぐ必要があろうかな」


 ちらりと見やると、随従してきている長尾藤景がげんなりした表情を浮かべている。だいぶ話が通じるようになったが、まだ足りぬか……とでも言いたげである。


「……上杉家は、越後国内だけでなく、出羽、関東、北信濃、越中と出兵を重ねておられますな」


「ああ。世に戦さは尽きぬなあ」


 ほいほい出て行き過ぎなんじゃないの? という話は、本筋から逸れるのでまたの機会にするとしよう。


「その費えには、青苧に関する税が使われていますな」


「まあ、そうだ」


「その額が減ったら?」


「困るな……。領民に協力を頼まなくてはならない」


「領民は裕福とは言えませんし、そもそも青苧による収入がない国人衆は、これまでも出兵の費えに困っておりましょう」


「そのために、北信濃の所領を配分しきらず、そこからの米やらを出征した国人衆らに渡しておるのではないか」


「足りませぬ」


 俺の断言に、軍神殿の首が傾けられる。


「そうだろうか?」


「はい、まったく。……その証拠に、ご家臣や国人衆の皆様は、どうにか金が得られないかと、領内の産物を売り物にしようと四苦八苦しておられます」


「……確かに、藤景がそのようなことを言っておったが」


 やっぱり通じていなかったのかと、長尾藤景が盛大に溜め息を吐き出した。


「かねてから言上しておる通りです」


「疑うわけではないのだが……、そうなのか? 五郎左衛門」


「そのような話は聞いております。ですが、御屋形様の戦時の費えは、この蔵田五郎左衛門にお任せを」


「なれど、国人衆や城代らがそのように苦心しているとなると……」


 心酔している家臣や国人衆は、無理をしても従軍に応じる覚悟でいるのだろう。だが、それでも金策に苦労しているのが実情である。となれば、心酔まで至っていない者たちは……。


 どうも、史実の軍神殿は、距離のある配下とのこの面における意思疎通が万全でなかったように思える。忠誠心の強い者たちは黙って従っているのに、出兵を渋るとは、なにを怠けているのだ、とでもいった気分があったとすれば、いずれ破綻が重なっていってもおかしくない。


「それでも、領内に稼げるような産品がある方々はまだよいのです。同じ越後でも、豊かな土地もあれば、貧しい土地もあります。米の獲れ高が総てではございませぬ」


 藤景の言葉に、その主君が応じる。


「それはわかっておる。だから、他の物も加味して……。なれど、それで足らないのなら」


「御屋形様は、義のために邁進なさいませ。後のことは、ご家臣やこの蔵田めがどうにか致します」


 やや離れた位置から長尾藤景が、半ば俺を睨みつけるような視線を送ってきている。おそらく、なんとかしろ、ということなのだろう。いや、まあ、確かに軍神殿に直言できる人間は他にいないだろうけどもさ。


 ただ、またとない機会である。俺は、腹に力を込めて口を開いた。


「義のために、他国を支援する心意気は、尊いことこの上ないものと言えましょう。……なれど」


「なれど?」


 不機嫌なわけではないのだろうが……、越後の龍は、やっぱり怖いんだって。娘の朗らかな笑みを思い浮かべて気を紛らわし、俺は言葉を続けた。


「そのために越後の民や国人衆らが苦しむのでは、義も霞みましょう」


「無礼なっ」


 激したのは、蔵田五郎左衛門だった。河田長親も後方に控えているのだが、表情を崩していない。


「よその勢力への支援をやめよと言うのか」


「いえ、それをやめたら、軍神殿が軍神殿ではなくなりましょう。他国の支援に心を砕くのと同じ分だけ、越後に……、今や、上杉の版図に組み入れられた北信濃も含めて、豊かになるように力を尽くされてはいかがか」


「他国よりも先にか」


「同時でかまいませぬ。周辺諸国にも目配りをしつつ、国人衆の苦境にも目を向けてくだされ。時間のある時に、諸将の城を巡るだけでもかまいませぬ」


「赴いてどうなる」


「産品を生み出さんとする者たちに声をかけるだけでも、励みになりましょう」


「ふむ……」


 さすがにここまでだろう。後は任せたぞとの目配せに、別の位置に座る長尾藤景と河田長親が揃って頷いた。

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