【永禄九年(1566年)八月】その二
【永禄九年(1566年)八月】承前
現状での京の政情としては、将軍宣下を求める足利義栄が四国から淡路にまで進出し、義栄陣営の篠原長房が摂津や河内を攻めて、講和話が出ているところのようだ。
史実においても足利義栄と義昭のいとこ同士での将軍継位争いは壮絶だったはずだが、さすがに詳細までは把握していない。「戦国統一・オンライン」において、将軍、天皇、公卿の役割は、限定的なものに留まっていたし。
本来、戦国時代の日本で全国制覇を目指すのなら、どれだけ早くに畿内を手中に収めるかを考えるべきだ。現状でなら、武田を説き伏せて共に織田の勢力圏に攻め込み、尾張と美濃を分け取りにするのが最善手かもしれない。
だが……、西国で目立った史実とのずれが生じていない状態で、戦国時代の主役たる織田信長を葬ってよいのかと考えてしまうと、悩ましいところとなる。史実の通りに信長が戦国の覇権を握るのなら……、陸遜が家中にいるのを抜きにしても、従属する形もあるかもしれない。
身の回りの者たちと領内の住民の安全さえ確保できれば、そもそも俺が領主を続ける必要はないとも言える。まあ、新田家として動き出しているからには、急に止めるのは難しい面はあろうが、それにしても。
天下を治める様子を見てみたい。そう思える相手は、戦国では信長が唯一となる。
もちろん軍神殿は別枠で、その気になってくれさえしたら、神輿として積極的に担がせてもらうのだが、残念ながらそうはならなさそうである。足利義昭が副将軍にでも任じるといった過激な動きがない限り、軍神殿の視界が劇的に転換されることはないだろう。まあ、仮にその気になったとしても、後継者がいないために、悩ましさはあるのだが。いや、史実で北条からの養子として入った上杉景虎がいないからには、景勝で一本化できるのかな?
ともあれ、信長がこの先、中央に進出していくためには、足利義昭が頼ってくる流れが必須条件の一つとなると思われる。
史実で足利義昭が越前から尾張へと向かう展開において、明智光秀はどういう役割を果たしていたのだろうか? 光秀の出自については諸説があって、美濃の斎藤家に従っていた小領主で、信長の正室となった帰蝶のいとこだったとの説や、いや、そのあたりは司馬遼太郎大先生の創作で、実際は一門として守護の土岐家に従っていた家系の出だとの見解も出ていた。著名な人物であるのに判然としない面が多いのは、主君を討ち果たした人物であるために、家伝も残らなかったためもあろう。
本人に聞き取った結果では、有力説のうちの後者で、土岐家の係累として美濃に移ってきていたようだ。斎藤家の内紛に関わりつつも、実際には土岐家の守護復権の目が無くなった時点で、越前に逃れたということだ。
そうであるなら、帰蝶とのつながりから、足利義昭と信長を結びつけた、なんて話ではなく、足利義昭が朝倉家を頼った際に、元幕臣の絡みで細川藤孝に見出されて仕える中で関わりを持ったのが実情だったのだろう。であれば、大きな影響はなさそうではあるが……。
足利義昭の動向は気になるところだけれど、現時点で三好勢が確保している京はわりと平穏な状況だった。
そうであるならと、俺はかねてより会ってみたかった人物のもとを訪れると決めた。
狩野派の絵師、狩野永徳はこの年で二十三歳。知己だという関白殿下が腰軽く同行してきたので、すんなりと面会が実現した。
人当たりが良さそうな中に、どこか傲岸な印象も含まれる感じは、いかにも芸術家といった風情である。
用件のひとつは、著名な作品についてとなる。亡き足利義輝にとっては、現状は心残りだろうと話を向けたところ、だいぶ上杉輝虎に期待をかけていたようだとの話が返ってきた。
そこから、完成していた洛外洛中図を見せてもらうことができた。狙い通りの展開である。
「見事な作品ですな……」
「ですが、残念ながら死蔵することになりそうです」
「なぜです?」
「新たな将軍は、どうやら義栄様となりそうですからな。上杉殿を京に呼ばれたいとは思われんでしょう」
「なるほど……。僭越ながら、輝虎殿とは付き合いがあるので、新田で購入して贈る形とするのはどうだろうか」
「確かに、このままではもったいないでおじゃるな」
関白殿の心情のこもった言葉に影響されてか、洛外洛中図が越後へ向かうことが定まったのだった。
時間ができたら、ぜひ厩橋に来て、制作と絵師への講義を頼みたい旨を伝え、この日は辞去する形となった。
京の街を連れ立って歩いていると、関白殿下がいつになくぎこちない風情で視線を向けてきた。
「時に、護邦殿。ちと時間をいただけぬか」
「もちろん、かまわないぞ。なにごとかな」
「姉者が会いたがっておられてな。狩野永徳のところを訪ねると伝えたら、近くの寺で応接したいと待ち構えているのでおじゃる」
「姉君とは……、亡き義輝殿の奥方で?」
「いや、そちらも姉なのでおじゃるが、もう一人おってだな。玉栄と号している変わり者で」
「……源氏物語がお好きな?」
「もう、夢中でおじゃってな。……姉をご存知か? 里村紹巴殿から聞いておられたとかでおじゃろうか」
確か、源氏物語の初心者向け注釈書を書いた女性がそんな名前だったような気がする。ただ、この時点からは未来の話かもしれない。
「いや、なんとなく。連歌もたしなまれておられる?」
「そちらも、下手の横好きにしてもなかなかの腕前でしてな」
表現が混乱していて、さらにやや誇らしげなところは、微妙な弟心といったところか。
寺社がやたらと多くて場所がよく把握しきれないが、案内されたのは光照院という寺だった。ここには関白殿の妹がいるらしいが、病気らしくて顔を出していない。
出されたのは、香りのよい緑茶だった。
「越後は本庄の緑茶です。……このお茶も、新田様の仕掛けだそうですね」
「姉者、あいさつくらいはきちんと……」
「かまわんさ。お初にお目にかかる、新田護邦と申します。前久殿には、色々とお助けいただいている」
「花屋玉栄(かおくぎょくえい)と名乗っております。性根の据わっていない弟ですが、新田様のお役に立っておりましょうか?」
言葉選びはややきつめだが、ほんわかとした口調がそれを中和させている。
「近衛の御曹司で現職の関白殿下で、となりますと、いるだけで色々と効果は出ますので」
「まあ、便利使いされているのですね。それは重畳」
「姉者……、護邦殿までひどいでおじゃる」
「冗談はさておき、戦場に臨んで状況を動かそうとする行動力は、なかなかのものかと。武田侵攻の際にも前線に立っておられたし、鹿島神宮、香取神宮の仕置きの際にも、佐竹の間近で活躍していただきました」
「香取と鹿島の神主をすげ替えるそうですね。京では利権目当てに手を挙げようとした者たちが、新田家のこれまでの所業を聞いて震え上がって逃げ出しているとか」
「鹿島氏を攻め滅ぼした件ですかな? あるいは、高利貸しで民を苦しめていた寺を焼き払った件でしょうか」
「寺の焼き払い……とは、そんなこともなされていたんですか?」
「む、語るに落ちてしまいましたな。これ以上、旧悪を自ら開陳しないためにも、どのような所業が伝わっているか、お聞かせいただけますか?」
「まあ、もっと自白をお聞きしたかったのに残念。……そうですねえ、新田義貞公の生まれ変わりを騙り、新田を名乗った横瀬氏に天罰を降し、生まれ変わりを見抜けなかった支族の里見と太田を無礼討ち。その上で、武田と北条までも退けて。唯一保護しているのは、御身が義貞公の生まれ変わりだとすぐに見抜いた岩松のみだとか」
「間違っているとも言いづらい話ですな。おのれ、岩松守純め……」
おそらく新田の血はほぼ入っていないと思われる横瀬氏とは異なり、岩松家は母系からにせよ、新田の惣流にごく近い支族の家督を継いだ、本来なら新田を名乗るに相応しい一族である。下剋上で横瀬氏に放逐されたのを恨んで、そのような噂を流しているとは知っていたが、京にまで伝わるとなると……。
「討伐なさいますか?」
「罰として、京土産をあやつだけ無しにしてやりましょう」
「それはおひどい……」
ころころと笑う様は、おとなしい婦人に見える。だが、おとなしいだけの人物なら、そもそも武家との会見など求めては来ないだろう。
「だいたい、うちの新田は源氏の新田ではないんだ。そもそもが平民の出でだな」
「それはおかしいですね。大中黒を使うようにとの勅諚を受け容れることで、新田の血筋であるのをお認めになったとの話が伝わっておりますが」
「むう……」
正直な話、白旗に黒一本で見栄えのいい旗になる大中黒、新田一つ引きは便利に使わせてもらっている。そう考えれば、確かに言い抜けは難しいか。
「受け容れたからには、源氏の流れである新田だとお認めになられたと捉えられても、仕方のないところでしょうねえ」
「主上からしても、我ら新田が源氏である方がいいわけか……」
「ええ、それは天覧剣術仕合の時からそうなのでしょう」
その時点では、新田はまだ土豪程度の存在だったはずだが、現状を踏まえて過去を眺めると、そう見えてくるのかもしれない。
「話は変わりますが、護邦様は連歌については嗜まれないのですか?」
「ええ。新田の連歌は、岩松守純に任せると決めております。当主が加わっては、自由にできないでしょう」
かつては新田氏の嫡流と自他ともに認める存在でありながら、家臣の横瀬氏にその座を奪われて零落していた岩松氏の現当主は、横瀬改め由良氏を打倒した我が新田を訪ねて臣従を申し入れてきた。現在では家中での連歌大臣的役割を果たしつつ、なにやら情報工作までしている。そこも含めて、好きにやらせている状態である。
「ですが、年末の連歌会では、いつも護邦殿の話題で持ちきりですけれど」
「いや、そんなはずはない。印刷されたものは見ておりますが、我が身について触れた歌はなかった」
「皆様、色々と工夫されているのですよ。弟の返歌にも苦心の跡が見受けられますし」
関白殿下をジロリと睨むと、目を逸らされた。まあ、追求したところで口は割らないだろう。
「それにしても、大晦日の連歌の件は、京にまで伝わっているのですかな」
「もちろんです。連歌会での皆様の歌の書き付けと、厩橋鹿島神社での奉納仕合の絵入りの対戦記、それに最近の摩利支天神社の演目概要なども、正月過ぎの楽しみですもの。連歌好きはみんなが取り寄せていますし、里村紹巴様が嬉しげに配っていますわ。隙あらば、わたくしも参加したいくらいです」
「お越しいただければ、歓迎されそうですが」
「よろしいのですか? 武家の方には、女が連歌を嗜むのを嫌がられる方も多いのですが」
「いや、道真も参加していますし。……って、しまった」
この日のやり取りで初めて、玉栄殿が驚きの表情を見せた。
「道真様は、男装の女性武将でしたの? ……前久殿、あなたがわからないはずはありませんよね。この姉にまで隠し事ですか」
関白殿下が首を竦めておられる。その様子から、姉弟の関係性が透けて見えた。
「あー、いや、我が新田の最高機密だからな。そなたの弟御は配慮してくれたんだろう」
「紹巴様もとっちめなくてはいけませんね」
そう息巻いた玉栄殿の表情は、なかなかにきついものとなっていた。
彼女は蜜柑や澪とはまた違う感じで話しやすい人物で、その後も京と関東の情勢どちらについても話は弾んだ。
源氏物語について聞いてみると、最近の注釈本は自己満足の説明ばかりで注釈になってないとおかんむりだったので、まとめてくれたら印刷しようかと持ちかけてみたら、関白殿下も興味を示してきた。
「源氏物語の注釈本でなくとも、新たな物語でもいいですし、和歌集でもよいでしょう。なにが今の時代に好まれるか、なにを後世に残したいかで考えてくだされば」
「繁朝殿が春日虎綱殿とこそこそやっているのは、その話でおじゃったか」
「箕輪繁朝がなんだって?」
「いや、こっちの話でおじゃる。それなら、勅撰和歌集の復活もありでおじゃるか」
「それもありだが、あれはやはり古典だろう。やるなら、なにか別形式を作り出した方がいいんじゃないか。各大名に一首ずつ出させるとか、決まった題材で募って、そこから選ぶとか」
そんな展開で、話はまた盛り上がったのだった。
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