【永禄七年(1564年)九月/十一月】

【永禄七年(1564年)九月】


 里見を抑え込んで態勢を整えたらしい北条が、千葉氏と共に古河攻略軍を組織した。旗頭には足利義氏が据えられ、結城、小田、小山らが加わり、古河攻略が果たされた。


 既に足利藤氏は行方知れずで、古河公方が不在の状態だったためか、防戦の構えこそ示されたものの、実際は形式的なものだったようだ。簗田晴助は、完全に足利義氏の家臣となるのだろうか。


 南の滝山城方面の北条による圧力が減じ、武田も信濃方面の対応で手一杯であるようなので、新田の主力は古河方面に振り向けている。そして、上杉軍のうちの斎藤朝信、長尾藤景、本庄繁長らの元々の関東駐留勢も、深志城方面から転じて合流していた。


 ただ、こちらは軍神殿が来るまでは動くつもりはなく、それは古河側にも伝わっているようだ。大軍が北関東に集まっていても、意外なほどに緊張感はなかった。


 足利城、館林城、忍城では、どこも仮設陣屋が設置されて、滞陣もわりと快適なものとなっている。上杉勢もそれは同様なようだ。


 旧武田勢、新田主力に上杉勢まで加わったことで、足利、館林、忍の各城域では料理屋や商人などがてんてこ舞い状態となっている。厩橋や箕輪、大泉方面からの援軍も来ているようで、活況が示されていた。


 対して、北条らの大軍に居座られている形の古河の民は、だいぶ苦しい状態となっている様子だった。同情はするが、それを理由に仕掛けるつもりはもちろんなかった。




 それよりも、というと表現が悪いが、蜜柑が娘を産んでくれた方が俺にとっては重大事だった。俺の子としては柚子、柑太郎、渚に続く通算四人目で、蜜柑にとっては三人目となる赤子は、来夢と名付けられた。


 なんとなく柑橘類つながりで名前を考えていたのだが、和風のものがネタ切れとなってのライムからとなる。蜜柑には、神隠し前の世界の果物でと説明したのだが、響きがいいからと賛同が得られた。


 生まれたばかりの娘がだいぶ小さく見えるのは、柚子がだいぶ大きめだったからであるようだ。




 そして、やや遠方の話となるが、三河で一向一揆が収束した。なぜそれを気にするかというと、松平元康……、元時代では徳川家康として知られる豪族の家臣で、一向一揆に参加した者が浪人として流浪する史実があったためとなる。


 忍者を派遣して確保を狙っているのは、本多正信と伊奈親子だった。まあ、実際は史実とのズレが出てもおかしくない状態だが、招ければ戦力になってくれるだろう。




 さらに遠くの北方からは、景気のいい話が入ってきた。北畠・大浦・新田連合が南部家の支族である七戸氏と抗争を始め、八戸氏も加わろうかとしたのを見て、安東愛季が南部領に侵攻したのだそうだ。


 結果として、七戸氏に後詰がなくなったため、小金井護信が縦横無尽に仕掛けて回り、野辺地湊辺りと下北半島の陸奥湾沿岸まで制圧したのだそうだ。神後宗治と小金井護信は相性が合うようで、連携がとてもよいというのは忍者勢からの報告だった。


 史実では、津軽為信としてこの地方の英雄となるはずの小金井護信を従えているからには、神後宗治の器量は大きいのだろう。まあ、牙を上手に隠しているだけかもしれないが。


 さらに、連絡に紛れていたようなのだが、既に大光寺氏と石川高信の軍勢は破っており、石川高信は戦死、その息子の信直は丁重に久慈湊に送り届けていたそうだ。なんというか、奥州は展開が目まぐるしい。




 そして、北信濃の小諸城域、戸石城域の開発も進めたいところとなる。確保した時期は既に夏近くだったため、稲作には手を付けず、蕎麦や小麦向けの畑の開墾を手掛けてきた状態だった。


 今後は、水田の裏作にれんげ草を植えて、蕎麦、小麦栽培から肥料四天王を導入し、城下町の開発も進めるとしよう。


 同時に、東山道の道筋である碓氷峠の整備も進めていた。小諸城さえ健在なら、西からの侵攻を気にしなくてよくなるのも助かる。そして、関所名目で砦群を公然と整備できるのも意義深い。


 また、上野と北信濃、越後の境に位置する山々が、新田と上杉勢でぐるりと囲めたのも大きかった。踏破が難しい山々とは言え、人が通り抜ける余地はあったのは間違いない。さらに、真田ら地場の豪族が加わったため、管理もこれまでよりは容易になると思われた。



【永禄七年(1564年)十一月】


 信濃に冬が訪れて、武田と上杉の勢力圏がひとまず固まった。制圧中の海ノ口城、深志城を軍神殿が確保し続ければ、越後方面を武田にかき回される可能性はだいぶ低くなるだろう。


 諏訪の高遠城には武田信玄の息子である諏訪勝頼が入っている。この人物は、史実では武田の最後の当主となる武田勝頼で、諏訪氏の娘である諏訪御料人を母として持つために、諏訪氏を継いだ状態だった。


 上杉が諏訪に手を出していないのは、諏訪大社への遠慮があったのかもしれない。勝頼は、俺とは同年代にあたる世代だが、この段階では武田の世継は義信とされているはずだ。


 海ノ口城は直江実綱と北条高広に任せ、深志城には柿崎景家を置いたとなれば、上杉も本気で北信濃を勢力圏に収めるつもりなのだろう。


 両城の後詰め的存在としては、葛尾城では本領を回復した村上義清が、小諸城では新田の遊軍を指揮する真田幸綱がそれぞれ控えている。村上義清の戦意は旺盛で、小競り合いでも兵をまとめて出兵しているようだ。北信濃で武田に遺恨ある豪族が参集しているようなので、無理もないのかもしれない。


 関東へと転じた軍神殿は、古河を守れなかったことに不満げだが、そう言われても困る。いずれにしても、もはや足利藤氏もいないわけで、古河公方家に遠慮する必要もない。上杉勢に、新田、岩付太田、佐野も加わった軍勢は、古河を攻める構えをとった。


 北条としても退くわけにはいかなかったのだろう。だが、軍神殿と正面から戦うのは、やはり無謀だったのか。さらに、新田には春日虎綱、飫富昌景と保科正俊の武田出身の軍団も加わっている。


 館林城周辺に集合した上杉勢に、朝駆け気味に北条が攻めかかる形で、館林合戦は開始された。


 直江実綱、北条高広、柿崎景家が信濃で武田の抑えをしているが、斎藤朝信、甘粕景持が手勢を率いている。そして、頭角を現してきている本庄繁長も一隊を率いていた。


 さらには、後の武田四天王のうちの二人までが、新田の客将として参戦した。また、真田昌幸や依田信蕃も、力量を知らしめようと張り切っていた。


 対して、北条勢はなんとか挽回しようと焦っていたのかもしれない。


 いずれにしても、北条の攻勢が受け止められた後は、一方的に近い戦いとなった。


 館林合戦は、上杉勢の勝利に終わった。


 


 落ち延びた足利義氏は、佐竹を頼ることにしたようだ。退却する兵らが古河の町に火をかけたのは、腹いせからだったのだろうか。強まっていたからっ風に煽られ、火災の被害は大きなものとなった。


 そして、勢いのままに新田は東へ進んだ。撤退する結城、小山、小田の軍勢に追撃を加え、バリスタも投入して容赦なく城を奪っていく。


 今回は、忍者による襲撃は行っていない。注目度の高いこの地で奥の手を晒すのは避けたかったためとなる。


 彼らは今回も、領地に戻って上杉輝虎に従属を誓いさえすれば、いつもの通りに許されると考えていたのだろう。完全に不意を衝かれた形となったようだ。いや、慣れとは本当に恐ろしい。


 小田氏治は諸岡一羽によって討ち取られ、小山秀綱、結城晴朝は召し捕らえた。結城晴朝は、小山の前当主、小山高朝の子だったのが結城家に養子に入って家督を継いだ状態なので、この二人は実の兄弟となる。


 捕らえた当主二人と小田氏治の幼い嫡子の守治、それに一門衆は、越後で預かってもらうことにした。それ以外の家臣は放逐を宣言し、域内の豪族には家禄付きで去就を選ばせた。


 区割りは多少変えたが、旧小田領は保科正俊に、旧小山領は飫富昌景に、旧結城領は春日虎綱にそれぞれ預ける形とした。もちろん、内政方面を含めて、新田勢も投入する。


 彼らには、佐竹、宇都宮と対峙してもらうことになる。できれば、特に小田原攻めの際に交流を持った佐竹義重あたりとは仲良くしていきたいが、そういえばまだ家督は継承していないようだ。


 佐竹氏と宇都宮氏は北条と上杉が角逐を繰り広げる隙に、周辺の制圧を進めていた。小田、結城、小山は新田視点から見ると一致して上杉と北条の間を行き来していたように見えたが、実際には相争いつつ、佐竹、宇都宮ともやりあっていたらしい。


 そう考えれば、今回の新田の動きは彼らにとっても完全に予想外だった可能性がある。まあ、いきなり仕掛けてはこないだろうが。




 新田が古河の東方を制圧している間に、関宿城は太田資正に落とされていた。彼らとしても、指をくわえて見ているわけにはいかない、という心境だったのかもしれない。


 新田と太田がそれぞれ領地を切り取る展開となり、軍神殿は不本意そうな様子だったが、それでも古河の守りはほぼ固まった。古河は、関東管領たる上杉が管理すると決まり、近習の中でも年長者だった吉江資堅に託されることになった。


 ただ、町の半ばは焼け、足利藤氏は北条に連れ去られてから行方がつかめず、近衛前久も既に京に戻っている。やや徒労めいた感覚が胸に浮かぶのは間違いのないところだった。




 北方からは新たな情報がもたらされた。南部に攻めかかった安東勢は、南部宗家の三戸氏と、八戸氏らの軍勢によって押し戻されたそうだ。


 一方で、七戸氏と北畠・大浦・新田連合との戦さと、安東による侵攻を静観してきた久慈氏・九戸氏が、南部本家から半ば公然と敵視されていて、内紛状態に近くなっているとの話もあった。ただ、奥州では既に雪による自然休戦の時期でもある。春には、各勢力の頭が冷えているだろうか。


 そんな中で、南部晴政は後継者を固めたいと考えたのか、亡き石川高信の息子で自らの甥にあたる石川信直を養子にすると宣言したそうだ。久慈・九戸への牽制の意味合いもあったのかもしれない。


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