【永禄七年(1564年)六月/七月】その二

【永禄七年(1564年)七月】 承前


 そして、問題の関東の情勢である。上杉と新田の主力が抜けてしまったからには、力の空白が生じるのはやむを得ない。ただ、意外にも激しい動きとは至っていなかった。


 北条勢は、甲斐方面に武田への援軍を出しつつ、江戸城を抜けて千葉氏と合同で里見と対峙し、さらに古河を窺う構えを見せている。


 古河の防衛を託されていた岩付太田氏と佐野氏のうち、太田資正は松山城の防備に専念するとして、既に古河から立ち去っている。佐野昌綱が残ってはいるが、いざとなれば唐沢山城の守備を優先させるだろう。


 もしも新田が全軍を投入すれば、古河の防衛は可能かもしれない。だが、どうしても、そうする理由が思いつかないのだった。


 新田の目が北信濃に向いている間、関東に残っていた上杉勢と岩付太田氏は、北条勢と小競り合いを展開していた。結果として、どちらも大きな戦果は得られておらず、心配されていた新田領への大規模侵攻は生じなかった。


 太田資正は岩付城、松山城を堅持している。一方で上杉の関東残留軍として、甲斐の武田への牽制も任された甘粕景持は、河越城、滝山城、勝沼城を守り切った。新田氏としても北信濃から転進した軍勢の一部を援軍として送ったものの、見事な働きぶりだったと言えるだろう。正直なところ、河越城さえ確保しておいてくれれば、反転攻勢は可能だ、くらいに構えていたのだが。


 北条攻めは、新田単独で進めるわけにはいかない。武田から加入した軍勢は、足利、館林、忍城の防衛に配置し、新田の主力は甘粕景持の支援に振り向けられた。


 そして、久慈実信から小金井護信と名乗りを改めた、津軽為信となるはずだった人物は、妻となった忍者出身の女性と共に北方へと向かったのだった。




 利根川と荒川の間に位置する忍城には飫富昌景と芦田信蕃、古河に程近い館林城には春日虎綱と出浦盛清、赤城山麓に位置する足利城には保科正俊と真田昌幸、信尹兄弟が入っている。飫富昌景と春日虎綱が、客将との立場を受け容れた状況から新田を攻めるとは思えない。彼らは、おそらく新田家を上杉の従属勢力と捉えているだろうし、俺の首を獲ったら新田勢が復讐の矛先を武田に向けるのは確実だった。


 一方で、彼らを遊ばせておく余裕はない。前線に置いておくのはそのためでもあるが、できれば交流も図りたい。俺は、船も使って頻繁に彼らのところを訪れていた。


 内政方面は、既に城代不在でも回せる体制が築かれているし、治安維持は陽忍の諜報部隊が探索を行ないつつ、剣豪と忍者の混成隊が討伐に巡っている。軍勢は、戦闘方面に特化できる状態となっていた。


 転入勢については、さすがに元の構成そのままではなく、常備兵が傘下に入って新たな軍団が構築されている。そこには意図的に武将は入れずに、常備兵志願者からの選抜組、農村からの集合教育組、孤児院出身者の期待組を組み入れていた。




 かつては成田氏の居城だった忍城には、飫富昌景と芦田信蕃がいる。飫富昌景は、かつての第一次侵攻の際に、軍使に立った剣聖殿の従者として真田昌幸と話していた際、注意してきた少し陰のある若武者である。戦死した叔父の飫富虎昌から赤備えの手勢を引き継ぎ、率いてきている。飫富虎昌の任地は佐久にある小諸城の支城的な位置づけの内山城だったため、兵たちは家族を置いての単身赴任状態となっている。


 ただ、昌景からすると、新田風の陣屋暮らしは快適らしい。特に食事面は、支給される糧食もそうだが、城下町の料理屋の食事に兵たちが感嘆しているそうだ。


 彼らをただ使い潰すつもりはなく、常備兵同様の給金は与えていく予定となっている。身の回りの品を整えるために、半年分の給金を前渡したためもあってか、町で買い物や食事をする者も多いようだ。国許に物品を送ることは、特に制限していない。武田の譜代衆と言っても、彼らの所領は現状では新田の統治下に入っている状態だった。


 芦田信蕃は、北信濃の国人衆である芦田信守の嗣子で十五歳の若武者となっている。まあ、俺の肉体年齢もまだ十九なので、ざっくり同年代と称してよいだろう。そして、芦田氏は本姓の依田(よだ)に改めるそうで、信蕃も依田信蕃と名乗りを変えるとのことだった。


 武田侵攻時には、今の信蕃よりも若年だったという当主の依田信守は、戸石城域の支城扱いの依田城で、ややのんびりと過ごしているらしい。どうも、武田家中での信濃国人衆の扱いはきついものだったようで、解放された状態なのかもしれない。


 息子の依田信蕃の方は血気盛んといった様子で、再編された依田勢をまとめての従軍となっている。能力的にも期待できそうだし、なによりもやる気があるのはよいことである。




 館林城は赤井氏の居城だったのを早期に攻め落としたものの、足利長尾氏に明け渡すような形になっていた。そのため、新田領に組み入れてからの統治歴が短い。古河の西隣にあるこの城に入ってもらっている春日虎綱……、通りとしては香坂弾正、香坂昌信の方がよさそうな勇将は、ステータス上は三十七歳と表示されている。甲斐の石和にある農村の出身で、元時代では信玄に見出されて譜代家老的な存在になったのだから、かなりの出世ぶりだったと考えてよいだろう。


 この人物は、川中島近くの海津城を預かっていた状態で、家臣団もそこに住居を構えていたようだ。海津城は現状では上杉が制圧しているが、新田との関係性から往来は可能である。ただ、戻れるかどうかは定かでないため、兵からは家族を上野国に呼び寄せたいとの話もちらほらと出てきているようだ。上杉領で暮らすとあっては、居心地が悪いのかもしれない。


 そう話しながら、兵たちの家族を心配している様子の春日虎綱は、やはり農村出身の感覚を残しているのだろう。どこか陽気な感じからも、上坂英五郎どんとも相性が良さそうだ。


 呼び寄せるのはかまわないが、任地がずっと館林とは限らないと話すと、考え込んでしまった。館林だと、現状では前線に近いため、厩橋か、箕輪あたりかなあ、と伝えると、よいのですかと驚かれた。どうも、厩橋から遠ざけたがっていると思われていたようだ。


「武田で指折りの武将が、客将との立場を受け容れた状態で、新田に害を為すとは考えていない。それはなんと言うか……、恥ずべき振る舞いだろ?」


「それがしはそう感じます。けれど、実行に移す者もおるかもしれません」


「武田の中で、飫富昌景と春日虎綱は、そのようなことはしない。俺は、そう判断している」


「それは……、まあ、そうありたいとは考えておりますが」


 どうも得心していないようではあるが……。


 農民出身ながら名門武田家の重臣となり、信玄亡き後に諫言の書を記したともされる春日虎綱。


 叔父である飫富虎昌が参加している武田義信による当主への謀反の計画を暴き、引き継いだ赤備えを率いて武田の勇将の筆頭格として恐れられた飫富昌景。


 武田の武将の中で誰を信用するかと言われれば、この二人となるだろう。もちろん、馬場信春、内藤昌豊の四天王の残る二人もまた人物なのだろうが。


 そうそう、春日虎綱のスキルには、戦闘系の他では、農政系が並ぶ中に<執筆>も含まれていた。甲陽軍鑑は、この人物の口述による諫言的な内容が元になったともされていたが、いずれにしても、箕輪繁朝とも気が合うかもしれない。


「ところで護邦殿。肥料四天王についてですが……」


 目をギラつかせた春日虎綱によって、俺はれんげ草緑肥、草木灰、石灰、にがりの四点セットについて、洗いざらい白状させられる羽目になったのだった。武田四天王の一人が、肥料四天王にそこまで興味を示すとは思わなかった。既に農政に深く関わる休泊機関の創始者である大谷休泊とも接触しているらしいので、今後は農政方面も相談してみるとしようか。


 出浦盛清とは、静月の祝言の時に話をしていたが、妹を養女にして送り出したこともあってか、だいぶ軟化しているようではある。三日月との兄妹仲次第では、北方での忍者方面統括を担当してもらう可能性もあるが、まあ、まずは降将として遇するとしよう。


 足利城に入っている保科正俊は、仕えていた高遠氏が武田に滅ぼされ、降伏して家臣に転じた人物である。


 武田晴信による北信濃攻略は、だいぶ苛烈なものだったようで、心中がどうだったかは不明である。そこを問い質す気にもなれなかった。


 ただ、二度にわたる武田の上野侵攻で矛を交えたこともあって、古馴染みのような感覚もある。顔を合わせるたびに、第二次進行時の執拗な追撃についてチクリと言われるのだが、それを除けば穏やかな人物である。


 武田在籍時の末期には、小諸城の大井氏の援将的な立場だったようで、家臣の者達もその辺りに居を構えていたとのことだ。小諸城域は新田の勢力圏となっているため、関東に来るにあたっては再編が行われていた。人数が減ってもかまわないとは伝えていたのだが、逆に増えていたようでもある。


 茶会は幾度か重ねたが、酒席にも誘われた。不調法だからと一度は断ったのだが、穏やかな目つきで強く求められたので、仕方なく同席してみた。


 家臣らからも、追撃戦についてネチネチ言われるものと覚悟していたのだが、むしろ二次にわたる侵攻戦の新田側から見た詳細を聞かせてほしいとせがまれ、粘土箱を持ち込んでの解説を実施する羽目になった。


 どんな策を弄したかを示すたびに、えげつないわー、引くわー、的な反応が示されてはいたが、全般としては好意的に受け止められたようでもあった。


 そこに参加していた真田昌幸、信尹兄弟も目を輝かせて聞いている。彼らは保科勢にも可愛がられているようだった。


 家臣となった保科正俊はともかく、客将状態の飫富昌景と春日虎綱については、武田との話がどうなるかによっては、離脱の可能性もある。ただ、だからといって隔意を持って接するのはむずかしい。とりあえず、今は仲間として交流していくとしよう。


 


 さて、本拠の厩橋城で防諜、情報収集の束ねを務めていた静月が北へ向かうとなると、忍者群の体制の手直しが必要になってくる。


 静月の補佐役だった六郎太……、厩橋で最初に出会って、剣聖殿と酒を酌み交わしていた年輩の忍者は、昇格話を力いっぱい拒絶してきた。そういう器ではないのだそうだ。


 ならばと、表忍者の束ねの一人で、忍者教育を担当している多岐光茂でどうだと提案したら、各方面から賛同の声が上がった。人当たりがいいこの人物は、忍者の訓練生にも大いに慕われているらしい。


 そこから、霧隠才助を影忍の指揮役の一人にしてもよいのではとの話も出て、三日月の補佐につける形となった。新人だけでなく現役への指導手腕も認められ、忍者界の名コーチ的な存在となりつつあるこの人物は、各方面に顔が利く状態になっている。本人の技量はともあれ、指揮役としては適任だと思われた。


 他にも細かな分掌変更があったようだが、そのあたりは任せるとしよう。




 そして、奥州の連歌会から新田家中の連歌番長的存在となっている岩松守純と、盟友的立ち位置の連歌師、里村紹巴が帰ってきた。いつの間にか、夏至の定例会にしようなんて企みが動いているようだ。


 奥州の連歌好きまでは把握できていないが、二人は気楽に開拓していくつもりらしい。そこはまあ、任せてしまってもよいのだろう。


 あちらでの主催者は、最上義光と家老の氏家守棟(うじいえもりむね)となるそうだ。湊を持っていないため、すぐに通商というわけにもいかないが、土産物は惜しまないようにしよう。


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