【永禄七年(1564年)五月中旬】

【永禄七年(1564年)五月中旬】


 武装解除をした捕虜は、陣中食ながら新田風の食事でもてなされている。また、葛尾城周辺の集落にも、戸石城域、小諸城域と同様に食料の供給、炊き出しを実施していた。


 北信濃方面での脅威はほぼ排除したため、軍勢の半ばは青梅将高に預けて小諸城へと向かっている。佐久地域を押さえつつ、甲斐方面の警戒のためとなる。


 降将達とも交流を持っているのだが、信濃勢と甲斐衆ではやはり反応がだいぶ違っていた。臣従したか、客将としての加入かの違いもあるが、そもそもの武田家中における攻め取った側か攻め取られた側かの差も大きかっただろう。


 武田が甲斐をまとめて、諏訪氏と結んで佐久地方に侵攻し、初めて国外の所領を獲得したのは、二十年ほど前でしかないそうだ。五十代の真田幸綱、保科正俊からすれば、武田家による信濃支配は当然の前提ではない。


 そして、これまでに因縁を積み重ねていた上杉よりは、新田の方がまだまし、という考えもあるのかもしれない。信濃勢では真田幸綱、昌幸とは一度、保科正俊とは二度、碓氷峠の出口付近で手合わせをしているが、さほど遺恨には発展していないらしい。


 いや、保科正俊からは、二次侵攻時の追撃戦の執拗さについて、いい笑顔で詳細な思い出話をされたが……、怒っているのだろうか。


 飫富昌景、春日虎綱の表情はさすがに硬いままだが、それでも茶会に誘うと、ぽつぽつと対話は成立した。ここは焦らずに進めるべきだろう。


 芦田信守は、戸石城からは千曲川の対岸にある本領に戻れそうとあって喜んでいるようだ。一方で、その息子でまだ十五の芦田信蕃は、こうなった以上はと新田の家臣としての活動を求めてきた。五公五民で年貢を収めつつ、家禄と俸禄が出る新田方式であれば、確かに出仕と芦田氏の嗣子としての活動は両立できる。期待できそうなステータス値だけに、頼りにさせてもらおう。




 先に葛尾城域に到着したのは、北からの上杉・新田連合軍だった。


 村上義清がいたので、まずは葛尾城を毀滅してしまったことを平謝りし、改築の与力を申し出る。ただ、本人からは、生きて再びこの地が踏めるとは思っていなかったと感謝されてしまった。でも、つい先日まで、城は健在だったのだが……。


 北信濃の雄だったこの人物は、軍神殿の後援を受けてこの地に復帰するのだろうか。本来は、戸石城から佐久平の一部まで勢力圏は及んでいたそうなのだが、そこは調整となるだろう。


 上杉勢の関東駐在組である斎藤朝信、長尾藤景、本庄繁長とも再会を喜んだ。そして、上坂英五郎どんに率いられた新田の招集農兵も到着した。


 領民たちを前に、声を張り上げて感謝の念を伝えると、大歓声が起こった。そんな中で、俺の目は箕輪城近くの村の長の姿を捉えていた。


「仁助ではないか……。お主まで参加していたのか。なにも、そこまでせずとも」


 箕輪城を落とした際に、仁助が俺の示した方向性に好感を表明してくれていなければ、新田はこうはなっていなかっただろう。白髪交じりの臨時兵は、にこやかに応じてきた。


「なんの、最後のご奉公のつもりでした。北条との戦さには参加できず、当初からの新田の民として口惜しく思っておりました。武田と正面から戦う以上は、命を捨てる覚悟は固めていたのですが……、本庄繁長様が猛烈な戦いぶりをされましてな」


「そうか……」


 本庄繁長は、かつて北条との本庄城、忍城周辺での戦いに参加したがっていたとの話があったが、今回でその憂さを晴らしたわけか。ともあれ、仁助に死なれなくてよかった。


「それでも、農兵から数百の死者は出たようです。……この身は生き残ってしまいましたが、戦さはやはり恐ろしいですな。今後は、村で楽をさせていただきます」


「ああ、平和な世界を見せられるよう努めるから、長生きしてくれ」


 なんとも言えぬ笑みを、仁助は浮かべていた。




 今回の北回り軍の主将を務めた英五郎どんは、みんなの不安を聞いていただけだったと笑っていたが、それこそが統率力なのかもしれない。芦原道真と諸岡一羽からは、詳細な戦況を聞くことができた。


 新田勢は中央に配置され、一歩も退かぬことだけを考えるようにと求められ、長槍隊と、左腕に盾を装備した防衛特化隊が前面に出る形となった。


 もちろん、招集農兵だけで部隊を組ませていたわけではなく、中核となる指揮役は常備兵の者達が務め、手練れが一定数加わるようにはしていた。それでも、やはり急拵えの部隊だけに、慌てる場面ではない状況で崩れ、その影響で周辺が押し込まれ、死者が出てしまったのだった。


 そこに駆けつけたのが本庄繁長である。小勢ながら鬼神の働きで武田勢を押し戻したというから頼もしい。


 新田勢が防備を固めて粘り、本庄繁長が暴れまくっている間に、斎藤朝信、長尾藤景が左右から回り込んで、どうにか撤兵に追い込んだという。その頃には、碓氷峠を越えた敵勢が北上中との伝令は敵方に到達していたようだ。


 斎藤朝信、長尾藤景、本庄繁長に礼を述べると、彼らからは新田勢の規律と士気を絶賛された。


 まあ、招集されたとは言え、村ごとに人数を割り当てたわけでもない、志願兵に近い状態である。まして、武田が強大であることも、上野に野心を抱く最も危険な存在であることも把握し、少しでもその危険度を減らそうとしての従軍となる。士気が低いはずはないのだった。


 本庄繁長には、どう報いればいいだろう? とりあえず、産品は高く買い取らせてもらおう。




 武田からの降将と、川中島でぶつかったばかりの上杉勢を同席させると、やや緊張した空気が場に漂った。そこは気にせず、感想戦的な時間を持つことにした。


 粘土板を持ち込んで両軍の動きを確認していくと、すぐに諸将は夢中になって、お互いの動きを分析しあった。


 中央に迫った飫富の赤備えの圧力はやはり凄まじく、新田勢の一部が戦わずして崩れたのは無理もなかったのかもしれない。一方で、武田の諸将は、中央の新田勢が今回のみの招集農兵主体だったと知って絶句していた。


 彼らを統率した上坂英五郎どんに、<炯眼>スキルで敵の動きを読み切った諸岡一羽と、その先読みを活かして軍を縦横に動かした芦原道真の手腕も捨て置かれては困るのだが、まあ、急拵えの農兵だったとの驚きが先走るのは無理もない。


 真田勢と斎藤朝信の手勢の衝突は激しいものとなり、長尾藤景の絡みつくような牽制も、それを噛み破ろうとした春日虎綱の攻勢も互いに称賛された。


 そして、誰もが活躍を認めたのは本庄繁長で、この時点では無名に近かった若き武将ははにかんだ笑みを浮かべたのだった。




 二日後になって、軍神殿との合流も果たされた。軍勢は小諸に残し、一部は南下させつつ小勢で北上してきたそうだ。


 武田勢の仕置きについては、そのまま承認された。切り取った土地については、戸石城は新田の管理下に置かれ、葛尾城域には旧領主の村上義清が入ることになった。小諸は、軍勢が集まる都合から共同統治のような形となりそうだ。


 小諸城以北を押さえられれば、上杉、新田とも行動の自由は飛躍的に高まる。そのためにも、武田の逆襲を退ける必要があった。


 軍神殿本人は、小諸にいる兵を率いて南下し、甲斐から信濃側への出口となる海ノ口城の攻略を目指すそうだ。葛尾城からは、斎藤朝信、長尾藤景、本庄繁長の北回り勢で南西に進出し、元時代では松本市にある深志城の攻略を目指すという。そこまで行けば、一部は南信濃となるが、どこまで攻めるかは、軍神殿の胸次第となろう。


 


 その頃、碓氷峠を越えて、北方からの知らせが入ってきた。南部系の大光寺氏、石川高信が攻めてきたものの、撃退したそうだ。奥州における早合を駆使する鉄砲集団の威力は、凄まじいものがあったそうだ。


 どこまでやるべきかとの問いがあったが、こちらも正念場で、任せると伝えるしかなかった。


 さらには、湊安東の姫の所在が知られて、檜山安東とも険悪になってきたそうだ。援軍を出したいところではあるが、少なくとも武田との争いに目処が立ってからとなろう。




 そう言っている間に、上坂英五郎どん、芦原道真、諸岡一羽に率いられた招集農兵らは、一足先に碓氷峠を越えた。各地で歓迎されたのは言うまでもない。


 箕輪で約束の十倍の報酬と、土産を渡して解散となった。まだ田植えに間に合うぞと、各自駆け足での帰郷となったようだ。今年は常備兵の耕作支援をほとんど出せずに、申し訳ないのだが……。


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