【永禄六年(1563年)十一月~永禄七年(1564年)正月】


【永禄六年(1563年)十一月】



 北条の巻き返しが、いつものように古河攻防戦で始まるのかと思いきや、変事が生じた。太田資正の息子、太田資房が北条方に寝返ったというのである。


 この太田資房とは、かつての小田原攻めの際に新田の陣所にやってきて、梶原姓を継いだ弟に複雑な視線を向けていた、北条氏康の娘を妻とする人物である。自身が廃嫡され、弟に跡を継がせようとの動きを察した上での行動らしい。名乗りも、太田氏資と改めたそうだ。


 当主の資正と距離があった家臣を取り込んだ上に、北条の一軍も加勢していたというから、北条の仕掛けなのだろう。松山城を守っていた扇谷上杉の……、岩付太田氏の傀儡である上杉憲勝は猛攻を受けて降伏し、江戸城、世田谷城は放棄されて北条の手中に落ちた。


 そうなると、新田の忍城が前線となってしまう。厄介な話だが、どうしたものか。


 忍城は、沼地にある島をつないで守る形となっていて、構造物を強化し、バリスタ、鉄砲を配置した現状では、防衛力はだいぶ高まっている。だが、形成されている城下町も守りたいし、本庄城方面の農村も戦火に巻き込みたくはない。忍城の東方に軍勢を派遣して、防衛の構えをとっているが、さてどうなるだろうか。




 新田が忍城周辺で防備を固めた影響もあってか、北条はまっすぐに古河を目指した。今回も、小田、結城、小山らは北条方に転じている。


 長尾藤景が厩橋から援軍に向かおうとした時には、関宿、古河から相次いで落城の知らせが入った。攻囲して降伏を待つのがかつての流儀だったが、前年の力攻めが先例になったのか、流儀が変わったようでもある。


 新田としては、佐野氏の唐沢山城に援軍は送ったが、古河についてはノータッチを貫いた。死守しても、攻め手は軍神殿に泣きつけばなかったことにされるのである。関わるだけ損だと言えた。長尾藤景の動きが鈍かったのには、その影響もあったろう。

 また、上杉勢の常駐を嫌がったのは古河公方家の方で、円滑な降伏に邪魔だと考えていたのかもしれない。まあ、今回はそういう攻め方ではなかったけれども。


 流儀が違っていたのは攻め方だけでなかった。これまでは事実上逃亡を目こぼしされていた足利藤氏が捕らえられたのである。


 そして、足利義氏が古河公方として復帰し、古河公方家はこれを受け容れたようだ。こうなると、権勢を振るってきたらしい簗田晴助も、政治的には死に体に近くなってきている。




 その勢いのままで、十一月の末には足利長尾氏が守る館林城、足利城も攻め落とされた。長尾當長は圧倒的な軍勢に攻めかかり、討ち死にしたそうだ。


 通常であれば、降伏して不思議はない場面である。元々、北条が古河を攻めた際、北の唐沢山城の佐野氏を攻めたことはあっても、西の足利長尾に手を出したことはなかった。気脈を通じていたのが、反故にされて逆上したとかだろうか。


 新田としては、唐沢山城への援軍と、桐生城、金山城、そして忍城の東方で防衛の構えを取った。碓氷峠方面に動きはなく、ほぼ全軍の投入となる。


 北条が仕掛けてこないのは、新田とやり合う気がないのか、戦線が伸び過ぎたためか。




【永禄六年(1563年)十二月】


 十二月に入っても、新田勢の北条対応の全力モードでの出兵は続いていた。


 一方で、息子に背かれた太田資正は、岩付城を根拠地にして松山城奪還の構えを見せた。そちらの防衛に回るために、北条勢が南下を始めたのが十二月の半ば頃で、新田はすかさず足利城、館林城を攻略した。


 足利長尾氏の当主、長尾當長は先の戦いで討ち死にしており、一族は退散していた。新田側にも来ていないので、あるいは生存者はいなかったのかもしれない。


 足利城域は初の確保だが、館林城はかつて赤井氏から奪ったのを当時の長尾景虎に明け渡して以来、久しぶりの回復となる。そして、佐野氏の唐沢山城、新田の館林城、足利城で古河を圧迫する態勢が確立されたのだった。


 ただ、古河は実際のところ、新田にとっては特に益がない拠点である。館林城と足利城の改修を行ない、防備を固めるまでに留めておいた。


 太田と北条の激戦は痛み分けに終わったようで、北条の主力は里見を抑えるために転進していった。




 太田資正の息子を離反させて松山城を勢力下に収めたあたり、氏政の戦略眼は油断のならないものがある。


 一方で、足利義氏を古河公方に据えた状態で、古河公方家を鎌倉に強制移住させるといった動きを取らないのは、先代からの流れに縛られていると言えるのかもしれない。


 特に今回は、足利藤氏を捕らえたのだから、足利義氏を公方として認めさせた上で、鎌倉なり小田原なりに連れて行ってしまえば、後はどうにでもできる気もする。いったん、関宿、古河を放棄した状態で、滝山辺りまでの奪回を目指しつつ、里見攻略に注力していれば……。


 いや、それは余計なお世話か。どうしても、戦国SLG視点が抜けないのは、俺の悪い癖だろう。


「で、鷹彦よ。古河公方家に移籍する覚悟は固まったか」


「殿、顔を合わせるたびに同じ冗談を仰るのは勘弁願います」


 報告のためにやってきたのは、足利義氏の家来衆に名を連ねている、忍者の鷹彦である。別の名乗りをしているらしいが、俺にとっては鷹彦のままだった。


「すまんな。……義氏の様子はどうだ。復帰して、追われてのくり返しだが、心が崩れてはいないか」


「それが、意外と楽天的なのです。立場が定まらない感じを楽しんでいるところもあるようでして」


 意外そうに口にする諜者は、どこか楽しげな様子である。義氏のその心の在りようには、鷹彦の影響もあるのかもしれない。


 本人にそう問うてみたところ、首を捻りながらの答えが返ってきた。


「幾人かの家臣団との交流が支えになっているのは確かでしょう。側近的な七人のうち、新田の手の者は二名に留まります。他は、それがしの推薦した者もおりますが、手ずから集めた臣下でして」


「ただのお飾りではない感じだな。となると、この抗争の中でゆっくり退場していくのは惜しいなあ」


 同感だったのか、鷹彦が即応してくる。


「奥州へ誘導しましょうか」


「ああ、まずはその流れを想定しておいてくれ。北の大地はでっかいぞ、とか、藤原三代や北畠顕家、それに坂上田村麻呂の話なんかもいいかも」


「では、まずは援軍を引き込むとしたら、との話から、いい土地だとの印象を植え付けておきます。……その先の蝦夷地や異国についてもですか?」


「ああ、頼む。わりとぼんやりとでかまわん」


 北条が里見さえ押し潰して武田との連携を深めれば、新田が駆逐される未来も充分にありうる。ともあれ、布石は打っておくべきなのだろう。




【永禄七年(1564年)正月】 


 大晦日の連歌会、年が明けてからの香取神社での神前射、鹿島神社での剣術仕合に加えて、矢宮神社での鉄砲の試射と、摩利支天神社での各種芸事の奉納が行われた。


 鉄砲製造は芝辻照延の加入によって品質もだいぶ安定し、数も揃ってきている。改良もいろいろと加えられ、性能も上がっているようだ。ライフル的な弾を回転させる仕組みも考えられそうだが、実際には難しそうだ。


 大砲の開発も進んでいて、笹葉や芝辻照延からは鉄砲だけでなく大砲も奉納として撃ちたいとの話もあったが、人死にでも出るとおおごとになってしまうので、拒絶させてもらった。


 芸事については、傾(かぶ)いてこそいないまでも、劇や小咄のような芸に、雅楽的な演奏や歌などで盛り上がったそうだ。俺もちょこちょこ覗いたのだが、見ていない時に新田を批判する内容の詩吟が行われたそうで、神主からどう対処するかのお伺いが届いた。


 家臣ならともかく、市井の人間が批判するのを規制するつもりはない。表現の自由と言っても通じそうにないので、問題視しない旨を伝えた。一方で、改善点の献策などあるのなら、直接言いに来るようにとも表明したんだが、どうも零落した土豪勢の縁者による恨み節だったようだ。そうであっても、もちろん問題はない。




 軍神殿に、古河陥落の知らせは届いているはずだが、新田はもちろん、長尾藤景にも特に使者は来ていない。死守すべきだったとの叱責が来たらどう対応しようかなと考えていたのだが、その心配はなさそうだった。


 いや、むしろ熟成されてひどいことになっている可能性もあるが。


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