【永禄六年(1563年)十月上旬/下旬】


【永禄六年(1563年)十月上旬】


 秋となったが、今のところ武田による西上野侵攻の気配は見られない。一方で、越後から軍神殿に向けた使者が通過する頻度が増えており、長尾藤景からは越後、越中で不穏な動きありとの耳打ちもあった。武田の策動が効いているのだろうか。


 北条による反撃のシーズンが始まるのだとすると、また身構える必要があるが、まずは穏やかな時間を楽しむとしよう。


 厩橋城、箕輪城、和田城辺りのほぼ平穏な日々は四年に及んでおり、領民の生活は安定していた。


 収量はいい状態で安定しており、さらなる開墾にも勢いがついている。草木灰の確保にも役立つし、仮に耕作の手が回らないようなら果樹や茶の木、椿などを植えればいいので、問題はない。


 新規作物では、改良途上ではあるものの、甜菜が安定して収穫できるようになってきており、砂糖の入手がやや手軽になりそうだ。一方で、商品としても有用なので、配分が難しいところとはなる。


 その他では、国峯城域に植えた蜜柑が結実し始めていた。川里屋から最初に仕入れた苗木が育ったわけで、中々に感慨深い。


 ぶどうは箕輪や秩父を中心に収穫が安定し、栽培に勢いがついており、桃や林檎も苗木からの果樹がそろそろ結実というところとなる。


 茶の木も増えてきているので、来年以降には緑茶、紅茶の増産もできそうだ。


 蕎麦、じゃがいもや小麦、果物、油などの買い上げで、農村の購買力は上がってきており、町での農民向けの市場も、集落を巡回する市も活況を示していた。


 その流れの中で、当初は断念していた戸籍制度だが、定住する者限定で、農村なら村の長が、町なら街区のまとめ役が裏書きするような形で試し始めている。貨幣経済の発達に伴い、新田が提供している周辺比で低利な借金を利用する者もいれば、逆に預金をしておこうという者も出始めていた。


 新田から貸す際には月に一分だが、預ける際には三ヶ月で一分となる。年利4%が高いか低いかの感覚は時代によるだろうが、家に保管しておくのは危険だと考える者もいるようだ。


 派手な活動をする盗賊はだいぶ減ってきているが、村の者同士での盗難や、家族内で誰が金を使うかの争いとなると、剣豪や忍者が解決できるものではない。そうなると、預けておいて、町に出た時に家族で使おうとなるのも無理はなかった。


 まあ、現状では貸すのも預かる方も、財政に影響を与えるほどではない。安定してきたら、新田家本体から切り離して、銀行として活動させてもよいのかも。




 居酒屋の翡翠屋では、ビール……、麦酒が人気であるようだ。そして、翡翠屋の業態分割……、料理屋と居酒屋に分ける計画が実行に移された。翡翠屋は食事中心として、元々の酒屋としての屋号、川鳥屋を酒に特化した店とするそうだ。


 一方で、他にも同様の店を開きたいと願い出てくる者もいて、そちらにも支援を実施していた。元々が酒屋として高利貸しを営んでいた川鳥屋の資金力と対抗するのはむずかしいだろうが、特に自分の料理を出したいとの話ならば、店舗を増やす必要もない。人気を呼んで発展するのなら、それもまた歓迎だった。


 蕎麦屋、うどん屋、ラーメン屋は、これまでは新田直営だったのを、調理人を独立させたり、希望者に開店させたりで、徐々に自由化する方向に切り替えている。


 新進の食事処で人気を呼んでいるのは、海鮮特化の食事処「海真」で、刺し身や汁物に、締めのイクラ丼が大人気らしい。対して翡翠屋は、わりと全般的な品揃えとなっている。


 丼ものとなると、この時代の米至上主義の打破との目的から少しずれるが、米食を禁止したり制限するつもりもない。それに、領民がうまい物を楽しんでくれるのは、単純にうれしい展開だった。


 ピザとカツについては、新田の直営の食事処で試験的に供しているが、こちらも人気を博しているようだ。これらも、希望者が出てくれば、出店支援の流れになるだろう。


 ……どうしても食事方面に興味が偏ってしまうが、服や寝具、農具などの商店も増えてきている。


 エンタメ方面が人気を博す状態ではまだないが、辻で踊る者や琵琶法師などへ布施する者が増えているそうで、その萌芽は見られている。辻でやることに価値があるのかもしれないが、こだわりのない者に対しては、忍者の守護神として設置した摩利支天神社の舞台で行うよう誘導することにした。神主となった忍者が、芸事を好んだのもあるが、特定の色がついていないのも大きかった。このままいけば、摩利支天が芸能の守り神になっていくのかもしれない。




 北方船団の戻り便には、たいていだれか武将級が乗ってきて、報告が行われるのが通例だったのだが、今回の便は水軍の実務系が率いる形となっていた。奥州では、雪が深まる前に早回しで物事が進展する場合が多いようなので、その対応だろうか。


 上がってきた報告の中に、湊安東の姫が乗っていた船が襲われたので、救助した、との気になる一節が含まれていた。


 ただ、報告者も直接に触れたことがらではなかったようで、やや判然としない。次の便での詳報を待つしかなさそうだった。



【永禄六年(1563年)十月下旬】


 秋が深まる頃に、越後、越中の情勢の不穏さを重く見た軍神殿が、軍を収めて三国峠を越えていった。入れ替わるように派遣されてきた本庄繁長は、塩干しする前の鮭と仕込んで間もない筋子、イクラを大量に運んできてくれた。新進の海鮮料理店「海真」に卸して本庄勢の家臣や兵らを招待したら、大層な盛り上がりを見せた。


 その席で、俺は本庄繁長のブレーンっぽい存在らしい傑山雲勝(けつざんうんしょう)という僧侶と顔を合わせた。


「この、いくら丼というのは、絶品でござるな。新田では鮭の腹子を塩漬けにして食すと言うから、どんな狂気の沙汰かと思っておったが、これは仕方ない」


 もぎゅもぎゅと咀嚼しながらそこまで言い終えると、給仕を呼び寄せてお代わりを頼んだ。


「狂気の沙汰の主導者である俺が言うのもなんだが、僧体が魚肉や魚卵を食べてよいものなのか」


「なんの、様々なものの命をいただきながら生きていくのが人でござろう。であれば、おいしくいただくのは正しい在りようよな」


 その点はまったく同意である。


「ただ、イクラや筋子が本庄城域に広がれば、塩や酒の消費量が増えるんじゃないか?」


「元々が塩引き鮭を肴にする土地柄じゃから、問題はあるまいて。……新田では、米の収量を上げているそうじゃな」


「ああ。草木灰、れんげ草の緑肥、石灰、にがりを肥料四天王と称して、土地の改善に務めている。試してみるか?」


「それはぜひ。……なれど、どうして繁長どのにそこまでされるのかの。茶の若芽を奪い取るように持っていったと思ったら、緑茶や紅茶に化けて、しかも金子も付いて戻ってきたしな」


「軍神殿に諸国を連れ回されて大変だろうから、せめて領内を豊かにしてもらおうと思ってな。なんなら、治水の技師を送ってもいいぞ」


「……輝虎様を批判するのはやめていただこうか」


「それは、繁長殿に言ってやれよ。長尾藤景殿と川中島合戦の戦術批判で盛り上がってたのを、軍神殿に聞かれたんだろ?」


「あの御方が、二度目を許してくださるかどうか」


「前回は藤景殿のせいになってるだろうから、今度は俺のせいにすればいいのさ。……実際問題、上杉家中の雰囲気はどうなんだ。出兵ごとに、上杉からなんらかの褒美は出ているのか」


「輝虎殿は、自らの理想のために家臣や従属豪族が従うのは当然と考えておられるようだ。感状は出ておるが、直接的な利益を求めたら、流血を理由に強請るのか、くらいのことはおっしゃるかもしれん」


「即時の謀反案件だろ、それ。……上杉本家は、余裕があるのか?」


「青苧や交易での実入りがあるので、他の土地の国人衆の痛みをわかっておられない節がある。周囲を固める連中が許容しているのだから、他の者達も受け容れるべきだとお考えてではないかな」


「それを、藤景殿が諫言したわけか」


「しかも、長尾の同族からのものとなると、大きな意味が出て来よう。遠ざけられたまでで済んで、まだよかったとも言える」


「……そこまで言っておいて、批判するなもないだろう」


「お主が言わせたのではないか。……新田殿が勘気をこうむるのは構わんが、繁長殿を巻き込まないでいただきたい」


「それは当然だな。せっかく関東くんだりまで来たのだから、損害が出ない程度に活躍してもらうとしよう」


「お頼み申す。……殿は、かつての武蔵本庄での北条戦の際に、独断で参加するべきだったと悔いておられるようでな。次の機会には、仕掛けるかもしれぬ」


「それは……、気をつけよう」


 鬼神の働きをしてくれるだろうが、本来は従属先である軍神殿のための剣であるべきだ。


 繁長に視線を向けると、気持ちよさげに家臣と相撲を取っている。建物を壊してくれるなよ、と思いながら、俺は傑山雲勝に頼みごとを投げた。


「同様に不満を抱いている国人衆がいるようなら、通商などで金銭的な支援をする用意がある。新田で買えるものを紹介してくれれば、話が早い」


「承知した。……だが、不満組との接触は、危険もあるな」


「そこはうまくやってくれ。……ところで、繁長に訊いたら、あんたに確認してくれと言われたんだが、本庄城域の湊……、岩船湊だったか? に船をつけてもいいか。奥州の物品を持ち込めるが」


「歓迎致す。湊の開発は懸案事項だったのでな」


「湯茶や茶菓などで接待するだけでも、誘致はできるかもしれんぞ。変に津料で儲けようなどと考えなければだが。……安東氏の土崎湊が、津料と関税を大幅に引き上げているようでな。商人がそのあたりに敏感になっていそうだ」


「十三湊は活況だと聞くが」


「お、さすがに早耳だな」


 そこから、商いの品目についての話を深めることができた。なかなかの人物であるようで、今日の対話によって本庄氏とのつながりはより強くなりそうだった。




 北条勢の巻き返しは、船を使っての古河方面への遠征で幕を開けた。


 鎧島の新田水軍は、直接攻めてこなければ、また、江戸湊や商船を襲いでもしなければ、直接の手出しはしないのを通例としている。今回も、通過は把握していたが、攻めかけることはしなかった。


 同時に、滝山城方面にも軍勢がくり出されているようだ。


 対して、江戸城、世田谷城を手に入れ、そこからの収穫も得た太田資正は、防衛への参加を表明して古河へと向かった。今回は、古河攻防戦が緒戦となるようだ。



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