【永禄六年(1563年)六月~八月】

【永禄六年(1563年)六月】


 奥州への船団派遣は、人員の輸送と交易も兼ねて大規模になってきている。


 関東で確保した銀と蝦夷地の金の交換が主力で、その金を上方に持ち込めば、より多くの銀と交換が可能となる。銀は明での需要が大きく、当面はアジアで価値が高くあり続けるはずだ。南蛮船交易でも重要な商材で、確保しておけば意義が大きい。


 ただ、金と銀の交換だけではさすがに面白みがないし、他の産品の需要も大いにあるので、色々と手掛ける方向で進めている。


 新田からの畜産加工物、干し椎茸、絹織物、寝具、工芸品、装飾を施した刀や鉄砲、それに各種の酒類も人気で、蝦夷地、奥州からは塩鮭、動物の毛皮、昆布、カニ、ウニ、数の子、干しアワビ、干しナマコ、フカヒレなどが続々と送られてきている。本庄繁長に依頼したのと同様に、鮭の腹子の筋子とイクラへの加工も打診中となっている。数の子が既に国内向けに商材化されているので、抵抗はなさそうだ。


 ただ、筋子やイクラは乾物ではないため、特に明では受け容れられなさそうでもある。量が増えてくるなら、国内で需要を換気していく必要がありそうだ。


 また、こちらからは真珠も少しずつ渡している。量が少ないのでお試し状態だが、珍重されているようだ。



 西方との取引は、里屋に任せる形に落ち着いた。新田の船を堺まで向かわせるとなると、ややこしい状態になりかねないし、既存の交易路があるのなら、費用はかかってもそれを活用した方が楽との判断となる。


 里屋、中でも海運を手掛ける海里屋はすっかり豪商となっており、資金の一部は勝浦党に流れているようだ。今のところ、勝浦水軍の姉御らとは友好関係を築けているが、今後はどうだろうか。神後宗治を取りこまれて敵対、なんて状態はどうにかして避けたいところだった。


 あるいは、一定量は他の商人に流した方がいいのだろうか。そのあたりも、岬や里屋側と相談してみよう。


 北方船団全体の動きは、新里屋を介して岬がまとめる形になっている。荷の配分については、彼女も頭を悩ませているようだ。


 西方向けの根拠地は鎧島ではなく勝浦となっていて、新田の北方船団から受け渡された干しアワビ、干しナマコ、フカヒレなどの商品は、堺の商人経由で長崎方面に送られている。そこから、南蛮船や、明の商船団……、おそらく、あちらでは倭寇と称されている者達が大陸に運び込んでいるようだ。


 一方で、上方向けの金、数の子、塩鮭、新田の酒類などは、鎧島から勝浦に運ばれて、そのルートに乗る形となる。


 上方から買い入れるのは、明からの硝石に、国内で算出する銀や、根来や国友産の鉄砲、京から流出する芸術品といったところだった。茶の湯に深入りするつもりはないので、茶碗やらの茶道具には手を付けずにいる。


 同時に、各所からの粗銅の買い入れ、値幅を見ての米取引、金銀の交換も続いており、収益は高水準で推移している。南蛮船……というか、南蛮商人の身柄でも買い取れれば、明との交易にも乗り出せるのだが。まあ、あまり焦らずに行くとしよう。



 そうそう、この船団には新田の連歌大臣的存在である岩松守純が便乗して、最上義光のところへ向かっている。里村紹巴を誘っての連歌外交……というか、先日送った発句に見事な返句が届いたために、張り切っているらしい。


 最上義光は、まだ若いはずだが、戦国でも一級の文化人とされている。史実での彼は、代替わりしてしばらくは父親との対立と従属国人衆の扱いで苦労すると記憶している。守純らの訪問が慰めになってくれるとよいのだけれど。



【永禄六年(1563年)七月】


 上杉の軍勢は半ばが越後に戻っていったが、軍神殿は関東に留まった。江戸城から東へ示威行動を実施して千葉を圧迫しつつ、南の北条を警戒している。夏に入る頃から、従属した小田、小山、結城らの軍勢も一部が参加するようになっていた。


 だが、軍神殿としては、北条を一気に攻略しようという気は、やはり起こらないようだ。


 北条家は、隠居していた前当主の北条氏康を新田との合戦で失い、若き当主の氏政に率いられている。


 一門としては、北条氏照が大石から復姓し、さらには半ば今川の家臣となっていた氏規が急遽駿府から戻されたそうだ。他では、新田に一時捕らえられていた藤田氏邦がいる。


 史実では、後に上杉と北条が和睦した際に軍神殿の養子となり、上杉景虎と名を変えることになる少年はまだ幼く、表舞台には出てきていない。


 その他では、後代では北条幻庵として知られる北条宗哲が重鎮として活動しているようだ。その息子には綱重がいる。確か、和歌の達人だったか。


 史実では氏政の時代にこそ、上杉の圧迫を凌いで関東を半ば制覇し、北条史上最大の勢力を誇ることになる。だが、現状では、氏康の不在は大きいと考えられていそうだ。


 上杉輝虎としては、前当主を含めた一族の多くを失ったところに攻めかかるのは義ではない、とか考えていそうだ。一人の武芸者ならそれでよいのだろうが。




 軍神殿は関東での活動を継続しているが、厩橋駐在の長尾藤景の動きが封じられているわけではない。越後と関東での交易拡大の件は、軍神殿からの裁可も受け、上杉諸将の概ねの賛同も得られて実行局面に移行している。


 具体的には宿場の整備で、越後側から関東の入り口となる沼田城までの上杉氏勢力圏の要所に、往来する商人、旅人向けの宿代わりの小屋を設置し、番所的な人数を常駐させるようにしていた。その要員については、新田から陽忍を提供する計画となっている。


 また、前段階として厩橋城、白井城、沼田城から参加自由の越後行きの隊商を定期的に組織し、戻り日も決めておくことで、護衛しやすくする方式も取られた。こちらは月一ペースで実行中で、陽忍、弓手、剣豪勢の小部隊を護衛に付けている。盗賊にとって旨味のない場所にする、との意味合いもあった。


 与板からの打刃物の購入は、数こそ少ないが大工達に喜ばれている。その反応を直江実綱に伝えたところ、面映げな表情を浮かべていた。


 本庄繁長は、軍神殿の関東入りと入れ替わりで本国へ戻っているが、取引は順調で、茶葉も大量に送られてきていた。


 茶葉と言えば、河越周辺で収穫された茶の木の初芽は新田が高値で買い上げており、上杉の収入となっていた。軍神殿はやや微妙な反応だったが、理知的な斎藤朝信とは、新田がただで貰い受けるのは筋が違うので、対価が発生するのは当然だとの意識合わせは済ませている。


 まあ、関東に安寧をもたらすための戦さで利益を得るのに違和感があるのなら、その金で緑茶や紅茶を買ってくれれば万事解決である。いや、ホントはそれじゃあ話がおかしいのだが。


「しかし、藤景殿の高城城の辺りは、産品はないのですかな?」


「そうさなあ……。自慢できるのは水害が多いことくらいで、他は特にないんだなあ。あ、甘芋はすごい助かってるぞ」


「それはなにより」


 越後名物で麻の原料となる青苧も、作れる環境ではないらしい。となれば、救荒作物としての甘芋……、さつまいもは威力を発揮するだろう。


「茶の木は植え始めているが、すぐには収穫はできんしなあ」


 長尾藤景の高城城では、めぼしい産品がなかったので、茶の木を植えようかとの話にもなっている。そのあたりは、本庄繁長とも連携してほしいものだ。


「本音を言えば、米を作りたいところなのだが」


「治水も簡単ではありませんしな」


 黒鍬衆を派遣する手もあるのだが、優先順位度からも、関わりが深くなりすぎる点からも、避けた方がよいだろう。


「水害なら、ほぼ毎年のように起こるぞ。まあ、それは自慢にはならんが。……自慢できんことなら、越後七不思議はあるんだがな」


「七不思議ですと?」


「ああ、地中で火が燃えるとの伝承があってな」


「火山の噴火とかではなく?」


 細かく問うてみても、どうやら違うらしい。


「では、石油……、いや、石脳油かもしれませんぞ」


「臭水(くそうず)か? なにやら、臭くて黒い湧き水が出ると聞くが」


「もしもそうなら、燃える水ですので燃料になりますな。燃えやすいので、武器ともできるかもしれませぬ。……自然に湧いて出ているところがあるようなら、買い取らせていただきましょう」


「探してみよう」


 石油が重宝されるのはだいぶ先だろうが、石油ランプの燃料として、また、武器の材料としての利用などは考えられる。使途は限られるとしても、確保して長尾藤景の所領の安定度を高める一助にできればいい話となる。


 うまく行けば、茶の生産が軌道に乗るまでのつなぎくらいにはなってくれるだろうか。




 産業振興については、下僚や商人主体でだいぶ進むようになってきている。現状の主な収入は交易で、無理に収益を上げなくてよいところが、うまく回る一因となっているようだ。


 農村の安定度も高まっており、町での産業と併せて内需と呼べるものが育ちつつあった。その影響で、風呂や食事処も賑わっている。


 そば、うどんは完全に気軽な日常食として定着しており、それよりは割高なラーメンもだいぶ広まってきている。


 居酒屋の翡翠屋も和洋菓子の那波屋、茉莉屋も賑わっている。外食文化は広がりを見せつつあった。


 町や村が潤えば、孤児や流民だけでなく盗賊も引き寄せてしまうようで、盗賊退治を担う陽忍、剣豪隊も引き続き活躍している。


 忍者方面では、陽忍を束ねる甲賀出身の多岐光茂に<忍者指導>スキルが生じ、育成部門を霧隠才助と分担するようになっていた。伊賀者の小沢智景はムードメーカーとして、盗賊追捕に勢いを与えてくれているようだ。


 剣豪隊には、女性剣士がさらに増えているようで、また、塚原卜伝系統の者たちも加わっていた。


 安全面での治水としては、堤の造成と川の掘削、用水路兼放水路の整備が継続して行われている。流域を確定させてからの方がよいのかもしれないが、台風や大雨は待ってくれないので、確実に必要なところから進めている状態だった。



【永禄六年(1563年)八月】


 北方船団の戻り船から、奥州の最新情報がもたらされた。


 新田が確保した十三湊の競争相手になる土崎湊の状況としては、二つに分かれていた安東家のうちの檜山安東勢が、順調に湊安東を吸収しつつあるようだった。両者の血筋の婚姻によるもので、その手法自体は平和的なものとなる。


 ただ、湊安東が治めていた時代の土崎湊の津料が低く抑えられていたのに対して、現当主は積み荷の価値に応じる税を加え、しかもその比率を増やしていっているそうだ。それはどこか、農民にかける年貢にも似ており、湊家が採用していた課税を低く抑えて産業振興を促す方式を、迂遠なものだと考えているのかもしれない。


 そんな中で、湊安東の血筋の若者が唐突に死去したそうで、旧湊安東家に動揺が広がっているそうだ。


 いずれにしても、十三湊で通商を振興する方針は変わらない。沿岸航法で土崎湊方面から蝦夷地へ向かえば、十三湊周辺に築かれた要塞は嫌でも目に入り、立ち寄った物見高い商人は新田風の食事処や宿屋での歓待を受けて常連化する流れが見られるようだ。


 新田から持ち込まれた産品も売られており、船の修理も可能とあって、賑わいつつあるらしい。


 その報告をもたらしたのは、佐野虎房だった。日焼けして体格もややがっしりしているのに、たおやかな印象は変わらない。


「智蔵……、いや、為智は元気でやっているか?」


「はい。戌姫様と仲がよろしいのはもちろんですが、先代からも息子のように可愛がられているようです。義弟のお二人も、なついている様子で」


 大浦家には幼い息子が二人いたのだが、揃って病弱だったために今回の婿取りとなっている。


 長じてから謀殺されたとの話があったはずで、いずれは彼らを担ぐ勢力が家中で勢いを持つのかもしれない。ただ、まあ、現時点で気にし過ぎるのもよくないだろう。


「それで、虎房殿は奥州と往来する生活はいかがかな」


「臣下となったのですから、虎房殿はやめてくだされ。……世界の広さと、我が身の小ささを知り申した。佐野の家督に絡んで思い悩んでいた自分が恥ずかしいです」


「そうは言うが、佐野にも多くの領民が住んでいるからな。まあ、棲み分けられるのなら、それはいいことだろう。なにか目指したいものができたら、言ってきてくれ。なにも、新田の枠内に限る必要はないからな」


「はい、武郎殿や為智殿を見習って、自分の居場所を探していきたいと思います」


「その二人はやめとけ。いや、本気でだぞ」


「はい」


 くすりと笑うさまは、出会った最初の頃の病弱でたよやかな少年の風情のままだった。


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