【永禄四年(1561年)十一月中旬】
【永禄四年(1561年)十一月中旬】
撤退についての交渉が行われたのは、先日の戦場付近でだった。八日にわたって軽めの夜襲が重ねられ、また、糧道の遮断も行われてきた。そこでは、伊賀、甲賀の新参忍者勢も活躍してくれた。
撤退の機運が高まったところで、主将同士の会談申込みが行われたのだった。
武装こそ解いていないが、十人に欠ける規模の武将のみでの対話は、ほぼ丸腰のようなものとなる。そして、腰の軽い近衛前久が同席していた。
「新田護邦と申す。こちらとしては、帰っていただければ助かる。武田が憎くて戦ったわけではないのでな」
俺の言葉に、応じたのは赤備えの小柄な若武者、飫富昌景だった。
「先日以来ですな。新田のご当主だったとは」
首をひねったのは、保科正俊である。ステータス的には、武力が高めな堅実な武将というところとなる。
「昌景殿は、面識がおありなのか?」
「上泉秀綱殿が使者として来られた際に、従者として同行していた少年の一人です」
「なんと……」
「偽名は考えていたのですが、そもそも名を問われませんでしたな。……さて、帰ってもらえるなら、兵糧をお分けいたすが、いかがか。それと、捕虜の交換もお願いしたい」
こちらは、真田昌幸以外にも、大井一族や赤備えの若侍など幾人かを捕らえている。そして、武将と雑兵の区別なく、昌幸と同じ方向性で歓待していた。
少年武将が多かったのは、別に初陣の者ばかりを狙ったわけでもない。剣豪組が若武者を斬るまでもないと考えて、捕縛に動いたようだ。
「どちらも助かります。なれど、こちらで捕らえているのは、兵が数人のみで、釣り合いそうにありません」
「なんの、新田では兵は貴重な存在でな。一人でも戻るなら問題ない。こちらでお預かりしているのは……」
名を挙げると、深刻な表情が少しだけ緩んだ。心配されていたのだろう。
事前交渉で話は出していたので、近くまで連れてきている。昌幸が引率する形で、捕虜がやってきた。剣豪組が居並んでいるためもあるが、武装をつけさせたままなのは、信頼の表明である。
一方の新田の捕虜は、縛られた状態でやってきた。
「おお、赤城村の三郎兵衛。無事で良かった。お主は確か、斎藤氏の小者で、早々に志願してくれた者だったな。苦労をかけた。他の者も、無事で良かった」
さすがに全員の顔までは識別できていないが、武田方に断って縄を切り、手を取って帰還を喜ぶ。完全な演技ではないものの、効果を考えている面は否めない。そして、その間に俺は敵陣営の代表団を観察していた。
相手方の主将は、飫富昌景、保科正俊、真田幸綱となるようだ。交渉の前面に立つのは保科正俊で、真田幸綱はこちらを観察しているようでもある。
保科正俊は、十年ほど前に攻め滅ぼされた高遠氏の家臣だったのが、武田信玄に降った人物となる。
真田幸綱は、かつては武田に敗れて上野の長野業正を頼ったが、信玄の臣下となって功績を重ねていった人物である。一方で、政虎……、当時の長尾景虎が二年前に上洛し、屋形号などの免状を得て、信濃衆への関与を指示されて帰国した際には、太刀を送って祝ったとされてもいる。
信濃衆は、甲斐から侵攻してきた武田家に降った過去を持つ。信濃が組織的な蹂躙に晒され、住民の一部が奴隷化されて搾取される中で、武田との共存を選んだ者たちなのだった。
武田寄りの軍記物などでは、武田信玄の権力基盤は盤石で、信濃勢も含めて家臣団は当初から結束し、一致して従ったように言われているが、実際にはある程度の隙はありそうだ。あってほしい。
昌幸以外の捕虜との対話の中で、より詳細に軍神殿との決戦に至るまでの武田家中の動揺ぶりが判明していた。
海野、仁科、香坂氏が軍神殿と通謀したとして滅ぼされたとのことだ。中でも、直前まで従軍していた仁科氏の当主盛政は、武田への忠誠を叫びながら誅殺されたそうで、同情する向きもあったようだ。実際には、この機に信濃の支配を固める意図もあったのかもしれない。
さらには、武田の一門衆で信玄のいとこにあたる勝沼信元が挙兵間近で討滅され、結構な人数が道連れになったそうだ。武田家による信濃の支配は、この時点では必ずしも盤石ではないと見てよさそうだ。
史実では、第四次川中島合戦で北信濃を巡る越後勢との争いに事実上の決着がつき、上野、駿河に領域を拡大する中で、信濃は武田の元で安定し、やがて武田家の滅亡後には真田が一部を確保することになる。そのときの真田の当主は、先日まで歓待していた真田昌幸なのだった。
いずれにしても、彼ら信濃衆とは決定的な敵対はしないでおくべきだろう。
「では、今回は痛み分けということでよろしいか」
そう問うてきたのは、飫富昌景だった。侵攻してきたのを撃退したからには、こちらの勝ちとも考えられるが、そこをこだわったところで意味がない。まして、相手の陣立てを見るに、今回で一気に西上野を攻略するつもりがあったのかは、疑問が残る。もしも箕輪辺りまで確保していたなら、やがて南下する上杉政虎と正面から戦う事態も生じていただろうし。
「皆様にも立場がおありでしょうからな。それでかまいませぬ」
やや安堵した様子の保科正俊、冷静なままの真田幸綱、苦い表情の飫富昌景と、立場によるのか人柄が出るのか、反応は分かれた。
武田信玄に、新田を強敵だと捉えさせるか、西上野の侵攻にあたってのちょっと厄介な障害物だな、程度に思わせるかで、今後の展開は大きく変わってきそうだ。後者の、長野業正くらいの認識をさせておくのが、史実から大きく離れず、全面攻勢を招かぬ展開を導ける可能性が高い。
そんなことを考えながら、俺は言葉を続けた。
「武田と上杉が手を結んで京におられる将軍を補佐する状況が生じれば……、あるいは武田が上杉を降すようなら、武田に従う未来もあるかもしれませぬ。そのときは、よしなにお願いいたしますぞ」
「護邦殿、滅多なことをお云いでないでおじゃる」
「いや、武田と上杉が手を取り合って上洛するのは、理想ではないですか」
「後段の話でおじゃるよ。政虎殿に言いつけますぞ」
「そ、それは……、弱小豪族の処世術ですので、ご勘弁くだされ」
上野国の全制覇は果たしていないし、武蔵の国も一部だし、まだ大名じゃないことにしたいんだが……。さすがに通らないだろうか。
警戒態勢は解除せず、横川には砦の構築を始めている。ひとまず押し戻せたと考えてよいだろう。
臨時に強化していた碓氷方面軍は解体し、箕輪城で雲林院光秀、上泉秀胤、見坂兄弟が担当する形に戻した。
まあ、箕輪と厩橋は近いので、船ですぐの金山、大泉方面と合わせてほぼ一体としての活動となっている。
遠隔地担当としては、河越駐屯と秩父方面を管轄する疋田文五郎、上坂英五郎、栞と、鎧島を預けている神後宗治、九鬼嘉隆が挙げられる。当面は、その双方を強化しておくべきだろう。
北条による古河圧迫が続く中で、近衛前久は前橋に滞在していた。どうやら居心地がいいらしい。
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