熱田湊 その一


 沿岸航法で風待ちも含めての行程となるため、鎧島から尾張……、いずれ愛知県となるはずの土地にある熱田湊までは十六日を要していた。上陸地点へは、小舟で向かう形となった。


「ここから見ても、だいぶにぎやかそうですな」


 そう口にしたのは、年輩忍者の六郎太である。情報収集を得意としていて、体術はそこそこなのだが、人当たりの良さを買われての同行となっている。


「ろくろーた……、なぜ……、すっかり平気なのですか。裏切りとは……、ひどいです」


 息も絶え絶えに問いを発したのは、こちらも護衛のくノ一、夜霧である。


「どうしてかはわからぬが……。気にするな。お主も、陸に上がれば元気になるではないか」


「そうですが……、回復までに……、襲撃などあったならば」


「幸いにして、剣豪の皆様が同行されている。段蔵様もおられるし、気に病むな」


「それはそれで、存在意義が……」


 複雑な忍者心を吐露する夜霧の頭は、護衛対象である蜜柑の膝に載せられている。


「蜜柑様……、すみません……」


「蜜柑、じゃろ? わたしの立場が気取られぬように、呼び捨てにするようにと告げたはずじゃ」


「まだ、よその者の耳は……、ありませんよぉ」


「なら、この小舟を降りたらじゃぞ」


 どこか甘やかすような声音は、彼女が亡き弟に対して発していた響きに近い。いずれにしても、女性陣の関係性が近くなっているのは間違いのないところだった。


 そんな様子を、加藤段蔵は面映げに見やっている。風魔出身ながらも、忍者としてのキャリアを基本的に単独行動で過ごしてきた彼にとって、新田の傘下で活動する出浦衆の一体感と、家中に自然体で組み込みつつある新田家の感覚は目新しいものなのだった。


 上陸したタイミングで、夜霧が神後宗治に背負われたことで、最も弱々しいのは船酔いの影響が抜け落ちていない疋田文五郎となった。ただ、これまでの道中から、四半刻も経過せぬうちに全快するのがわかっているため、蜜柑も過度に気にかけることもない。彼女のうれしげな瞳は、周囲の町並みに向けられていた。


「この賑わいも、街の雰囲気も、厩橋とはまるで違うな。品川の湊と比べても段違いじゃし」


 手を広げてくるりと身を回転させても、往来を行き交う人とぶつかることはない。通りの広さは、拡大しつつある新田の本拠、厩橋の街よりも上だった。


「そうだなあ。香取海の湊も賑わっているが、こことは比べ物にならんな」


「鎌倉や小田原も開けてはいますが、それよりも上ですな」


 剣豪の師匠と血縁の弟子の言葉を、里屋の主が引き継ぐ。


「この辺りでは、熱田湊と津島湊が栄えていますな。近畿の堺などは、さらに格段ににぎやかです。他では、瀬戸内もこのくらいかもしれませぬ」


「ほう、瀬戸内もだいぶ開けているのじゃな。瀬戸内は、上方の西で良かったのじゃよな」


「はい、そうなります。ただ、海賊が……、村上水軍が活発ですが」


「なかなかの勢力らしいじゃないか。水軍仲間でも話題に上ることがあるぞ」


 勝浦水軍の頭目の一人である亜弓は、どこか楽しげな口調を崩していない。


「堺には南蛮船が山のように来ておるのか?」


 蜜柑の問いに、商人が首を振る。


「いえ、商人は来ておりますが、南蛮船は畿内には入ってきませんな。九州の平戸あたりで荷降ろしをして、そこからは瀬戸内を堺の商人らが仕立てた船や、その他の商船で堺や他の土地へ向かいます。荷の大半は堺から畿内へと入るようですぞ」


「……そうなると、南蛮物を積んだ商船は、村上水軍に狙われそうに思えるのじゃが」


「通行料が積まれる形になりましょうな」


「その金が海賊をより強大にさせているんだから、始末が悪いな」


 女忍者を背負ったままの神後宗治の言葉は、ややきつい語調で発せられた。


「はん、陸の関所と同じことじゃないか」


「勝浦衆は襲撃もするのだろう。それで商人が寄り付かなくなっては、元も子もないではないか」


「棒振りの甘ちゃんになにがわかる」


 女海賊の亜弓と兄弟子のやりとりのきつさに、蜜柑は小首を傾げる。


「なあ、文五郎殿。あそこまで宗治殿が強く出るのはめずらしいのではないか」


「そうだなあ。相性があるのやもしれぬ」


 そう応じられるくらいに、疋田文五郎は船酔いの影響から脱しつつあった。対して、夜霧の方はもう少しかかりそうで、間近で繰り広げられる口論に眉をひそめている。


「夜霧、さぞやうるさかろう。歩けそうなら、肩を貸そうか?」


「いえ、拙者が」


 六郎太がするっと同僚くノ一の身柄を引き取り、腕を組んで歩き出した。


「師匠、この件も笹葉に言いつけますぞ」


 笹葉とは、男やもめだった剣豪と最近恋仲となった野鍛冶出身の未亡人で、新田家中でさまざまな物品の開発に勤しんでいる。


「親切心から手を貸そうと申しただけではないか」


 憤然とするようでいながら、上泉秀綱の声には楽しむような響きが含まれる。気心の知れた主従での旅は、この剣聖にも開放感を与えているようだった。


 かつて箕輪長野家に仕えていた際にも、戦時を除けば自由に過ごすことを許されていた。いや、むしろ、純然たる武士ではない剣豪組は、戦時以外は重用される流れではなかったと評した方が実情に近い。


 対して、新田家では当主の護邦が、剣術家としても武将としても有能で、史上の有名人でもあり、外交役までもこなしてくれる上泉秀綱を頼りにする場面が多い。やりやすさと、波長が合う感覚から、関わりが深くなっているのもまた確かなのだった。かつてのままの彼であれば、八幡八幡宮近くの道場を離れて、主家の本拠の城下町へ移転するなどは考えづらかったろう。


 そして、新陰流の創始者である剣豪からは、甥の疋田文五郎と、神後宗治の二人の愛弟子……、後継者候補の表情が軽やかになってきているのも強く感じていた。本来、剣術の道を極めていくにあたって、生活の充実や栄達の可能性はむしろ邪魔になる場合がままある。それでも、二人が明るく過ごしていることは、師匠としての上泉秀綱に充実感をもたらしていた。


 そして、国人衆という城持ち領主の娘でありながら、待ち構える運命から目を逸らすように剣術に打ち込んでいた蜜柑について考えると、彼の心は弾むのだった。


 かつては、父親である堂山頼近に頼み込んで、疋田文五郎を後継者に指名した上で妻に迎え入れようとの絵図も描いていた。彼からすれば過度にまじめ成分が強い甥と奔放な剣術少女とは、互いに憎からず思う間柄だと思えたこともあった。


 どこぞの領主の妻になって、座敷に押し込まれてしまうのは惜しい。そう考えていたのだったが、まさか武将として先陣を任され、さらには忍者隊と共に治安維持を主導する未来は、想像すらできなかった。


 妻を戦場に立たせる新田護邦を謗る声はあろうが、愛弟子の力量を知る剣豪にとっては、よく決断したと抱きしめたい気分である。まあ、思いっきり嫌がられるだろうとは自覚しているが。


「それはそれとして、飯にしないか。これだけ賑やかなら、食事処くらいはあるだろう?」


「目当てがあります。こちらへ」


 先導に立った里屋の若手に、剣術者を中心とした一行が続いた。


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