熱田湊 その二

 新田蜜柑と上泉秀綱が率いる形となる集団は、神後宗治、疋田文五郎、護衛の忍者である六郎太と夜霧に、飛び加藤こと加藤段蔵を加えて七名となる。そこに、里屋の商人主従と勝浦水軍の亜弓を加えて十人が一まとまりとなっていた。


 食事処では奥まったところにある大机が提供され、一同で座を囲んでいる。本来は、領主の妻である蜜柑は、武将としても活動する上泉秀綱らはともかく、他の者と席を同じくできる立場ではない。けれど、剣術仲間としての気安さに加え、二十一世紀から持ち込まれた当主の感覚も影響して、そのあたりは気にされない風土が家中に定着しつつあった。


「これだけ栄えていれば、食事処の質も期待できそうだな」


 若い時分から剣術行脚を重ねたことで、粗食には慣れている上泉秀綱ではあるが、だからといってうまい食事を楽しまないわけでは決してない。漂う匂いもまた、期待をそそるものだった。


「東海道の湊は、あまりおいしいものはなかったですものね」


 すっかり復活した様子の夜霧も、期待に満ちた声音となっている。そして、主家の奥方である蜜柑を呼び捨てにするように求められている彼女は、演じている面もあるにしても、この一行にすっかり馴染んでもいた。


 運ばれてきたのは、魚介の焼き物や汁が中心である。握り飯には山菜の刻まれたものが混ぜられていた。


「いただこう」


 蜜柑が一声かけて、食事は始められた。けれど、特に新田勢の手がすぐに止まる。


「これは……、塩気がきついな」


「飯に混ぜられている菜っ葉も、だいぶ強い味付けじゃのう」


 小声ではあるが、深刻なやり取りが代表者的な二人の間で交わされる。


「そうですか? うまいじゃないですか」


 もりもりと食べているのは、里屋の若い商人である。


「そうか、お主は新田風の食事に触れていないのだったな」


「そんなに違うものなのですか? 塩をふんだんに使うのが、ご馳走というものでしょうに。上野では塩が少ないからなのでは」


「新田風の料理が塩を節約しているのは確かだが、それが弱みとはなっていないんだなあ」


 神後宗治の言葉に、六郎太が応ずる。


「確かに、雑炊一つとっても、旨味というべきものが強いですな。蕎麦切りのつゆや、様々な料理は別格と致しましても」


「護邦はダシと呼ぶのじゃが、鶏ガラや豚骨、根菜を煮込んだものに、最近では昆布や干し貝なんかも使っておるようじゃ。それらを重ねていくとよいらしいのだが」


 種類の異なるアミノ酸を重ねるのは、鰹節、昆布、しいたけに干し貝柱なども駆使する和風料理の基本であるが、この時代には定着していない上に、物資不足でやろうと思ってもなかなかに難しい。


「重ねずにそれらを単独で味わうのも、また違う楽しみがあるとおっしゃってましたな。鶏ガラの汁は確かにうまかったです。……当初は、鳥の骨や豚の骨を煮込んで汁にするなど、気が触れたのかと思っておりましたが」


 神後宗治の言葉に、うんうんと頷きながら蜜柑が応じる。


「いやあ、ほんとになにごとかと思ったのじゃ。ただ、後から澪に聞いたら、猟師の食事では骨ごと入れて煮込むのは普通のことだったらしいがな」


「そうそう、栞殿もそう言っておられた」


 疋田文五郎の頷きに、新田勢が顔を綻ばせる。澪というのは、護邦の側妻的存在と目される少女である。猟師の娘として生まれ、半ば性別を隠しながら猟師として活動しているところに、この時代に現れたばかりの護邦と接触し、熊に奪われそうになっていた命を救ったのだった。もっとも、その熊が凶暴化していたのは、澪によって手負いにされていたからだったのだが。


 新田の家中で弓を使って活躍する澪の評判を聞いて、同様に女性ながら猟師を生業としていた娘たちが集まって弓兵隊を構成しており、そのうちの一人が話題に出た栞となる。疋田文五郎が彼女に心を寄せているのは周囲からすれば非常にわかりやすく、微笑ましく見守られている状態だった。


「この魚も貝も、本来はもっとうまいはずだよな……」


「そうじゃな。塩を控えるだけでも、きっとおいしくなるはずじゃ。とはいえ、いただくとしよう。……せめて、飯だけでも味付けなしならよいのじゃが」


 蜜柑の返事に頷いた上泉秀綱は、他の卓の注文取り帰りで近くを通りかかった若い店員を呼び寄せ、耳打ちをした。


「どうしたのじゃ」


「ああ、ちょっと頼み事をな」


 剣術家が答えてほどなく、店主が包丁を持ってのしのしとやってきた。


「味をつけずに、そのまま焼いた魚介を焼いて出せとは、いったいどういう料簡だ」


 応じたのは上泉秀綱だった。


「いや、そのままの意味でな。遠方から来て、この地の味付けに慣れておらんのだ」


「俺は、一番うまくなる味をつけて出している。それで評価もされて、うちはこの熱田湊で一番人気なんだ。それが気に入らないなら、とっとと出ていけ」


 強い語調に反応して殺気をまとわせたのは、女海賊の亜弓だった。対して、両手を上げたのは剣聖と称される人物である。


「気に障ったのならすまなかった。確かに、料理人に味付けをするなというのは、剣術家に剣を振るうなと言うようなものだ。支払いはもちろんさせてもらおう」


「金などいらんっ。出ていけっ」


「わかった。蜜柑、すまんが、失礼しよう」


「ああ、わかったのじゃ。騒がせてすまなかったな」


 店主は鼻息を残して、大股で厨房へと戻っていった。


 店を出たところで、振り返った剣術家が嘆息を漏らした。


「すまなかったな。あの店主にも悪いことをしてしまった。愚弄するつもりはなかったんだが」


 即応したのは、勝浦水軍の女頭目の一人、亜弓だった。


「やっちまえばよかったのに」


「それでは、ならず者と同じじゃないか」


「剣術家なんて、そんなもんだろ」


「海賊と一緒にしないでもらおうか」


 女海賊と神後宗治は、この場面でも言い合いを始める構えである。ちらりとそちらに視線をやって、蜜柑は師匠に問いを投げた。


「師匠は剣を振るうなと言われたらどうされますのじゃ?」


「あるもので戦うに決まっているだろう。刀がなければ戦えないでは、兵法者は務まらん」


 納得顔の若妻兵法者は、腹を押さえて途方に暮れる。


「だけど、腹が減ったのじゃ……」


「致し方ありません。魚介をどこかで手に入れて、宿の炊事場で調理しましょう」


 拳を握って宣言したのは、護衛役の忍者であるはずの夜霧だった。彼女もまた、新田風の食事に魅せられた一人である。


「なら、見繕ってくる。宿は……」


 加藤段蔵が調達役を買って出てくれて、ひとまず解散……となりかけたところで、追ってくる者がいた。上泉秀綱に耳打ちをされた、食事処の給仕役の若者である。


「どうした。お主にも悪いことをしたな。まだ文句が足りなかったか?」


「いや、お客さん方がどんな味を求めてるのか、知りたいんだ。よければ、試させてもらえないか?」


「おお、かまわんぞ。替わりと言ってはなんだが、魚介の入手先を教えてくれんか」


 その流れで、宿での食事会が開催されることになった。




 鶏ガラや豚骨がすぐに手に入るはずもなく、また、魚介はそちら方面のみでまとめるべきかもとの話もあり、入手できた昆布と鰹節の他は、骨付きの鯛の骨、ハマグリなどの貝でダシをとっての鍋仕立てがメインとなった。


 魚を下塩のみでの焼き物にする工程は、真蔵と名乗った調理人の見習いが担当した。事前に鶏肉に少量の塩を染み込ませる方法を六郎太が聞き知っていて、それを転用した形となる。


 米は、単に炊くのは芸がないとの話になり、下準備中の魚介だしが投入され、炊き込みご飯風に仕立てられた。


「いやぁ、腹が減りすぎて、無の境地に到達したぞ」


「単に食事を断つだけならまだしも、この香りの中ではつらいですな。素振りをしていなくては、気が変になりそうでした」 


 師匠の言葉に応じる疋田文五郎の語調に、冗談の響きはない。まあ、それだけの香気は周囲に充満していた。


「まもなく準備ができますので、お待ち下さい」


 配膳は夜霧が主導し、神後宗治と亜弓、それに加藤段蔵が参加している。蜜柑は六郎太と共に調理助手を務めていた。


「うまそうだ」


「護邦がいれば、より確実だったのじゃが……。それでも、新田風調理法の方向性から外れていないはずじゃ」


 新田の料理は、護邦のアイデアを澪を始めとする調理要員が実現していく形で広がりを見せていた。常にその過程に参加しているわけではないものの、蜜柑もまた興味を抱いて注視してきたのだった。


「召し上がれ」


「いただこう」


 蜜柑の言葉に応じたのは加藤段蔵のみで、勢いよく着座した人数分の箸が伸びた。


「真蔵殿も食すがよい。お主がいなくては、ここまでの料理は揃わなかった」


「無礼を承知で喰わせてもらうよ」


 取り分けられた椀から汁をすすると、料理人見習いの双眸からは涙がこぼれ落ちた。


「うまいな。これが料理なら、あの店で出しているものはいったい……」


「あの味を否定するつもりはないのじゃ。手に入る食材で精一杯作っているようじゃし、人気店だというのなら、受け容れられているのであるのじゃろうし。けれど、わたしらの好みは、もうこちらの、塩に頼らずにダシを中心とした味付けに移ってしまっていてな」


「これが、あんたらの知る最上の料理なのか?」


「魚介系でまとめたから、一応整ってはいるが、おそらく我が夫ならばよりよい味を引き出すじゃろう。ともあれ、この地の新鮮な魚介のおかげで、ここまでの味になっているのは確かじゃろうて」


「失礼を重ねるが、あんたのご夫君はどこのどなたなんだ?」


「遠方じゃが、上州の厩橋に拠点を置いておる。上泉道場を訪ねてもらうのが手っ取り早かろう。いつでも歓迎じゃぞ」


 頷いた真蔵は、焼き魚と飯碗に箸を伸ばして、今度は本当に嗚咽を始めたのだった。


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