番外編「新婚剣術少女の永禄上洛行」

鎧島沖


 波に揺られる甲板から、新田蜜柑(にったみかん)は遠ざかる島を見つめていた。


 その島の名は鎧島。本来の史実なら、江戸時代に佃島と改名されるはずの、江戸湾に浮かぶ小島となる。


「蜜柑よ。新婚の夫との別れはつらかろうが、気は緩めるなよ」


 その声は、蜜柑の隣ではあるが、腰辺りの位置から聞こえてきた。剣聖として知られる上泉秀綱の高弟の一人、疋田文五郎(ひきたぶんごろう)が、木桶を抱えている。


「文五郎殿、気は緩めていないつもりじゃが……、まだ船出したばかりじゃぞ。だいじょうぶかのぉ」


「だいじょう……、うっぷ」


 うねりが船を揺すり、慣れぬ者にはつらい状態が続いていた。十五になった蜜柑も船旅は今回が初めてなのだが、今のところ船酔いの気配はほぼ皆無となっている。


 兄弟子の背中をさすっていると、もうひとりの剣聖の高弟が身軽に歩み寄ってきた。新陰流の後継者とみなされているこの二人は、共に二十歳過ぎの若者である。


「蜜柑様、文五郎など放っておいて、夜霧殿の世話をしてやってください」


「文五郎殿の方がひどそうなのでなあ……。それと、様づけはやめてほしいのじゃが」


「主君の奥方を呼び捨てにできる方がどうかしている。そんな者は放っておけばよいのです」


 この船に蜜柑と同乗している新陰流一門の剣士三人は、彼女の夫が当主を務める新田家に仕えている。


 その新田家は、蜜柑の生家である上州……、いずれ群馬県となるはずの地域の豪族衆、堂山家から名乗りを変えた家となる。堂山家の当主だった蜜柑の父が戦死し、妻と嫡子が自刃したために、唯一の生き残りとなった蜜柑姫が婿を迎えた状態だった。


 長野業正率いる箕輪衆の一員として、後代では富岡製糸場で名高い富岡市辺りの国峰城域を領有していた堂山家だが、本来の歴史に該当する氏族は存在しない。その点について、蜜柑の夫である護邦はゲーム世界が現実に干渉して、状況に変化をもたらすための史実外モブ豪族として配置されたのではないかと考えている。新田護邦は、二十一世紀に生を享けて、この時代、あるいは世界へと迷い込んできた状態だった。


 ともあれ、蜜柑や剣術仲間らにそのような認識はない。彼らにとっては、過去は揺るぎのないもので、八幡八幡宮近くの道場で共に過ごした時間は現実だった。


 それを踏まえて、疋田文五郎による弱々しい抗議が行われた。


「だが、同門の仲間なんだから……、ううっぷ。けれど、蜜柑。確かに夜霧殿や六郎太殿を優先してくれ。それが済んだら、水でも持ってきてくれると助か……」


 そこまで口にしたところでの大きな揺れが、若き剣術者である文五郎の言葉を途切れさせた。


「水なら、外海に出れば幾らでも入ってくるさ。さあ、蜜柑様。護衛の世話をお頼みするのもいかがなものかとは思いますが、この陣容では致し方がありませぬ。夜霧殿がつらそうでしてな」


「それは一向にかまわんのじゃ。師匠に若いおなごの介抱をさせては、送り出してくれた笹葉に申し訳ないし」


 揺れを考慮しながら蜜柑が足を向けた先には、彼女の護衛を務める出浦衆出身の女性忍者が木桶を抱えてうずくまっていた。


「夜霧、だいじょうぶか。水なら飲めそうか?」


 背中をさすりながらの言葉に、やや震えた声音で答えが返ってきた。


「いえ……、腹になにか入れたら、余計にひどくなりそうでして……。すみません、護衛対象の蜜柑様にこのような……」


「何を言うのじゃ。困ったときはお互い様なのじゃ。六郎太もしっかりするのじゃ」


 穏やかな風貌の年輩忍者からは声もなかった。息はしているようではある。


「よお、蜜柑。お主は平気そうだな」


「師匠もご無事でなによりです」


 蜜柑の剣術の師である上泉秀綱は、まったくもって余裕げな表情である。


「忍者の二人はともかく、文五郎は情けない。気合が足らんのだ」


「船酔いは……、気合ではどうにも……」


 苦しげな女忍者の言葉に、新陰流を率いる剣豪が応じる。


「おう、すまんな。お主を気合が足りないと非難したわけではない。失言のお詫びに手取り足取り介抱して差し上げたいところだが、我が弟子共が邪魔をしてくるのでな」


「笹葉どのに言いつけますぞ」


 兄弟子の言葉に、蜜柑の表情が綻ぶ。対して、彼女の剣術の師匠は気色ばんだ。


「善意の介抱ではないか」


「でしたら、六郎太殿か文五郎の世話をお願いいたします」


「男は気が進まぬ」


 あっさりと語るに落ちたところで、やってきたのは船団を指揮する勝浦水軍の女頭目、亜弓だった。


「仲がいいのはなによりさね。その調子で、自力で対応を頼むよ。こちとら、客を扱うような船じゃないんでね」


 海賊衆の言葉に反応したのは、神後宗治だった。


「今回は、我らを送り届ける仕事を請け負われたはず。それは、責任ある態度と言えましょうかな」


 じろりと同年代の剣士を睨んで、亜弓が腰に手を当てる。


「見解の相違さね。五体満足で送り届けるようには努めるが、船酔いの介抱まで請け負ったつもりはないよ。ましてや、平気そうなのが何人もいるじゃないか」


「皆が倒れてたら世話をするというのなら、それも請け負った内容に……」


 蜜柑は言い合いに背を向けて、夜霧と六郎太の介抱を続けた。


「ねえ、師匠。宗治殿が女性と言い合いするのはめずらしいように思えますが」


「ああ、ホントだな。……どれ、文五郎をどやしつけてくるかな」


 弱ってるからやめてあげて、と思いつつも、蜜柑に二人を放り出してフォローに向かう余力はなかった。兄弟子の危機に、もうひとりの兄弟子は女海賊との口論を続けている。この上洛行の先行きに不安を抱えつつも、彼女は信頼する護衛二人の介抱に集中した。


 今回の船旅は、京を含めた上方で、新陰流の実力を試すための剣術行脚が主目的となる。流派を率いる上泉秀綱は新田家の家臣であり、所属家は長尾政虎……、後に上杉謙信と名乗りを改めるはずの人物にしたがって、関東での大きな戦さの真っ最中である。ただ、出番はもう少し先の時期になるとの当主の判断で、半年ほどに期間を限定して送り出された形だった。


 本来の史実では、上泉秀綱は箕輪城を領する長野業正の家臣として活動し、越後勢による北条攻めの後の武田による上野侵攻で主家が滅亡する憂き目に合う。その後、武田信玄との交流を持って偏諱を受け、上泉信綱となるが、武田には長居をせずに京に向かって剣術家として名を上げることになる。


 対して、改変が加えられたこの世界では、既に新田護邦によって長野業正は葬り去られ、西上野が手中に収められている。そして、新田護邦を婿として迎え入れた堂山家の唯一の生き残りである蜜柑との縁もあり、新陰流は新田家にまるごと臣従した形となっていた。


 元時代知識で、上泉秀綱の上洛の流れを知っていた新田護邦は、こちらも史実知識で予測している長尾政虎による小田原攻めが本格化する前に、剣聖とその弟子を京へと送り出したのだった。上泉秀綱が上野に埋もれてしまうのを恐れたためとなる。長野業正の病死後に滅亡する箕輪長野家と同じ道をたどるつもりは、若き豪族衆の当主にはないのだった。


 そして、新陰流の有力な弟子の一人である護邦の妻、新田蜜柑もまた、上洛への道を選んだのだった。


 彼女もまた、女性の身でありながらも新田家の突撃隊長的な立場でありつつ、さらには盗賊追捕隊の先頭に立って率いていたのだが、北条攻めでの野戦はしばらくないというのが、夫である護邦の見立てなのだった。それだけに、盗賊追捕にも人員が避ける状態というのが、新田の首脳陣の一致した判断だった。


 それでも、懐妊の兆しが出れば取りやめる構えだったのだが、旅立ち前にその徴候は見られなかった。


 勝浦水軍と、その地を発祥の地とする商家の里屋が共同運営する形となる今回の船団は、沿岸航法で西へと向かおうとしている。鎧島を出て、三浦半島、伊豆半島を経て東海地方の湊をつなぐ航路が、行く手には待ち構えていた。


 蜜柑がどうにか護衛のくノ一を寝かしつけ、船酔いに苦しんでいるはずの兄弟子の方を見やると、飛び加藤との異名を持つ手練れの忍者、加藤段蔵が手刀を首筋に叩き込んで、疋田文五郎の意識を失わせたのが見えた。


 即効性のある手法に、蜜柑は感心したのだった。


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