【永禄四年(1561年)閏三月】
【永禄四年(1561年)閏三月】
攻囲は解かれ、諸将は高麗山に戻った。
開催された軍議では、北条の心胆を寒からしめたので目的は達せられた、との総括が行われた。
その件についての反応は様々だったが、上杉憲政が関東管領の職を辞したいと表明したことで、話題は後任人事一色になった。
後任について、軍神殿は関東諸将の中から選任するようにと求めた。多くの参加者が意外な話と感じたようで、有力な家ほど様子見の傾向が強いようだった。俺はもちろん、傍観者の立場を貫く構えである。
実際には、かつて足利晴氏が北条氏綱を関東管領職に任じているし、足利義氏も当然に北条氏の当主が関東管領だと認識していただろう。だが、その件は、義氏を、そしてその姻戚である北条氏を除きたい関東諸将にとっては、意図的に無視すべき事柄なのだった。
一方で、ここで自らが関東管領を受ければ、復活するかもしれない北条との敵対関係は後戻りできない状態となる。
いずれにしても、本来であれば古河公方に就任した者が選任に関わるべきなのだろう。まあ、古河公方と関東管領が相争う場面も過去に幾度もあったので、互いに独立勢力的な関係性でやってきたわけだが。
そんな中で、本庄実忠が空気を読まずに、家柄的な観点から成田長泰を推挙した。本人はまんざらでもなさそうだったが、軍神殿はじめ諸将に黙殺されて、顔を赤らめている。
もはや家柄が権力に直結する時代ではなくなりつつある、との認識は広まっている。既存の権力ならまだしも、成田長泰がここに居並ぶ諸将の首座に立つ未来を想像できた者はいないだろう。そのあたり、本庄実忠、成田長泰の感覚はずれているようだった。年代的なものもあるのかもしれない。
それでも、膠着した議論を前に進める効果は生じた。里見、佐竹を本命と考えて推す声も上がったが、上杉憲政を保護して関東に連れ戻し、今回の諸将を動かす契機となった長尾景虎を推挙する者も出た。
断っていた軍神殿だが、やがて推す声は強くなってきた。及び腰であったのも、好感を持たれた理由かもしれない。
関東の諸将同士では、それぞれに遺恨が積み重なっている。この中の誰かが一歩抜きん出るとして、それが敵対者であったなら。自分が推す者が選ばれるとは限らないのだから。
やがて、佐竹、宇都宮、小山らが明確に長尾景虎を推挙し、流れは止まらなくなった。軍神殿は、せめて名代職にと主張するが、ほぼ無視された。そこで声を荒げて、我意を通せる人柄であれば、そもそもこの状況に陥ってはいないだろう。
こうして、鶴岡八幡宮で、上杉家の家督相続と、関東管領の就任お披露目が行われると決まった。
軍議の席から離れようとすると、佐野綱房丸が声をかけてきた。佐野家から人質として軍神殿に出された病弱気味の少年は、近習見習いとして戦地まで付き従っているのだった。
箕輪繁朝や用土重連から動静は聞いていたのだが、さすがに人質としての立場から、新田の陣所での交流には顔を出さなかったようだ。他の人質は、今も河越城にいるはずだった。
呼び出された先では、軍神殿が待っていた。
「護邦殿……。なかなかうまくはいかぬものだな」
「その様子では、関東管領就任に向けたお祝いの言葉は、控えた方がよさそうですな」
「そうしてくれ。関東管領と言っても、名代に過ぎない。しばらく預かるのは、こうなっては致し方ないだろうな」
どこか言い訳的な言辞は、ある意味でこの人物らしいのかもしれない。軍神殿は、長尾家の家督を継ぐ際にも、中継ぎだから実子を作らないと宣言したというから、最終的な責任を回避したがる方向性が窺える。いや、子を作らないのが責任逃れだと言いたいわけではなく、立場を確定させたがらない傾向を抱えているように思えるのだった。
「そして、古河公方はどうされます。関東管領として、近衛前久殿を擁立されるのですか?」
「いや、それでは収まるまい。藤氏殿で行くしかないだろう」
こんなところまで史実通りなのだから、嫌になってしまう。とは言え、介入して関白公方を実現させる責任までは負えないと考えてしまっているからには、俺に軍神殿を批判する資格はないのかもしれない。
「……景虎殿の軍勢のうち、どれだけを関東に割けますか。河越城は、確保しておいていただきたいところですが」
「二千……と言いたいところだが、千五百が限度だろう」
「千人まででよしとして、援軍を出したら受け容れていただけますかな」
「もちろんだ。守将は、きたじょ……」
「ぜひ、従来どおり斎藤朝信殿にお願いしたい」
「いや、きた……」
「斎藤朝信殿で」
この人物を相手に交渉するには、気合が必要な気がしてきていた。
北条(きたじょう)高広は、この時点で既に一度、武田と通じて長尾景虎に反旗を翻していながら許され、史実では厩橋城を預かりながら北条氏に裏切ってもまた帰参する人物である。軍神殿からすれば見るべきところのある人材なのかもしれないが、連携勢力からすれば可能なら遠ざけておきたい相手だった。
ただ、史実での二度目の離反は、北条と武田に圧迫されたやむを得ない面もあったと思われる。それを考えに入れても、斎藤朝信とでは信頼感の差は段違いだった。
「わかった。朝信を残そう。……であるなら、頼りにしてよいのだろうな」
「軍神殿がなにを求められるかによりますがな」
「なにを求めるか……か」
どうやら、この時点でも明確な答えは固まっていないようだった。それもどうなんだ……。
「ところで、佐野綱房丸殿は、どう扱われるのですかな」
「返すのは惜しくなってきた。だが、越後へ連れていくのもな」
「立ち入ったことを聞きますが、軍神殿には世継ぎのあてはあるのでしたか?」
「今のところ、猶子はおるが、はっきりと養子として取ったものはおらんな。姉のところに男子が一人おるが……」
その甥というのは上杉景勝のことだろう。そして、猶子というのは、村上義清の息子の山浦国清か。沈黙していると、長尾景虎は考えを一歩進めたようだった。
「そうか……、昌綱のところには、嫡子がいるわけだし、ひとまず猶子としてしまうのもありか」
さて、虎房丸の誕生と、はたしてなるのだろうか。たおやかで優しげな人物だけに、幸せになってほしいものである。
そして、鎌倉にて儀式は執り行われた。鶴岡八幡宮において、軍神殿は上杉憲政の養子になって山内上杉氏を継承し、関東管領職……、本人曰く名代に就任する。同時に偏諱を受け、上杉政虎に改名する予定だそうだ。
北条と和睦を結んだわけではないが、事実上の休戦状態に入っている。それを受けて、北条の援軍に来ていた千葉胤富も式典に出席すると決まった。
ただ、それによって、千葉胤富と小山高朝が関東諸将の首位の座を争うひと悶着が生じた。その諍いは、軍神殿の仲裁によって千葉が首座となっている。
北条方として一貫している千葉氏とは、今後も敵味方に分かれることになりそうだが、尊敬できる勢力である。あいさつに赴いたところ、三十代ながら渋みを備えた男性がにこやかに迎えてくれた。ステータス的には、軍事はそこそこ、内政、外交は高めという数値が見えた。ただ、さすがに当たり障りのないやり取りに留めておいた。
千葉が首座なら、新田の席次は無位無官であるからには末席である。そこについても、軍神殿はなんとかしようとしたようだが、話がややこしくなるのでむしろ末席の方が気が楽だと、制止させてもらった。
式典は、鶴岡八幡宮の境内で催された。居並ぶ武将の前で、養子縁組と関東管領の就任が宣言され、関東に静謐をもたらさんとの祈願が行われる。
そして、参道の辻ごとに諸将が待ち受け、上杉憲政、政虎親子が徒歩で進むのに対して、下馬して一礼を行うというのが、式典の最後となる。
千葉胤富、小山高朝を皮切りに、成田長泰が待機する辻に進んだ時に、騒ぎは起こった。長泰が下馬をしなかったのである。
後から詳細を聞いた俺は、そういやそんな事件もあったな、という程度の認識だったのだが、現場は結構な揉め方だったらしい。
成田長泰の主張は、名門である成田氏は、源義家にも下馬せずに馬上で礼を交わしたとの古例があるため、関東管領に対して下馬する謂れがないとのものだった。
ただ、事後に故事に詳しい者達が調べたところによると、それは縁戚だったかの関係があったためらしく、また、騎馬同士の話だろうとのことである。確かに、幾ら名門でも、上位者が徒歩であるのに、馬上のままで見下ろす状態がまかり通るとは考えづらい。
その場では、上杉政虎が従臣を派して詰問させ、古例からだとの答えを受け取ったのだが、下馬して一礼するとの話になった際に異議を唱えず、現場で無礼な態度に出るとはけしからんと激怒したようだ。本人だけならともかく、義父となった上杉憲政がいたのも、影響していたかもしれない。駆け寄って扇で下馬を促したところ、落馬に至ったという流れだったようだ。
この件は、上杉政虎による成田長泰打擲として、一気に広まることになった。
実際問題として成田長泰が本気で、我が身は馬上から新旧の関東管領を見下ろすべき立場だ、などと考えていたかどうかは疑わしい。関東管領選出軍議の際に、自分を推す声があったのに黙殺されたこと、家格だけならもっと丁重に扱われるべきといった不満などが積み重なっての、発作的な行動だったのかもしれない。軍神殿とは親子くらいの年齢差だけに、そのあたりも影響していただろうか。
陣所に戻って休んでいると、成田長泰が小荷駄の待機所を襲って火をかけた上で退散した、との話が入ってきた。なんだかもう、めちゃくちゃである。
そして、武田が北信濃に城を築き始めたとの報告と、越中で一向一揆が発生したとの一報が時を同じくして入ってきたのだった。さすがは、信玄の戦略眼と言うべきか。
糧食が焼かれたことも、諸将の不安を強くしたようだ。食料が確保できない状態で北条の追撃を受ける未来図は、あまり考えたくないというのは同意である。
翌日の軍議で、火急の用件があるものは退去を許すとの沙汰が下った。事実上の解散宣言である。
常陸、下野、下総勢は、佐野昌綱も含めて争うように去っていった。本庄も去り、青梅も去り、残ったのは越後長尾……、いや、上杉政虎の軍勢と、岩付太田と我が新田くらいだった。
徒労だったのだろうか。ただ、史実と違って、河越城に斎藤朝信が残ることになる。これは、上杉方にとっては大きな意味を持ちそうだった。
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