【永禄三年(1560年)十月上旬】

【永禄三年(1560年)十月上旬】


 いったんは横浜線相当の小机城、滝山城のラインに収まった北条勢だったが、態勢を立て直したのか江戸城付近を通過して北へと向かった。後見する古河公方、足利義氏の御在所がある関宿が、北条のそちら方面での拠点となる。


 関東の北東の、下野、常陸を中心とする香取海の北岸、西岸辺りには大名、国人衆がひしめいており、彼らがどちらにつくかは今後に大きな影響を及ぼす。そう考えての多数派工作といったところだろうか。


 古河公方の足利義氏は、諸将に越後長尾討伐のために参陣するように呼びかけたものの、応じたのは結城氏、壬生氏のみに留まったそうだ。


 一方の軍神殿は、河越城を拠点に北関東の諸将への参陣を呼びかけている。どちらが関東の主導権を握るのだろう。


 史実では、先攻は越後長尾側だったが……。今回は俺の介入でだいぶ様相が変わってしまっている。それが、軍神殿にとっては逆風となる可能性もあった。


 北条方の関宿城と、上杉方の成田氏の忍城とで、利根川を挟んで対峙しながらも、どちらもいきなりの全面対決に持ち込むつもりはないように見える。そう受け取った者が多いのか、両陣営の滞陣場所から遠い町では、いったん高騰していた米の値が下がり始めていた。


 関東の南部でも刈り入れ時を迎えて、飢饉状況がやや緩んだようだ。北部の実りも、今のところ悪くない。そのためか、麦や雑穀類も引き続き下落傾向なので、値上がりを呼ばない程度の買い入れを進めている。


 そんな中で、唐沢山城の佐野昌綱が手勢を連れて河越城を訪れたとの知らせが入った。長尾方としての参陣を表明するためとなる。


 史実での軍神殿と佐野昌綱は、ひとまずは盟友関係にあったものの、越後長尾勢の主力が関東を離れるたびに北条が復権したため、佐野氏が離反と従属をくり返す中で、宿敵的な関係が結ばれていった。ただ、古河の争奪戦としての意味合いが強かったからには、隣接する佐野氏としては致し方ない選択だったとも言える。


 どうも、軍神殿は義を重視するあまり、生きるためにやむをえずに盟約を破った者をも敵視する傾向があるようだ。付き合い方は考えなくてはなるまい。


 そして佐野氏とは、既に因縁が存在している。金山城の横瀬……、いや、由良氏を退けた際に降伏してきた桐生佐野氏は、この佐野氏の支族なのだった。


 まあ、臆していても仕方がない。あいさつに向かうと、いかにもな感じの無骨な武将が迎えてくれた。


「新田護邦と申す者です。景虎殿の先陣を務める形で、近隣の地を手中に収めることになりました。桐生の仕置では、昌綱殿の意に添わぬこともあったやもしれませんが……」


「いや、横瀬と共に挑戦した結果だと聞いておる。人死にが出たわけでもないし、遺恨とは考えておらん。厩橋へ向かった者たちは息災かな?」


「彼らは桐生氏を名乗り、養蚕に励んでおります。里見勝広殿が張り切っておられましてな」


「それはなによりだ」


 この人物の言葉は、額面通り受け取ってよさそうだ。そう感じられる迫力めいたものがあるからには、真摯に交流したいものだ。


 酒や肴を贈ったところで、病弱そうな少年が歩み寄ってきた。優しげな顔立ちには、愛嬌のある表情が浮かんでいる。


「これ、綱房丸。失礼であろう」


「いえ、お気遣いなく。ご子息ですかな?」


「庶出の子ですが、人質として連れてまいりました」


 聞けば、嫡出の息子が生まれたばかりだそうだ。


「綱房丸と申します」


 無骨な昌綱の息子とは思えぬ線の細さで、声は鈴のようである。箕輪繁朝が頼もしく感じられるくらいの、たおやかな少年だった。


 ちなみに、厩橋から移ってきた他の人質としては、成田長泰の末子の若王丸、本庄実忠の次男の忠久がいるが、特に交流はなかった。


 確か、後の上杉謙信が佐野氏の代替りの際に養子を送り込んだとの話があったような。名は……、そう、虎房。この少年、佐野綱房丸が長尾景虎の養子になって、偏諱を受けて虎房となったと考えると辻褄が合う。


「新田護邦と申す。強い父上を持たれて、心強いことだろう。ずっと河越に詰めているわけでもないが、何かあればご助力致そう。……菓子などお好きかな? よければ、馳走致そう」


「人質の身ですのに、気にかけていただきありがとうございます。ご迷惑でなければ、ぜひ」


「……護邦殿、よろしいのですか」


「なんの、心細いでしょうし、かまいませんよ。……顔つなぎはしておいた方がよいかな。重連、茶会を開きたい。軍神殿、関白殿下、関東管領殿、斎藤朝信殿がお手隙なようなら、お誘いしてくれ。ご無理のないようにな」


「承知しました。ご家中の方々には、お声がけせずによろしいですか?」


「家中の者とは、別途機会を作ろう。……いや、綱房丸殿がお嫌でなければ、だが」


「知り合いが増えるのはうれしいです」


 にこやかな笑みを確認して、用土重連は歩み去っていった。気の利くこの人物は、内政方面にも顔を出しつつ、腹心のような立ち位置に収まっている。


「今のお方は、ご家中の方かな?」


 問うてきたのは、父親の方の、佐野昌綱だった。


「用土重連です。藤田氏が北条の氏邦殿を婿養子に迎えたことから、嫡流は用土姓を名乗るようになったそうでしてな。気の回る得難い人材です」


「ほう……、藤田氏の。それで、氏邦殿は、どうされたのです?」


「妻の大福殿と共に厩橋城で過ごしておられます。なかなか利発な人物ですな。将来は手強い武将となりそうですが、子供を殺すわけにもいきませんでな」


 昌綱からは、お前も子供だろうと言いたげな視線が飛んできたが、気が付かなかったことにしよう。そこで重連が戻ってきて、茶会向けの部屋に案内してくれた。招待は、別の者が向かっているのだろう。


 しばらく歓談するうちに準備は整った。軍神殿、関白殿、斎藤朝信が参加し、綱房丸が穏やかながらはきはきとした受け答えを見せ、茶会はつつがなく済まされた。


 縁側的な場所に並んで座るのが、なんとなく作法のようになってきている。河越城の廊下から見る秋の空は、どこまでも高く美しい蒼さだった。




 茶会の後に、佐野昌綱に渡良瀬川水運の相談を持ちかけた。船を使った商売は利根川では盛んだが、渡良瀬川の上流ではほとんど行われていない。特に抵抗はない様子だった。


 この時点では、新田の水軍の話はさほど広まっていないはずだが、渡良瀬川では商船中心にして信頼感の醸成を図るとしよう。




 河越城に駐屯する長尾勢への食料供給は続けているが、河越城域での収穫もあったため、量はいったん少なくなっていた。


 ここでの年貢徴収は北条の徴収高に準じつつ、棟別銭、段銭については一部を減免しているとの話だった。


 元時代では、越後長尾の関東侵攻が食料確保のためではないかとの推測もあったりしたが、河越城域と松山城域を奪った現状は、北条からすれば食料どころか田畑を奪われたとの認識となるかもしれない。


 そう、北条では食糧不足が深刻になっている。幾年かに及ぶ飢饉の末に、やっと収穫期を迎えたら、北から風のようにやってきた越後長尾勢によって、直轄地の松山城、河越城を奪われたのである。国人衆からは原則として年貢は取れない以上、直轄地の石高が食料確保の基本となる。


 となれば、商機なのは間違いない。新田で溜め込んでいる米は、鎧島から江戸湊を経由して、北条領域に高値で流入していた。その動きは、今後も続くだろう。


 対北条も含めて、米の相場情報を収集し、安いところから高いところへと運び、一部は備蓄している。里屋は全面協力してくれていて、勝浦経由の鹿島や、西の東海、上方にも手を伸ばしているようだ。さらには、金と銀、銭の交換比率にも目配りしており、有利な状況では仕掛けてもらっている。その中でも、今後を考えてなるべく銀を入手するようにしていた。


 正直なところ、儲けは産業をちまちまと育成するのの比ではない。だが、所詮はあぶく銭。得た利益は恒常的に収益を得られる分野に投資するべきなのだろう。


 そして、確保した銭貨のうち、宋銭は上方向けに確保し、私鋳銭、鐚銭は冶金に回している。そちらの利益も、なかなかの規模となってきていた。


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