【永禄三年(1560年)八月末】

【永禄三年(1560年)八月末】


 物見から長尾勢が白井城を出立したとの報告が入ってから、半刻、一時間ほどが経過しようとしている。


 馬を使った忍者の移動速度を考えに入れても、いつ軍勢が視界に入ってもおかしくない。


「あの坂を越えてくるわけだよな」


「ええ。先頭が見えたら、程なく到着となります」


 出迎えに立つこの地点から厩橋城までは、招いた領民たちが軍勢の到着を待っている。近づけば、彼らが拍手歓声を発して歓迎する計画となっている。


「頭ではだいじょうぶなはずだとわかっているんだが、それでも一万余の軍勢を迎えるとなると、びびってしまうな」


 踏み潰されたら終わりである。弱気になったわけではないが、冷静に数の圧力を考えると凄まじい。


 新田の動員数は、常備兵で三千二百ほどとなっている。周囲の勢力が農村からの徴発を含めて集めた兵数だと考えれば、規模なりというところだろうか。


 実際には、調練を日常的に行っている新田兵は強いと思われる。だが、他者からは武士のほとんどいない、雑兵軍団をかき集めただけの集まりと認識されているようだ。誤解を正す必要はない。


 そして、この場は平服の幹部のみで迎えようとしている。一蹴しようとすれば、造作もないだろう。


「だいじょうぶ。万一の場合には、逃げて再起を図ればよいのじゃ。それに、万一の事態は起こらないんじゃろう?」


「ああ、そのはずだ」


 関東に入ってすぐに、歓迎する勢力を騙し討ち的に蹂躙したとなれば、今回の長尾景虎による関東侵攻そのものの大義が問われるだろう。


 そのような選択をするわけがないと信じたからこそ、全面的に協力するわけだ。


「見えた」


 澪が呟いたが、俺の目には坂の向こうの風景は見えなかった。


 けれど、やがて現れた陽炎のように揺らいで見える物体は、どうやら槍の穂先のようだ。


 程なく、先頭の騎馬が姿を現し、軍勢が続いてきた。


「さあ、歓迎の準備だ。迎えに参るとしよう」


 俺の言葉に応じて、周囲の家臣団が動き始めた。


 蜜柑と澪が俺の近くに侍し、左方には、芦原道真、上泉秀胤、箕輪繁朝の内政、軍略方面の家臣団がいる。


 右側には、剣聖殿を中心に、疋田文五郎、神後宗治らに率いられた剣豪勢の主力が居並ぶ。


 後方には、主戦部隊を率いる上坂英五郎どんと見坂武郎と智蔵、それに忍者隊からの霧隠才助らが続いている。


 三日月と飛び加藤、於猿らが率いる新田忍群は、周囲の警戒にあたってくれているだろう。そして、実際には軒猿衆と無言のせめぎ合いが生じているかもしれない。


 いずれにしても、これまでの時間は今日から始まる事態の準備期間に過ぎなかったとして大間違いはないだろう。実感を噛み締めながら、俺は軍神殿との邂逅地点までゆっくりと歩を進めていった。

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