【永禄三年(1560年)八月上旬】その二

【永禄三年(1560年)八月上旬】その二


 剣聖殿の愚痴は、高弟についてのものだった。神後宗治から、水軍に修行に行きたいと言われたそうなのである。


「いまいち理解が浅くて申し訳ないんだが、剣豪にとって武将として軍勢を指揮するのと、剣を振るって戦うのはどういう関係性にあって、どっちが優先なんだ?」


「戦いの総ての局面を制するのが理想だ。だから、どちらも重要なのだが、その根本となるのが剣術だと考えている。その術理は、さまざまなことに応用できる」


「なら、水軍としての働きもまた、戦いの一局面だと思うんだが」


「筋を言えばその通りなんだがなあ……。やっぱり本筋めいたものはあるわけだよ」


 まあ、この時代の水軍はわりと雑な戦い方に終止しているので、そう捉えても無理もないかもしれない。


「弟子の行動は指示できるものなのか?」


「師命として発すれば、一応はな。……だが、我が師匠の愛洲移香斎も水軍出身で、そちらに顔が広かったから、仕方ない面もあるんだ。文五郎も、何やら鉱山に入れ込んでいるしなあ」


 剣聖殿はため息をついて、もうひとりの高弟について嘆き始めた。そうなのだ、疋田文五郎の興味は山に向いたらしく、鉱山探査に同行しているのだった。いつぞやステータスを覗いたら、鉱山系のスキルまで習得していたからには、本気なのかもしれない。


「鉱山についての知識を持っていれば、どこに仕官するにしても重宝されると思うがな」


「だが、女目当てだからなあ」


「そうなのか。……まさか澪を?」


「いやいや、その侍女の栞殿だ」


「ほう、それは目が高い」


 栞と凛の二人が、澪の側近的な、あるいは副将格の存在である。どちらもタイプの違う美人だった。


「だがな、狩人の娘だろう?」


 武家としては当然の発言なのかもしれないが、なんだか違和感を覚えてしまう。この剣聖殿は、愛弟子の想い人について、そんな風に言及する人物とは思えない。


「恋愛相手は自由じゃないのか。あんただって」


「ああ、野鍛冶出身の未亡人と仲良くしている俺が言えることじゃない、ってのはわかってるんだ。息子だったら、こんなことは言わん」


「文五郎殿は、甥だったか。妹さんの子か?」


「姉者の子だ。……親代わりに育ててくれたんでな、どうしても、その、どうにかしてやりたいんだ」


「あんたの姉さんが、狩人の娘を嫌がりそうなのか?」


「いや、存命なら、好いた相手と添い遂げろと押しまくるだろうな」


 複雑な弟心というやつか。四十半ばの剣豪にも、可愛いところがあるようだ。


「……なあ、新田家がどうなるかはわからんが、栞殿は、新田家当主の別妻的な存在に付いている側近中の側近だぞ。考えようによっては、なかなかの良縁だと思うんだが」


「そう言われれば確かにな。……どうも、当主殿の腰が軽いからか、そうは思えなくてな」


 なんと失礼な。


「蜜柑を蔑ろにするわけではないが、そちらで男子が得られるとは限らん。澪の子が跡を継ぐ可能性だってあるんだぞ」


「だな。……おい、澪殿を身篭らせろ」


 寝所で三人して眠っているだけなのは、忍者衆には知られているかもしれないが、公言しているわけでもない。


「いや、狙ってできるもんじゃないだろう」


「そりゃ、そうだな。なら、蜜柑をどうにかすれば……。そうか、京に行けばいいのかっ」


 あんなに抵抗してたのに、そんな発想から決めていいのか。


「決めた。夏が過ぎたら、出立するぞ」


 まあ、もともとは俺が勧めていたことだし、反対するのも変な話だ。こうして、京都修行の方向性が打ち出されたのだった。


「ところで、最近は他にめぼしい門弟は入っていないのか?」


「おお、それがな……」


 いつの間にか、霧隠才助と箕輪繁朝、それに見坂兄弟が弟子入りを果たしているそうだ。いずれも筋がよく、さらには少年忍者の於猿も出入りして、立ち合い中心に絡んできているらしい。それは、さぞやにぎやかになっていることだろう。




 上泉秀綱の道場に、門下の面々と俺、それに道真が集っていた。笹葉の姿もある。


 話し合いのテーマは、上京しての剣術行脚についてだった。


「長尾景虎殿が関東に来るのは確実な情勢だ。だが、その後の戦いは長尾勢が中心で、新田家は補助的な役割となるってのが当主殿の見立てだ。そして、俺達の出番はその後、来年の春を過ぎてからだそうだ」


 一同が頷く。


「で、その前に京で名を轟かせてきて、新田の家名に箔をつけて来てくれ、って話でいいんだよな?」


「概略はその通りだ。けれど、提案であって、もちろん命令ではない」


 問いを投げてきたのは、疋田文五郎だった。


「出立される場合の時期は、いつ頃になります」


「長尾景虎殿が厩橋城にやってくるのは、八月の末頃の見込みだ。関東管領としての上杉憲政殿に加え、関白の近衛前嗣様も一緒となるらしい。彼らをお迎えして、それからだから、九月に入ってからだな」


 関白の近衛前嗣殿は、史実では遅れての参戦となるはずだったのだが、物見によって既にそれらしい人物の姿が越後で確認されている。何らかの影響で、早まっているのだろうか。


「翌春までに戻るとなると、半年ほどですか。こうして話をされているからには、腹は固まっているのですね」


 神後宗治の問いに、剣聖殿はあっさりと応じた。


「行こうと思う」


 蜜柑の表情はやや冴えない。迷っていた秀綱にとって、最後の一藁だったのかもしれないが、彼女をこの地から離そうとの思惑があるのは否定できない。まさかそれを察しているわけではあるまいが。


「海路ですか? 陸路ですか?」


「海路だな。師匠の故郷も訪れたいし」


「愛洲移香斎殿は伊勢のご出身だったか」


「ああ。伊勢の愛洲の出身だ。息子の宗通殿がおるかもしれん」


「……常陸の佐竹氏に仕官してるんじゃなかったか?」


「そんな話は聞いていないが。関東に来るなら、さすがに噂が届くと思うぞ」


 もう少し未来の話かもしれない。


「どちらが歳上なんだったかな」


「あちらが十一下だな。一回りにはやや足りない」


 年下の師匠の息子というのは、どういう存在なのだろうか。新陰流を名乗っているからには、陰流とは根は同じわけだが。


「伊勢となれば、北畠具教殿にはごあいさつせねばなりませぬな」


 神後宗治は、常と変わらぬ軽妙な口調を維持している。水軍志願だけに、海路での旅路をよろこんでいるのかもしれない。


 北畠具教は、南北朝争乱の時代に活躍した北畠親房の子孫で、公卿的な存在のまま伊勢の国司として大名になっているめずらしいケースとなる。


 いずれ織田信長に圧迫されるにしても、伊勢を平定する勢いで勢力を拡大しており、また自らも剣術を修め、剣術家を保護する姿勢も見せている。口ぶりからして、既に面識はあるのだろう。


 北畠なら、顕家の方の子孫と伝わる奥州の浪岡北畠氏と仲良くしたいものだが、ちょっと間に合わなさそうではある。


 そして、上泉秀綱の上洛の際には……。


「伊勢からは、大和には寄るのか?」


「さて、伊賀から近江を抜けることになるかもしれんが」


「大和に、柳生宗厳という名の兵法家がいるそうだ。会ってみるといいかもしれんな」


 剣聖殿との初対面時にぽろっと口に出してしまった「無刀取り」というフレーズは、上泉秀綱が公案として滞在先の柳生宗厳に出題し、京からの帰路に実演されたとの話だったはずだ。邂逅させた方がいいのだろう。


 柳生宗厳は、筒井家から松永久秀に鞍替えし、三好家の重臣的な立場となっていく人物である。


「そして、義輝公にもごあいさつせねばなるまいが……。三好との仲はどうなのであろうか。秀胤よ、どうだ?」


 この時期、剣豪将軍こと足利義輝は朽木から京都へと戻って、三好家を幕府に組み込み、ひとまず治世を行っている状態である。三好に暗殺される史実を知っている俺からすれば危なっかしい印象だが、戦国の世を収めるよう期待している者も多くいそうだ。


「まあ、これまでの経緯からして、そう簡単には行きますまい」


 内政、軍略を担当する重臣的存在となっている剣聖殿の嫡男は、やや残念そうな口ぶりである。史実知識というカンニングペーパーを持っている俺とは違い、自らの眼力でそう判断しているのだから、やはりこの人物は頼りにしてよいのだろう。


「そして、塚原卜伝殿は、どちらにいらっしゃるのだろうかな」


 思わぬビッグネームが出てきた。剣術仲間は、みんなだいたい知り合い状態なのだろうか。いや、そう言えば、「一之太刀」と呼ばれる奥義が、話題に出た北畠具教と足利義輝に伝授されているはずだ。まあ、大名向けのリップサービス的な奥義なのかもしれないが。


「確か、諸国行脚を行われていると聞きました。どこかでお会いできるといいですな」


「……塚原卜伝殿は、いまはお幾つくらいなんだ?」


「七十は過ぎておられようか。門弟の大集団を引き連れて諸国を旅しているはずだ」


 そこから、剣豪話に話が転がっていく中で、だんだん蜜柑の頬が膨らんできた。俺は、声を落として問い掛ける。


「蜜柑、行きたいのか」


「行きたいけど、行きたくない。複雑な乙女心なのじゃ」


「行って、見聞を広めてきてくれていいんだぞ」


「でも、離れるのは寂しいのじゃ」


「それは、俺もだが。……ゆっくり考えて、決めてくれ」


 妻の頷きを見届けて、俺は剣豪話が一区切りしたらしい皆に話を投げた。


「伊勢に寄るのなら、九鬼家の波切城に寄って、九鬼嘉隆という、九鬼家当主の弟の人物を確かめてきてほしい。既に敗れて、どこか近隣の山に落ち延びてるかもしれないが」


「どんな人物ですかな」


「有能な水軍衆らしいが、有能すぎて周囲に疎まれ気味とも聞いている。故郷を追われそうな情勢かと思われる」


 もう、誰から聞いたのかと問うてくれる人はいなくなってきつつある。ちょっと寂しい。


「勧誘してくればよいのですか?」


「人物の確認まででいいさ。招いても、活躍の場がない」


「あるいは、鎧島の要塞化計画に組み込みますか?」


 神後の問い掛けに、反応したのは剣聖殿だった。


「なんだそれは」


「ああ、利根川が海に注ぐ河口に、島があってだな」


 簡単に構想を示すと、初耳だったらしい剣豪勢が興味を示した。


「水軍に寄ってたかってつぶされるのではないのか?」


「勝浦党は、岬の絡みで話がつけられるかもしれない。あとは、長尾勢がその辺りまで勢力を広げるかどうかだが……。北条が勢力を盛り返した場合に、維持は難しいかもしれん」


「それでも、確保を目指すのか?」


「河口が守れなくては、利根川の支配者とはなりえないからなあ」


「そんな計画があるのですか?」


「軍神殿次第だな。まあ、放棄もありと考えれば、挑んでみてもいいかもしれん」


「ええ。その間だけでも、塩作りができれば、だいぶ話が変わってきそうです」


 応じた道真は、すっかり乗り気になってきているようだった。




 その晩、寝所には真剣な表情の蜜柑がいた。澪が席を外そうかと声をかけたが、首を振って手を握った。


「護邦がずっと言っていた、長尾景虎殿の関東侵攻は確実なのじゃろう? その後の情勢がどうなるかはわからぬにせよ、すぐに滅亡して逃亡生活を送るというのは、考えづらくなっておる」


「それは確かに」


「師匠たちと京へ行くべきか、迷っているのじゃ。行かずに、護邦たちと一緒に過ごしたい。でも、いつか後悔しそうで……」


「どちらも、ありだと思うぞ」


「そこでじゃ。身籠ってしまえば、行かないという選択が納得できる。利用するつもりはないのじゃが……」


「運を天に任せたいってわけか。それ自体は、別に恥じるようなことじゃない。……なら、出立までに身籠る兆候がなければ?」


「行って来ようと思うのじゃ」


 この時代は、船旅でなくても危険はゼロではない。そう考えると、俺としても迷うところなので、天に任せるのは確かに良い考えかもしれない。


 蜜柑本人は、澪と一緒に初夜を迎えると言い張ったのだが、さすがにいかがなものかと二人して制止した。


 結果として、澪は別の部屋で休むこととして、夫婦してほぼ初めて二人だけで布団に入った。


 甘酸っぱい香りに囲まれて、俺は元世界での机上ないし画面内で得ていた知識を総動員して、恥じらう少女の相手を務めることになった。


 場所が違うだの、漏らしたかもだのとの行き違いはあったものの、どうにか無事に身体を合わせることができた。


 ……そして、主導権を取ったのは序盤だけで、剣術で鍛えた体力を発揮しての勢いで、俺は圧倒されることになるのだった。



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