【永禄三年(1560年)八月上旬】その一

【永禄三年(1560年)八月上旬】その一


 長尾景虎の関東攻めは、忍びを放って探るまでもなく、確定情報となっていた。


 北条の一門衆が当主に迎えられている沼田氏の沼田城を落とし、白井城に寄ってだと、出立後十日程度の行程だろうか。想定される出立日からして、八月末日あたりの来着が見込まれていた。


 自発的な露払いとして、俺は赤井氏の居城、館林城の攻略を目指した。


 館林城を狙うのは、領土的野心というよりは、越後長尾家に古河攻めの前進基地として献上して、緩衝地になってもらおうとの思惑からである。


 館林城は、我が子を助けられた狐が、赤井氏に築城・移住を勧めたとの縁起が伝わっているが、史実では北条方についたために、長尾勢に攻略されている。先取りする分には構わないだろう。




 なお、館林城には、由良成繁の妻子を含めた旧由良家の一門衆、家臣が多く身を寄せているそうだ。由良成繁の妻が赤井氏の出だったからには、自然な展開と言えそうだ。他では、足利長尾氏の足利城域、古河に行った者たちも確認されている。


 岩松守純が流した噂とは違って、俺に所領を失って流浪中の由良氏に追い打ちをかけるつもりはない。ただ、周囲はそう見ない可能性もある。まあ、新田氏の主導権争いの私闘だと矮小化できるのなら、その方がよいのかもしれない。


 館林城域に進軍すると、矢文で宣戦を布告し、女子供を三日のうちに退去させるよう勧告した。


 潜入している忍者からの報告によると、少年当主である赤井照勝が徹底抗戦を叫び、叔母である由良成繁の妻も同調するも、他の家臣はやや引いている状態らしい。


 照勝は元々、現足利公方の義氏寄り、つまりは北条寄りの家臣によって無理やり擁立された感があったそうだ。由良成繁の妻は、横瀬氏同様に独立志向が高かった父親の影響を色濃く受けていたはずが、新田憎しで同調しているのか。


 それなら挙党一致となりそうなのだが、照勝が勝手気ままな性格で家臣の人望が失われている状態だと言う。実際、土豪衆はほとんど城に姿を見せていないらしい。


 前情報があったために、土豪衆には今回の侵攻は、館林城を攻め落としても新田が永続的な統治はしないので、所領は現状維持だと伝えてある。家臣団にも、その話が伝わっているのかもしれない。


 三日目には、照勝が家臣によって討たれ、由良成繁の息子を後釜に据えるか、いとこを持ってくるかで盛大に揉め始めたそうだ。無視されてる感が強くなってきた。


 ただ、変に開城されてもややこしくなる。予定通りに攻略してしまうとしよう。


 三日目の夜に隠密夜襲によって家臣の主だったものを討ち取り、由良成繁の妻子をまた逃がす。と同時に軍勢を寄せておいて、払暁の到来と同時に攻撃を仕掛けた。


 金山城の攻略と同様に、攻めかけたのは儀式、あるいは擬装の意味合いが強い。さらには、落城演出のために焚き火もして、制圧は完了した。


 軍神殿への献上を想定しているため、周辺の土豪衆や村への対応も軽めとなる。兵糧を分配して、耕作に励むようにと伝達しておいた。


 一方で、城下には蕎麦、うどんや菓子の屋台を出して、試食なども実施し、穏やかさの演出も図るとしよう。


 また、狐を祀っている神社にもあいさつ、奉納をしておいた。石田三成が化かされたなんて話もあるようだが、どういう基準なんだろうか。




 館林城域を安定化させるべく努めていたら、足利長尾氏と足利義氏から詰問の使者が来た。赤井氏を討つとは何事だ、というのである。


 古河攻略の橋頭堡的な意味合いとしての攻略で、越後からやってくる景虎殿に差し出して、新田領との緩衝地にしたい、というのが正直な思惑である。さすがにそう言明するわけにもいかないので、由良家追討のため、と取ってつけたような説明をしてみた。古河公方殿からはすぐに明け渡せとかなんとか言ってきたが、無視の一手である。


 足利長尾の方には、先日景虎殿に会ってきた件を伝えたら、抗議の度合いは小さくなっていった。もちろん、館林城攻略の指示などは受けていないのだが、誤解するのは先方の勝手である。


 館林に景虎の軍勢を籠めるのは現実的でないかもしれない。そう考えれば、足利長尾氏に押し付けるという選択肢もありそうだ。


 まあ、しかし、ここに古河公方との関係険悪化は確実なものとなったのだった。特に後悔はないけれども。




 長尾勢を迎える準備を進めつつ、館林城域の安定を図っていると、道真が相談を持ちかけてきた。市井に有為な人材がいるのだとか。


 名前を聞いて俺は膝を打った。この時代の群馬には農政の偉人がいたんだった。


 その人物の名は、大谷休泊。館林城を治めていた赤井氏の支援を受け、防風林、用水路の設置など農政を手掛けていたという。過去形なのは、俺が赤井氏を放逐したためである。


 早速会いに行くと、ひどく恐縮されてしまったが、赤井氏のためにやっていたというよりは、土地の農民たちのための行動だったそうだ。


 からっ風に悩まされているのは、なにも館林城下に限ったことではない。活動を渡良瀬川流域、及び利根川北岸域全般に広げないかと誘うと、興味を示したので厩橋城に連れ出す。


 道真、笹葉、岬に黒鍬衆らを交えてアイデア出しを行うと、植林、治水と兼用の溜め池整備と、そこからの農業用水整備など話題は様々な分野に及んだ。


 れんげ草を緑肥としている件と、草木灰、刈敷の利用、石灰の組み合わせを試しているとの話をしたら、食いつきが非常によく、後日箕輪の試験農園に案内することになった。


 防風林については、岬からどうせなら実を食用にできる樹木をという話も出たが、冬が本番なので常緑樹でないと用向きが果たせない。松や樫などなら、松ぼっくりやどんぐりが豚向けの飼料になりそうだ。養豚場を併設するのもありかもしれない。金山城の松の若木を移植すればとの話だったので、随時実行していこう。


 渡良瀬川と利根川に挟まれた土地には荒れ地も多いが、用水を通して水さえ確保できれば、村を作っていくこともできるだろう。


 早速進めようとしたのだが、大谷休泊殿としては、できれば外部から手伝う形が望ましいとの話だった。元々は山内上杉家の家臣だったのが、衰微したために野に下り、館林城下の手助けをしている状態だったそうで、主取りに抵抗感があるらしい。


 そういうことならと、外部組織として構築し、必要に応じて新田家が人手と資金を出す形とした。新田が滅んでも、この休泊機関は上野に根を張って農政改革を推し進めていってほしいものだ。




 館林城と同様に外縁部に目を向けると、南方の藤田氏に動きがあった。既に幾人かの忍者が潜入しているのだが、なんと北条氏邦が婿入りしてきて、おふくという名の当主の娘と祝言を挙げたのだという。


 なんと、というのは、氏邦はまだ年少だから小田原で養育されているとの話だったのが、あっさりと覆ったためである。まだ数えで十三歳だそうで、比較的元服、結婚の遅い北条氏では、だいぶ早期の婿入りとなる。


 これが、新田対応なのかどうかはわからない。まあ、館林城攻略からの動きではないのは、時系列的に見て間違いない。こうなると、鉢形城攻略の優先順位は上がっていくことになりそうだ。




 領内の治安維持活動は、引き続き活発に行われている。先頭に立つ蜜柑はやはり目立つのか、剣を修めていた女性が幾人も参加してきた。荒れた時代だけに剣を取る女性が多いのかもしれない。


 それでも活躍の場は限られていたのが、同性の剣士に盗賊退治の先頭に立たれてしまっては、黙っていられないというところだろうか。意気に感じた剣聖殿が指導を行い、一定の技量を備えていれば、蜜柑と揃いの橙色の上衣が与えられた。


 剣豪隊も活躍しており、高弟以下の中間層も実戦で研ぎ澄まされているようだった。てっきり喜んでいるものと思っていた上泉秀綱から、俺は愚痴を聞かされることになった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る