【永禄二年(1559年)八月下旬】その一

【永禄二年(1559年)八月下旬】その一


 長野業正の遺児を押し立てた和田、厩橋長野勢との戦いでは、問答を終えた直後に一気に攻めかけた形となった。あちら側からすれば卑怯だとの話になるかもしれないが、攻めて来ておいてそんなことを言われても困る。


 鬼幡氏と長野業正との戦いは、こちらを軽んじたところに逆撃を喰らわせる形だったが、今回も含めて相手にどこか身内意識めいた気分が存在していたのかもしれない。


 とは言え、澪の剛弓と蜜柑の突貫がなければ、どの戦いでも一息に潰されていたのは間違いなかった。


 初陣となった常備兵勢も頑張ってくれたが、効いていたのは、英五郎どんが率いる国峯勢を主力とする槍隊だった。英五郎どんの統率力の影響か、共に闘ってきたために覚悟が固まったのか。だが、元が農民であるからには、希望者以外はできるだけ早く解放するべきだろう。


 そして、厩橋城と和田城付近で潜伏して状況を探った、英五郎どんの養い子、見坂兄弟の働きも大きかった。和田城を先に攻めていたなら、短期間での攻略ができない状態で、態勢を立て直した厩橋長野勢の攻撃を受け、窮地に陥っていた可能性もあったのだから。


 蜜柑と澪は当主である俺の身内という扱いでもあり、今回の殊勲第一はこの一家の三人であった。




 厩橋城と和田城を手に入れたことで、北では三国峠への道筋にある白井城の長尾氏、北東には赤城山から連なる山々に近い桐生城の桐生佐野氏、東には赤石城の那波氏と隣接する状態になっている。そして、南には平井城域があった。


 桐生佐野氏は、下野の佐野氏の支族であるが、近年は関係が冷え込んでいるらしい。


 南には、山内上杉氏のかつての根拠地、平井城があったのだが、北条勢によって破却されている。どうも、敗滅状態に陥った山内上杉氏が戻ってきて再起しないように、との考えかららしい。


 平井城域には城未満の屋敷が作られ、北条の代官的な者が入って統治しているそうだ。この戦国の世に、充分な防衛力なく周辺勢力に蹂躙されていないのはすごい。あるいは、手を出させて潰していくための罠なのかもしれないが。


 さらに南には、もう武蔵国となるが藤田氏の鉢形城がある。


 藤田氏には北条の当主、氏康の息子である氏邦が養子として入ることが決まっており、一門衆的な存在になるのだろう。三国峠の入り口にある沼田城と共に、北条氏の上野国経営の出先機関的な位置付けと思われ、注意が必要だった。


 白井城は元時代では渋川市で、桐生城は桐生市、赤石城は伊勢崎市、平井城域は藤岡市、鉢形城は寄居町となる。


 北条勢の動向は気になるところだが、その他の諸勢力もどう動くやら。長野業正を破り、和田・厩橋長野連合軍を退け、両家の本拠地を奪った俺らは、彼らの目にどう映っているだろうか。


 箕輪城下の土豪衆のうち、長野氏の残党について挙兵した者達には、去就を選ばせた。退散する者もいれば、武装解除を受け入れた者も、兵団として傘下に加わった者もいる。


 武装解除組は、家禄があるにせよ名主に近い立場になるだろうか。時を経れば農村に溶けていくだろう。


 兵団としての参加組は、ひとまず集団として動くのを許容するが、得意分野によって自然と分散していくだろう。


 退散組とはいずれ再戦するかもしれないが、この地で土豪として生きてきたこと自体に罪はない。今回が初の挑戦だと考えれば、いきなり族滅するのはためらわれた。


 また、和田城、厩橋城圏内の土豪についても、侵攻への参加を理由に討滅するつもりはない。両家の旧家臣についても、反抗しない限り追捕は考えていなかった。よその勢力を頼って復讐戦を仕掛けて来る可能性もあるが、それはそれと割り切る方がよいだろう。




 周辺勢力のうち、桐生城と赤石城は、さほどの強敵ではなさそうだからいいとして、越後の長尾景虎と同族の白井長尾氏、それと今後一年くらいはことを構えたくない、平井城域にある北条の出先機関、それに藤田氏の鉢形城には、できるだけ早期にあいさつをしておきたいところだった。


 ただ、まともな外交能力のある臣下はいないんだよな、と考えていたら、遊びに来ていた上泉秀綱殿が使者を買って出てくれた。既に剣豪として名を知られているので、相手も粗略には扱わないだろうし、とても助かる。


 箕輪衆の内紛を、新田氏が収めてひとまず安定した、との話にしてくれるそうだ。


 越後の長尾景虎は、史実のこの時期には千五百とも五千とも言われる兵を連れて上洛していたとされる。将軍足利義輝が、長年抗争を続けてきた三好長慶と和睦し、京都に戻って協力体制を築いており、この時期には織田信長、斎藤義龍らも上洛している。だが、軍勢を率いてとなると長尾景虎だけとなる。


 長尾景虎は、国の事情は捨て置いて、中央政権の強化に努めたい旨を表明したと伝えられ、将軍家の権威を復活させる形で戦乱の世を鎮めようとしていたとも考えられる。


 もしも諸国の大名が、景虎と同様に京都に兵を引き連れて来ていれば、将軍の権威は復活し、戦国の世は終わりを告げていたのかもしれない。


 歴史を知る我々は、将軍家と三好の和睦があっさりと崩壊に向かい、1565年の足利義輝殺害によって、混迷がより深まる流れにあると認識できる。けれど、この時代の人々にとっては……。


 将軍がようやく京都に帰り、長年敵対していた三好勢を取り込み、協調して世を治めようと見る者も多いだろう。古河公方や関東管領に現時点で一定の意味があるのは間違いなく、そうであるなら将軍、管領らが中心となる秩序もまた、存在しているわけだ。


 来る1560年の正月には、毛利や本願寺の献金もあって、二年遅れながらも正親町天皇の即位の礼が行われる。さらには、将軍の御所も建造中というこの時期には、足利義輝の下での秩序の復活、平和な世の到来を期待する者がいても、まったく不思議ではない。


 やがて京から戻る史実の長尾景虎は、何を思って関東へと踏み込んだのだろうか。まあ、この世界で同様の状況が起こるかどうかは、不分明なのだが。




 さて、今回の戦いで、これまでの箕輪城、国峯城、安中城、松井田城に加えて、厩橋城、和田城が支配下に入ったわけだ。これは、元時代で言えば前橋市、高崎市、富岡市、安中市となり、群馬県……、今の時代での上野国の西北部を手中に収めた形となる。


 上杉家は来年まで、武田家は三年後まで仕掛けてこないのが史実だけれど、謎の弱小勢力が過分な土地を得たと判断されれば、時期が早まる可能性がある。ハリボテ状態の領地に、できるだけ早く身を入れなくては。


 正直なところ、ここまでは出来過ぎな展開である。この状態に至ったのは、蜜柑と澪の個人技によるところが実に大きい。


 だが、これから北条、武田、上杉というビッグネームとやり合う場面を考えれば、人材も実力も圧倒的に不足していた。


 史実をなぞるのであれば、上杉謙信……、じゃなかった、長尾景虎は、来春に発生する桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、甲相駿三国同盟の一角が揺らいだ時期に、代々関東管領を世襲してきた山内上杉家の憲政を擁して関東へ進出してくる。


 ただ、おそらくは今年の上京時に、その旨の了解は将軍家に取っていると思われるため、義元の生死に関わらず、出張ってくる可能性が高そうだ。


 このゲームが、想像通りに「戦国統一オンライン・極」を元にした、あるいはその要素を取り込んだ世界であるなら、少なくとも初期は歴史の流れに沿って動くことが期待できるだろう。ただ、プレイヤーの介入度合いによるわけで、もしかしたら既にやり過ぎている可能性もある。


 史実通りなら、長尾景虎が三国峠を越えて関東にやって来るのは、来夏となる。その際の根拠地は、先日落とした厩橋城となるはずだ。


 厩橋城を領有する我が新田氏が、軍神の降臨を歓迎して関東制圧を援助する形にすれば、現状でもその流れは維持できるかもしれない。そう思いたい。


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