【永禄二年(1559年)八月中旬】その二

【永禄二年(1559年)八月中旬】その二


 潰走する軍勢の中で指揮役狩りは継続され、俺たちは北東を目指していた。並走していた騎馬はほぼ討ち終え、結果として先行している形となっている。


 この時代の馬の体格はさほどでもないが、もちろん武装した徒歩の兵よりは格段に速い。厩橋城に取り付いたのは、蜜柑を含めた二十騎ほどだった。


 城門が固められている様子もなく、殿からの伝令だと呼ばわった先行組は、あっさりと城内に踏み入った。城兵が油断していたのは、見坂智蔵がもたらしてくれた情報通りだった。


 今回の攻撃を主導したのは、箕輪繁朝を傀儡的な総大将とした和田勢だったのは間違いない。彼らは、長野業正が敗死してから城を奪われる経緯を把握していたためか、侵攻軍を送り出してからも防備を固めていた。そちらは、見坂兄弟の兄の方、武郎が偵察してくれていた。


 厩橋長野氏からすれば、和田に援軍を送った状態で、距離もあるために自城が戦場になるとはまったく考えていなかったのだろう。智蔵からの報告は、蜜柑姉ちゃんが一人で押し入っても落とせそうなくらいに油断している、というものだった。


 実際、気付いて向かってきた幾人かの長野勢の武士は、あっさりと斬り伏せられていた。


 追いついた俺の後ろで、澪が城兵に速射を浴びせた頃には、城兵の視界に潰走してくる味方の姿が入ったようだ。


 もはや勝負はついた。彼らがそう判断したのには、残っていたのが官吏的な家臣のみだったのも大きかったかもしれない。


 実際には、彼らが城を死守していれば、生き残った一族の者、あるいは臣下の有力者が敗残兵をまとめて、数の威力で押し返されていた可能性が高い。新田を攻め潰すのは簡単で、防備の必要などない。そう侮られていたのは、確かだろうが。


 いや、名のある武士が皆無の軍勢がまともに機能するはずがないとの認識は、通常ならば正しい。だが、実際には、農民出身とは言え▽持ちが統率しているからには、ある程度の組織化はできているのだった。そして、蜜柑の突貫力と澪の剛弓は、充分に決め手となり得た。


 逃げ出す城兵と入れ替わりで後続が押し入った頃には、城内の制圧はほぼ完了していた。そして、味方の軍勢が近づいてきた。徒歩の手勢には、息を切らさない程度に急いで進軍するように伝えてある。


 彼らが到着するまで、敗走してきた兵たちをまとめる者はいなかったようだ。まあ、そのためにこそ落ち延びていく中から指揮官級の狙撃を重ねたのだが。


 実際のところ、追撃中に倒した中にはそこそこに見どころのありそうなステータスの武者も多く含まれていた。だが、こちらの被害を最小化するためには、殺すしかなかった。今回の戦いでも、味方に少なくない犠牲者が出ているのだから。


 一方で、澪が弓で射るべき相手を示す際に、生け捕りにしたい者を示せるとよりやりやすくなる。鏑矢のようななにかを考えてみるのはありかもしれない。




 厩橋城の防備を固めた後に、守備兵を残して和田城へと向かう。厩橋城ほどの油断はしていなかったにしても、手勢の主力は討ち果たされ、農兵は逃げ去っている。籠城は悲壮感のあるものだっただろう。


 残念ながら、城攻めの経験のある者は陣中に誰もいない。けれど、この好機は逃すべきではないだろう。元時代に伝わる話では、上杉勢一万を九百で防ぎ切ったとも伝わる和田城だが、川沿いに立つ簡素な構えからは想像しづらい。事実関係が異なっているのか、武田による大幅な増築があったのか。


 今回は敗走した軍勢がそのまま入っていたのを、厩橋城を攻め落とした常備軍と戦場付近で待機していた農兵七百で包囲した形となる。持ってきた矢盾を表裏の城門近くに並べ、簡易陣地を構築し、常備兵勢に守備を任せる。その状態で、農民兵向けの炊き出しを実施した。


 彼らには乱取りの禁止と、摘発した場合には斬首する旨を通達している。同時に、城下町と近隣の集落には兵糧を提供して騒がせている詫び替わりとした。まあ、その兵糧は、敵方両陣営の小荷駄が置き去りにしていたものなのだが。


 半ば宴状態になった頃には、城下町と集落の代表者らがあいさつに来て、そのまま合流する形となった。


 しばらく攻囲をするので、困ったことがあったら伝えてくれと頼むと、なにやら恐縮されてしまった。そこから、想定される城内の様子などを聞くことができた。


 残っていた城兵は五十名ほど、逃げ帰ってきたのは農兵を含めても百名程度に留まるという。こちらにも犠牲が出るだろう力攻めは避けたいと考えていたのだが、この人数ならいけるかも。ただ、焦る必要もまたないわけだ。


 夕暮れ時になって、動きがあった。城門がわずかに開くと、突き飛ばされるように女性が出てきたのである。反応したのは、平服の剣豪組と共にいた長野繁朝だった。


「母上っ」


 駆け出していくのを、止めるつもりはない。そこを討たれるのなら、本人としてはある意味で本望なのかもしれない。


 ただ、さすがに矢が射掛けられることはなく、母子は歓声の中でこちらの陣営に戻ってきた。人質とする価値もなく、ただ単に放逐した状態だったようだ。怪我を負わされたわけでもないようなのはなによりである。


 夜になっても攻囲は続けられたが、互いに特に仕掛けはしなかった。籠城側からすれば、このまま帰っていくことを期待しているのだろうし、こちらからすれば、本番は翌日からだった。


 早朝に農兵の一部が帰っていったのを、和田勢はどう見ただろうか。けれど、昼過ぎにはさらに数を増やして戻ってきている。


 ただ、やってきた農兵たちは、攻城支援との話で狩り出されていて、のんびりとした雰囲気である。攻め手としては決して投入せず、包囲のみと確約しての招集だった。もちろん日当は出すわけなので、収穫前の一稼ぎとして捉えられているようだ。


 食料は潤沢に持ってきており、肉と野菜を投入した雑炊的な食事は、農兵にも覗きに来た近隣の住民にも好評だった。新田の乱取り禁止の方針が伝わったのか、農民同士の交流なども発生しているようだ。五公五民、各種賦役の廃止と、動員時の給金支給が伝わると、どういう反応を呼ぶだろうか。


 実際にはこの地の住民にしても、前日の戦いで知り合いが死んだ者もいるだろう。だが、攻め寄せてきた敵が友好的であるため、やや拍子抜けしてもいるようだ。


 そして、櫓の構築作業が開始されていた。本格的な攻城戦を想定して用意していた、付城ならぬインスタント櫓的な状態である。この時代には天守は存在しなかったとの話は本当のようで、城はどれもずんぐりした作りとなっている。そのため、あまり高くせずとも用は足りるのだった。


 欲を言えば、車で牛馬で牽引して据え付けだけですぐに使えるのが望ましいのだが、今回は加工済みの木材と竹梯子を持ち込んで組み立てる形となっている。


 澪と一緒に上がると、矢は飛んで来たものの力はない。そして、▽持ちは遠くからでも識別することが出来た。


 有望な人物がいないのは、よいことなのか悪いことなのか。澪に標的を伝達すると、一門衆と年配の家臣に向けて矢が飛んでいく。狙った五人のうち、射殺したのが三人。残る二人も手傷は負わせたようだ。慌てた城内の兵は、櫓から見える位置から消えていった。


 その夜に、火矢を幾本か射ち込んだのが効いたのか、指揮する者がいなくなったのか、交渉を求める使者がやってきた。土豪勢の所領安堵を求められたが、それを許せばこれまでの施策との整合性が問われる。これまでと同様、直轄地同様の収穫徴税をする代わりに、家禄の支給、常備軍向けの戦力供出時の俸禄を設定すると説明した。


 あっさりと拒否され、使者は帰っていったが、内部で混乱が生じるまで時間はかからなかった。侵攻から一緒に逃げ戻った農民からの徴集兵を中心に、離脱を望む組とで戦闘になったらしい。やがて門が開き、数十人が城から出てきた。


 追いかけてきた▽持ち二人が射抜かれると、混乱の中で蜜柑が突貫を仕掛け、攻囲三日目にして和田城は陥落したのだった。


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