【永禄二年(1559年)七月中旬】その二

【永禄二年(1559年)七月中旬】その二


 この辺りの家畜事情については、農耕用の牛馬が少数見られるくらいだった。牛馬の糞は硝石作りに役立つので、村から離れた場所に穴を掘って集め、放置するようにと指示した。処理に困っていたようなので、あっさりと従ってくれている。堆肥としての利用は、あまり一般的ではないようだった。


 当然ながら肉牛は存在せず、ステーキやすき焼きにありつくのは難しそうだ。飢餓が起こりかねない状況下では、牛肉の確保の優先度は低い。


 農業絡みでは、貴重品らしい椎茸の栽培を試みた。ただ、時期的には今年はもう遅そうなので、来年以降につながるのを期待しよう。


 やり方としては、椎茸採りの達人だという村人に椎茸が生えそうな場所を示してもらい、その辺りの土を丸太に植え付けて放置してみている。そして、その作業を各地の村近くの山で実施してもらった。これで少しでも生えるようなら、栽培の目処が立つのだけれど。


 その他では、澪が狩ってくる獲物の脂を使って、石鹸作りも試してみた。動物の脂に、灰汁と塩を足す形となる。幾つかの取り合わせはそこそこのできで、俺はこの地に来てから溜まっていた汚れを落とせてさっぱりした。


 どの動物の脂が向くのか、灰はなんの植物がいいのか、さらには植物油の方がいいのかは、試行錯誤が必要になりそうだ。


 鉱山開発については、すぐに手を付けるのはむずかしそうだ。国峯城の後背の山には、鉄鉱石や多少の金銀が採れる鉱山があるはずだが、闇雲に探せるものでもない。専門家を招けるとよいのだが。




 そして、やはり軍備の優先度が高いのも間違いない。


 周辺の勢力を考えたとき、碓氷峠方面の警戒は怠れないが、より警戒すべきは、箕輪城からは北東にあたる、元時代での前橋市にある厩橋城の長野道賢と、同じく高崎市にある、南東の和田城の和田業繁だろう。後者の方は、討ち果たした長野業正の甥っ子かつ義理の息子だそうだし。


 侵攻に参戦していた業正の嫡子は戦闘の中で命を落としたが、その他の一族は放逐するに留めた。和田城か厩橋城に身を寄せているかもしれない。


 捕らえた一族を見逃す処置は、甘かっただろうか? 攻めてきた相手を倒すのにためらいは感じないが、攻めるのを送り出したからと言って、城にいた女子供が惨殺されるべきかと問われると、迷うところである。


 こちらが負けていたら、おそらく皆殺しだったのだろう。同じ目に合わせるべきだとの考え方もありそうだが……、まあ、次のときにまた考えるとしよう。




 今は永禄二年の夏。西暦で言えば1559年となる。ここ上野国を含めた関東西部は北条が席巻しており、俺らも箕輪衆の身内で内紛が起きただけで、引き続き北条の勢力下にあるとみなされているだろう。


 この上野は、山内上杉氏が去った後は、その配下だった者たちを中心とした城持ちの国人衆が乱立しながら、濃淡はあれど概ね北条に従属している状態となっている。一方で、北条の本領からは距離があるため、常に圧力に晒されているわけではなかった。


 この方面での北条の拠点としては、まずは北条の一門衆、綱成の息子の康元が城主として入った、上野国の北にある沼田城となる。それに、和田城の南にある平井城と、北条の一族が養子として後継者になると決まっている武蔵国の鉢形城の藤田氏が挙げられる。彼らに単独で攻め寄せるだけの力は、おそらくないだろう。


 そうでなくても、この時期の北条は上総……、千葉南部で里見との抗争で手一杯のはずで、いきなり西上野まで攻めて来る可能性は低そうだ。


 そして、来年春には桶狭間の戦いが起こり、夏には後世で軍神と呼ばれる上杉謙信が……、この時点では長尾景虎と名乗っている越後の虎が、厩橋の北方にある三国峠を越えて関東に、厩橋城にやって来る。それまで持ちこたえて、景虎の傘下に入る。……もしも可能なら、同盟者に近い存在となりたい。


 史実通りに進むとすれば、そこまでが最初の勝負だった。


 景虎が関東に来ないのなら、北条の傘下として生きていくのが理想的な展開だろうか。そこの見極めは必要となる。


 史実の流れでは、さらに次の年の永禄四年には、第四次川中島の合戦が起こる。そこへの介入も可能かもしれない。信玄と謙信、どちらが死ぬ方が、俺にとっては都合がいいのだろう?


 各種イベントが発生した上で、第四次川中島合戦が史実通り引き分けに終われば、ここ上野国は、北条、上杉、武田の抗争がくり返される地となる。北関東の諸勢力は、上杉が来れば従い、去れば北条の圧力に晒されて離反する動きを重ね、不毛極まりない戦いが続く。そして、箕輪城、国峯城、松井田城の上野西端の一角は、碓氷峠を越えた武田の侵攻を受けて陥落する流れとなる。


 史実で、上野西端部の陥落前にいったん押し留めるのが、先日討ち果たした長野業正となる。彼が1563年頃に命を落とし、箕輪勢は武田に飲み込まれる。さて、既に歴史は変わっているわけだが、どうなっていくのだろうか。


 いずれにしても今後の基本方針は、まずは北条方国人衆であると擬態し、やがて上杉謙信となる長尾景虎の関東襲来時に手を結ぶべく、力を蓄えることに尽きる。


 ただ、それだといずれ、武田の西上野侵攻の矢面に立たされる。その段階で、武田に降るべきか。あるいは……。


 武田、上杉、北条のビッグネーム三勢力の中で、どこに親近感を抱くかと問われれば、断然北条となる。


 鎌倉幕府で執権として勢威を振るった北条氏と区別するため、後北条氏とも呼ばれる彼らは、足利幕府の行政系家臣の名門伊勢氏が姻戚の今川家を支援する形でやって来て、伊豆相模で自立した戦国大名の家柄である。


 戦国時代の先駆けとも評される北条早雲から今は三代目。周囲と比べた歴史の浅さのためか、民と近い所領運営だったとされている。


 中でも年貢の四公六民は、六公が一般的で、七公の場合すらあるというこの時代には破格の低率とされている。


 後北条氏と言うと、どうしても危機にあって物事を決めきれない「小田原評定」の印象が強くなってしまうが、敗北が確定した状況下での動きのみを切り取って評価するのは、公平ではないように思える。


 来年から始まる越後勢との長期に渡る抗争さえなければ、関東を制圧した上で雄飛していたかもしれない。その覇業を助けられれば……。


 だが、西上野はいかにも越後に近すぎる。ここは、冷静に判断するべきだろう。しかも、幾代にも渡る血縁関係を張り巡らせていない我が新田家は、裏切ったと認識されれば無事でいられるはずもない。その点も考えに入れる必要があった。


 外交面では、越後守護である長尾景虎……、後の上杉謙信に、景虎の同族である渋川の白井長尾氏、足利の足利長尾氏。そして武田側の近隣の城に入る諸将らと、さらには下野の各勢力とは親密度を上げておきたい。


 ただ、当面は北条の傘下のままだと擬態する必要があるので、越後との交流は慎重にすべきだろう。


 そして、軍神殿が進出してきた時のために、糧食提供を含めたもてなしの準備も必要となる。


 厩橋城の長野氏は、景虎に従うか、駆逐されるかどちらだろうか。史実では、厩橋城は上杉勢の関東侵攻の拠点となっていたはずなので、おそらく攻め落とされるものと思われる。それまでの間だけでも、誼を通じておくべきか。



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