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 私は一応説明する。


「劉家の奥さまの新しい侍女ですよ」


「美しい人だった……」東原さまは眉をひそめて言った。「美しい……しかも不思議なことばかり言っていた……もっときちんと話を聞かねばならんな。じゃ、小玉、失敬!」


 そう言って東原さまは連貴さんの後を追っていった。どういことなのだろうか……。東原さまが連貴さんと会ったとき、東原さまは虫に乗っ取られていた。たぶん、連貴さんの美しさに気づかなかったのだろう。でも今はその美しさに気づいた……。


 美女に目のない東原さま! そして無事お腹から虫がいなくなった今は、元の東原さまに戻ったのだ!


 私は一刻も早くお嬢さまのもとに戻りたかった。戻って、全てをうちあけてしまいたかった。でも連貴さんに口止めされているからそれをするわけにはいかない。私はとりあえず、本来の用事を果たすために急いで目的の場所へと向かった。




――――


 その日の夜はいまだ興奮を引きずって、それでいて穏やかだった。当面の問題は片付いたのだ。東原さまはもうお嬢さまに求婚しないだろうし……いや、東原さま以外の男性がお嬢さまに求婚することはこれからも多々あるだろうけど、その時はその時だ。そうなった時に考えよう。ひょっとすると、私も好きになれるような、そんな人が現れるかもしれないし。


 私はそんなことを思いながら寝床へもぐりこんだ。連貴さんから聞いた話はお嬢さまにはしていない。残念だ。すごく、たくさん、話したいことがあるのに……。


 うとうととしながら、私は頬がほのかに熱いことに気づいた。虫に謎の液体をかけられたところだ。あの液体なんだったんだろう。毒じゃなければいいけど。朝になったらただれてるとか、そんなことがなければいいけど……。


 少し不安に思いつつ、私は眠りについた。


 夢を見ていた。夢の中で、私は虫になっていたのだ。東原さまの体内から現れた、コオロギみたいな虫。そばにお嬢さまがいて、私はかごの中に、義山さまからもらった飼育用のかごの中にいた。


 私は一生懸命、羽をこすりあわせてお嬢さまに美しい声を聞かせようとしていた。はて、私はオスなのかな。だって、コオロギはオスが鳴いてメスは鳴かないじゃない? でもメスも鳴くものがいるのかな……。


 ともかく私は、お嬢さまに何かよいものを提供したかった。私がお嬢さまにできる、精一杯のこと。お嬢さまのために――ううん、違う、自分のため。私がしたことでお嬢さまが幸せになれば、もっと私のことを好きになってくれるかもしれないじゃない。


 私が美しい声で鳴くことができるのなら、お嬢さまはその声ゆえに私をもっと愛してくれるかもしれない。だから、私は頑張っていたのだけど――頑張っていたのだけど――……。


 夢はそこで終わってしまった。


 そして気づくと……私はなぜだか戸外にいた。




――――




 外なのでもちろん布団はない。でもそんなに寒くはない。苦痛は少ないけれど、私は混乱した。ここはどこ?


 ずいぶんと……大きな植物が生えている。でも木ではない。草みたい。巨大な草。近くには大きな石や岩も転がっていて……。違うわ。周りが大きいんじゃない。私が小さいんだ。


 私は手を動かした。手……私の手……。――手じゃない! それを見て私はぎょっとした。手じゃなくって、前足だわ。これは――人間の手じゃなくて、虫の前足!


 私は手足をついて、地面に腹ばいになっていた。私はさっきまで見ていた夢のことを思い出す。夢の中で、私は虫になっていて――今も虫じゃない! 私、まだ目が覚めてないの?


 でもすごく現実感があった。手足に当たる土の感触は生々しく、景色はくっきりとしていて、触覚を揺らす風も(触覚! 私には触覚があるのだ!)存在感がある。これは夢じゃないのだろうか。


 私は昨夜、頬が熱かったことを思い出した。虫に液体をかけられたところ――。ひょっとして、あの液体のせいで、私も虫になってしまったの!?


 私はぴょんと跳びはねた。何気ない行動だけど驚いてしまった。小さな身体からは信じられないくらい、遠くまで跳躍できた。一気に風景が変わってしまう。


 ――すごーい! なんだか楽しい! ……って、楽しんでる場合じゃない!


 いくらか跳んだり(跳ぶのにはそれなりに力がいる)歩いて移動したりしているうちに、池のほとりにやってきた。そして私はここが劉家の庭であることに気づいた。辺りの様子からして、まだ朝も早い時間のようだ。


 私はおそるおそる水面をのぞきこんだ。


 そして素早く頭を引っ込めた。


 水面に、見たくないものが映っていた。予想していたことではあったけれど。そこには虫がいたのだ。コオロギによく似た、黒くて丸い頭の虫。私は――虫になってしまった――。


 ひょっとして、東原さまのお腹にいて私に液体をひっかけたあの虫のせいで!? 頬がただれるよりひどいことになってしまった。虫め、よくも! 怒りがわくけどそれをどう解消すべきかわからない。私はとりあえず、池から離れた。


 私は――これから、虫として生きていかねばならない……。


 もし人間だったらここで声を上げて泣くところだった。でも私は虫なので、涙も出ない。虫は泣くことができないようだ。これからどうするべきか――私は暗い気持ちで考えた。とりあえず、虫の仲間を探さなくちゃ。


 一匹で生きるのは大変そうだし、寂しいもの。虫は私を仲間と認めて受け入れてくれるかな……。言葉が通じるだろうか。


 待って。そこで私ははたと気づいた。私は虫なの? 本当に?

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