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「……でも、私、不思議なの。どうも納得できないの」


 お嬢さまが少し小さな声で言った。何かに迷っているような声。「何かおかしいのよ。東原さまの様子がどうも……」


 お嬢さまは私を見て、真剣な顔をして尋ねた。


「東原さまって、あんな方だったかしら」

「さあ、私は、あまりよく存じ上げないので……」


 東原さまと話したことはほとんどないし。向こうがこちらに興味を持たなかったから。お嬢さまはふっと息を吐いた。


「そうね。変なことを聞いてしまったわ」

「東原さまはお嬢さまのことをとても慕っているようですよ」


 言った後になんだか間抜けな発言だなと思ってしまった。慕っているようも何も、結婚したがってるんだもん。そりゃあ大いに慕っている。


「……。本気なのかしら」

「結婚の話ですか?」


 お嬢さまの独り言のような言葉に、私は質問で返す。お嬢さまは恋文をもらったときも疑っていた。東原さまが本気なのかどうか。


 本気じゃないって思ってるから、結婚の話に乗り気ではないのだろう。でも……もし本気だったら? 東原さまが本当に、心から、お嬢さまを愛して、生涯を共にしたいと思っていたら?


 そのときは、お嬢さまはどうするのだろう。


 お嬢さまが口を開くより早く、枇杷がピイと鳴いた。


 そしてふらりと部屋を出ていく。


「どうしたのでしょう?」


 私とお嬢さまは後を追いかける。回廊の手すりに枇杷が止まっていた。


 とても素晴らしい月夜だった。月は白くまん丸で、辺りはやけに明るかった。枇杷は月を見ているのだ。


「たまにこういうことがあるのよ」お嬢さまは言った。「夜中にね、部屋を出ていくの。そして月を見ているの」


「なぜなんでしょう」

「私が思うに――枇杷は月から来たのかもしれない」


 月から? 突拍子もない話だなあ。でもたしかに普通の鳥ではないけど。


 お嬢さまは少し離れたところから枇杷を見て、言葉を続けた。


「月に帰りたいのよ、きっと。枇杷はまだ子どもで、月には親がいるの。きょうだいたちもいるかもしれないわね。枇杷は――寂しいのよ」

「でもどうやって、帰すことが……」


 私はしゃべっている途中で、それを中断させるかのように音が聞こえた。私はびっくりして黙った。音は外から、庭からだ。庭を――歩いている人がいる? そしてこちらに向かってくる?


 く、曲者! 叫ぼうとした瞬間、それが誰なのかわかった。連貴さんだ。連貴さん、なんでこんな時間に庭を歩いているのだろう。


 枇杷も彼女に気づいたようだった。そして彼女の元へと飛んでいく。


 連貴さんが手を差し出すと、枇杷はそこに止まった。


 連貴さんがこちらに気づき頭を下げた。


「一体、何をしているの?」


 お嬢さまが連貴さんに尋ねる。


「夜の散歩です。月がとても綺麗なものですから」

「たしかに、歩きたくなる夜ね」


 使用人が夜うろうろとその辺を歩くことははっきりと禁止されているわけではないけど……でもあまり喜ばれないことじゃないだろうか。けれどもお嬢さまの表情には、連貴さんをとがめている様子は見られなかった。


 枇杷は連貴さんを見つめている。なんだか懐いているようだなあ。枇杷って本当に、顔のよい人が好きなんじゃないかしら。


「それに鳥の声が聞こえましから」

「鳥?」


 お嬢さまが怪訝な顔をする。私も不思議に思う。鳥は大体、夜は寝てるし。それとも枇杷のことを言ってるのかな。でも枇杷はそんなに大きな声で鳴いてない。


「その子ね、月の小鳥なの」


 お嬢さまが連貴さんに言った。連貴さんの表情が――いつも穏やかな笑みを浮かべているような顔が、変わった。驚いている。目が少し丸くなる。そりゃそうだろうな、「月の小鳥」って唐突に言われても。


 お嬢さまは話を続けた。


「どういうわけか、地上に下りてしまったのよ。月に帰りたがってるの。だから、帰してあげたい」


「ええ」連貴はまたいつもの連貴さんに戻っていた。目を細め、微笑む。「そうしましょう。――お帰り、月の小鳥」


 連貴さんは枇杷が止まっているほうの腕を上げた。枇杷が、連貴さんの言葉と動作につられるように、飛び立つ。そして――ふっとその姿が消えた。


 消えた……姿が、消えた!?


 闇に紛れちゃったのかな……。ううん、でも消えた……気がするけれど。私は目を凝らすけれども、枇杷の小さなだいだい色の姿はどこにもない。


 それとも朝になればどこかからひょっこり出てくるのかな。


「帰ったかしら」


 お嬢さまが尋ねる。連貴さんは安心させるように、優しい声で言った。


「ご心配なさらず。あの鳥はもう、月におりますわ」


 連貴さんの言ったことが本当かどうか、私はよくわからない。でも――その日から枇杷の姿を見ることはなかった。

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