3

「君たち主従は大変よい主従だと思うんだ。秋芳は美しく、君もまた美し……美し……?」


 笑顔が少し曖昧なものになり、東原さまが言葉を探している。美しい、と言いかけてなぜ躊躇するのか!? 私が黙っている間、東原さまはずっと悩んでいる。


「……美しい……。あ、そうだ! かわいい! 小さくて丸っこくて味のあるかわいさだよ」


 もう! 味のあるかわいさってどういうこと!? けれども、東原さまはこっちの感情はさっぱりわかっていないようで、またあの眩しい笑みが戻っていた。いやますますあっけらかんとした笑顔になっていた。


「かわいい小玉。君が私たちのために頑張ってくれるのを期待しているよ」


 義山さまが言っていたことを思い出した。東原さまは正直だ、って。たしかに正直かもしれない。私のことを美しいとは言わなかったのだから。




――――




 その夜、私は東原さまのいささか失礼な態度を思い出して苛立たしい気持ちで寝台に入った。布団にもぐって目を閉じる。そして今日の出来事を思い出す。


 お嬢さまは断りの手紙を書いて、それを私が東原さまのお屋敷に持っていった。手紙はちゃんと東原さまのところまで届いたはず。ならば、結婚を諦める、だろうけど……。


 お嬢さまが結婚かあ。私はぼんやりと考える。


 お嫁に行くということは、この家を出ていくということよ。名家のお嬢さまたちは、お輿入れの際に実家から侍女を連れていく。私も――連れていってくれるかなあ。


 私はお嬢さまの一番近くでお仕えしてるから連れていってくれると思うけど。でも、ひょっとしたら置いていかれるだろうか。


 それに――私はさらに考えた。連れていってくれるとして嫁ぎ先で上手くやっていけるかな。待って。私はここではたとあることを思い出した。ちょっと待って。実家から連れていった侍女って、向こうの旦那さまの側室になる場合もあるんじゃなかったっけ?


 そうよ! そんな話を聞いたことがある! ということは――もし、お嬢さまが東原さまと結婚すると――私は東原さまの側室になるということ!?


 衝撃のあまり思わず目を開けてしまった。うっすらと白っぽい闇が広がっている。私の部屋の、見慣れた天井がある。しんと静かな夜の世界。でも私の心は大いに騒いでいる。


 私は東原さまの側室になるの!?


 それはなんだか嫌! まあ、向こうだって嫌かも……。それにお嬢さまが私を連れていかないこともあるかも……。


 お嬢さまが私を連れていかない。


 私はぎゅっと布団を握った。そうなるとお嬢さまとお別れしなければならない。お嬢さまとお別れ。お嬢さまのいない生活。


 お腹の底がひんやりとなった。


 この5年が、いつの間にか私にとっては大事な5年になっていた。いつの間にか肌になじんでかけがえのないものに。


 初めてお嬢さまに会ったときのことを思い出す。お嬢さまは美しいけど、黙っていればどこか冷ややかに見えるところがあって、だから私は最初は恐ろしいというか気後れしてしまったのだけど……でもすぐに良い方だって、わかった。


 おやつ半分くれるし私が疲れているとさり気なく助けてくれるし、無茶な要求はしないし、ちょっとつかみどころがないところもあるけれど、でも良い方。


 ここに来て間もないとき、家が恋しくなってしまったことがあった。大部屋で一人しょんぼりしているとお嬢さまがやってきて、私に円の面積の求め方の話をしてくれた。なぜ円の面積なのだかよくわからないけど、ひょっとしたらその日、お嬢さまの家庭教師がお嬢さまに教えた内容だったのかもしれないけれど、でもそれで私は気が紛れて救われたんだ。


 なのに……なのに、お嬢さまとお別れすることになるの?


 私は再び目を閉じた。今まで、お嬢さまが求婚されてもそのことを深く考えたりしなかった。むしろ、たくさんの人から思いを寄せられる美しいお嬢さまが自慢だった。でも……お嬢さまが結婚するということは、私の生活が大きく変わってしまうということなんだ……。




――――




 次の日。私は寝不足だった。けれども仕事をこなさなければならない。


 お嬢さまの部屋を掃除して、ごみを捨てに行ってまた戻ろうとしていると、他の使用人から声をかけられた。


「小玉、お客さまを案内してさしあげて」


 見ると、東原さまがいた。東原さまが言う。


「おはよう、小玉。秋芳に会いたいのだけど」


 そこで、私は東原さまとともにお嬢さまの部屋へ行くことになった。昨日、東原さまの家に断りの手紙を届けたのだけど。それは読んだのだろうか。


「いい天気だね、小玉」


 一緒に歩きながら東原さまが言う。東原さまは今日も綺麗で生き生ききらきらとしている。一方私は気持ちが冴えない。


「ええ」


 曖昧に答える。たしかに天気がよい。空が青くて空気がやや暑いくらいに暖かくて、桃の花びらがはらはらと散って。こちらの重たい気持ちには一向に気づかないようで、東原さまは話を続ける。


「昨日、秋芳から手紙をもらったのだが」


 やっぱり読んだのか。そのことについて何か文句でもあるのだろうか。

 

けれども東原さまは明るい表情のままだった。腹を立てているような気配は全くない。


「何やら彼女は迷っているようだね。私たちの将来に対して」


 迷っているっていうか、お断りの手紙を書くって、お嬢さまは言っていたような気がするのだけど。もっとも私は手紙を読んでないから、多少違ったことが書かれていたのだろうか。

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