「いったいなんてことをしてくれたのですか、ノジャ!!」


 その日、アレクサンドル夫人は憤怒を纏って実の息子ノジャに詰め寄っていた。

 その理由は誰の目にも明らか。

 

「どうして、どうしてロゼッティ嬢を裏切るようなことをしたのです!! あの子は私が選んだ子ですよ!! 婚約破棄なんてして、あなたは私の顔に泥を塗るつもり!?」


 御年四十を超えたマダム。

 いつもはおっとりしているアレクサンドル夫人だが、怒るときはアレクサンドル伯爵よりも厳しい。鬼のような形相に、ノジャは小さく「ひぃ」と声をあげた。


「彼女が会ってくれない。そんな事を言って一年以上ロゼッティ嬢に会わなかった時がありましたが、あれも嘘だったのですね!」

「母上、聞いてください! 確かにあの豚……いや結果的に、ロゼッティ嬢との婚約を破棄して俺は本当に愛する女性と出会ったのです!! それがノエル・ランドム令嬢! 彼女こそ、この俺の伴侶となるべき相応しい女性で……」

「ノエル……?」


 ぱちんっ、と扇が閉じられた。

 淑女が不快感を露わにするときに見られる仕草。それをアレクサンドル夫人がやると、大の男でも震え上がる。ノジャは少し漏らしそうになった。


「あの娘…………最初から最後まで馴れ馴れしく、礼儀がまるでなっていない。いいですかノジャ、私たちのような新興貴族が社交界で生きていくには、自分の家柄以上の礼節を身につけねばなりません。それは息子であるあなたも、その伴侶も同様。だから私はロゼッティ嬢をあなたの妻にと選んだのです。彼女なら、気品も十分。あなたの良きパートナーとなったでしょう」

「母上、それはあんまりです! 俺はこんなにもノエルを愛しているのに!!」

「冗談は休み休み言ってちょうだい! 恋愛ごっこだけを楽しみたい人間は、我が伯爵家には必要ありません」


 ノジャは顔を青くした。

 家から追い出されるのは嫌だからだ。ノジャには一人で生きていく力も知恵もないのだから。


「母上、どうしてそんなに……」

「そんなにノエルという娘のことを愛しているのなら、いっそのこと我が家を出てみたらどうかしら? どうせ二、三日で戻って来るでしょうね」

「なっ!! 母上、そこまで言うのなら俺は構いません! 俺が本当に彼女を愛しているということを、証明して見せますよ!!」


 ノジャは部屋の扉を強く締めて出て行った。

 その姿を見て、アレクサンドル夫人は額に手を当てる。


「我が息子ながら、なんと阿呆なのでしょう。──ああロゼッティ嬢、本当にごめんなさいね。うちのバカ息子のせいで、きっと多くの悲しみを呑み下したことでしょう。せめて、あなたの人生が幸せであることを祈ります」


 



 ◇




 ロゼッティの叔父であるロックスは、イライラしていた。

 伯爵家の息子がノエルの婚約者となり、忌々しい兄の娘ロゼッティがいなくなったから、本当なら嗤って過ごせるはずだ。なのにロックスにイライラが止まらないのは、二つの理由がある。


 一つ目の理由は、ロゼッティが行方を眩ませてすぐ、ロックスの仕事が増えて睡眠時間が削られているからだ。なにせ今まで、経理の仕事はロゼッティに押し付けていた。彼女がいなくなってしまえば、当然やるのはロックスしかいない。しかし彼は、ロゼッティほどに早く仕事が捌けなかった。


 日々たまっていく書類。

 抜けていく髪の毛。


 そんなとき、侍女長カルラを始めとした多くの侍女たちが一斉に退職届を出してきた。もともとは、兄に仕えていた侍女だ。表面上は従っているものの、従順ではない。彼女たちを辞めさせれば、人件費が浮く。目先の経費削減に憑りつかれたロックスは、深く考えずに彼女たちを家から追い出した。


 怒りの二つ目の理由は、ノエルが婚約者ノジャと湖畔に家を建てて暮らしたいと言ってきたのだ。ロックスは怒鳴った。ノジャには、伯爵家の次男坊として社交界に身を置いてもらわないと困るのだ。でもノエルは言う事を聞かなかった。


「おまえのような世間知らずな娘が、外に出て暮らせると思うなよ!! 大人しく伯爵家に嫁に行くんだ!!」

「私はいつも、アレクサンドル夫人から酷い扱いを受けているの! すっごく睨んでくるのよ!! あんな人に頭を下げてペコペコする人生なんて、絶対に嫌よ! 私はノジャ様が好きなのであって、夫人は嫌いなの!」

「なんだと……!」


 そう言って、その翌日にはノエルは家を出て行った。

 その数日後、アレクサンドル伯爵家からノジャが行方をくらませたとの情報が届いた。

 ロックスは苛立ちが抑えられないまま、食事をとろうと食堂へ向かった。


「おい、食事! 料理長はなにしてるんだ、食事を持ってこい!!」


 返事はない。

 ロックスには見えていないだけで、キッチンには料理長の辞表があった。

 そんなことも知らないロックスは、なかなか来ない料理にイライラしながら、頭を搔いていた。

 そのとき、妻がやってきた。


「ちょっとどういうことなの? さっきお店でドレスを買おうとしたら、あなたの家は銀行からブラックリスト入りしているから、売れないって言われたのよ。あなた、ちゃんとお金の管理できているの?」

「俺に指図をするな! だいたい誰のおかげでそのドレスが着られてると思ってるんだ!」


 妻と会えば喧嘩ばかり。

 彼女は見目こそ美しかったが、ひどい散財家で声も大きい。女はすべて男に仕える者だと思っているロックスにとって、これは非常に不愉快だった。

 

(すべてお金がないせいだ……!)


(そうだ、伯爵家の支度金! こっちは大事な娘を取られているんだ、少しくらい要求しても良いだろう……!)


 浅はかな考えだった。

 でも己を客観視できないロックスには、天から届いた光にも思えた。

 さっそくロックスは信書にてアレクサンドル伯爵にアポイントを取り、遠回しに金銭の工面を要求してみた。


「これ以上、ランドム子爵家に金銭援助はできん」

「え……!?」

「すごい噂になっているのに、君は知らないのかね。ランドム子爵家は君が爵位を持ってからというもの、ひどい有様だと。娘のノエル嬢は社交界で礼儀知らずの田舎者だと笑われ、君の妻は下町で平民の男と何度も夜を明かしていると聞く。君自身は自尊心プライドだけが大きくて中身がない」


 アレクサンドル伯爵は、汚物を見るような目でロックスを見下ろしていた。


「残念だよ。ロゼッティ嬢だけが唯一の希望だったのに」



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