第9話 菱沼エミルの事情

 可奈かな紗葉すずはの手をつかんだまま言った。


如月きさらぎさんて、菱沼ひしぬまさんの家、知ってる?」


「知りません。そもそも、どうして知りたいんですか?」


「直接話したいから!」


 可奈は、さきほどかじから『詳しい事情は本人から直接聞いてくれ』と言われたので、さっそく実行するつもりらしい。


「……今の時間なら、まだ自習室にいると思いますけど」


「自習室でなにしてるの?」 


「勉強でしょう」


「えー、なにアピール? わざわざ学校で勉強しないで、家に帰って自分の部屋ですればいいのに。まぁいいや。行こっ」


「え、私もですか?」


「ヌマエルと二人で話してて、なにかあったらどうすんのよ!」


「ええ?」


 窓に面して机が並ぶ自習室は、ほとんど埋まっていても、しぃんとしている。

 市立図書館のような空気の中、紗葉は、きょろきょろする可奈の手を、以前に何度か菱沼を見かけたスペースの方に引いた。


 すぐに菱沼の姿を見つけた可奈は、ぐっと紗葉の手を握りしめると、菱沼に近づいた。


「菱沼さん、ちょっと話があるんだけど」


 可奈の小声に顔を上げた菱沼は、可奈と一緒に文芸部部長の紗葉もいるのを見て、文芸部の話だと思いいたり、離席中の札を机に置くと、静かに立ち上がった。


「視聴覚スペース借りてくる」


 視聴覚スペースは小さな防音室で、文字通り映像を見るためのモニターと再生機のある小部屋なのだが、3〜5人での話し合いや勉強会に使われることが多い。


 紗葉は、これまでに何回か菱沼へと文芸部がらみの話を伝えにきたことがある。自習室でひそひそ話すには長話だったり、部誌を広げたりする必要があったので、最近の菱沼は、紗葉が来たらすぐに視聴覚スペースを借りるようになった。


 菱沼がさっさと自習室の受付に向かい、慣れた様子で手続きするのを、可奈は目を丸くして見ていた。

 可奈の知ってる菱沼は、教室の自分の席からほとんど動かないし話さなかったからだ。


 紗葉に手を引かれ、可奈も慌てて視聴覚スペースに入り、扉を閉めた途端、イスに座る間もなく、菱沼は早口で言った。


「5分で終わらせて。要件なに?」


「は? え。ヌマエルって、そんなキャラだっ」


「無駄話してる暇ないから。さっさと本題」


「いやいや。マジでなん」


「菱沼さん、お邪魔したのはね」


 二人に任せていたら話が進まないと、紗葉は間に入った。

 紗葉も最初は面食らったが、今ではすっかり菱沼の対応に慣れている。


「文芸部の話とは直接関係ないのだけど、梶先生が菱沼さんのことは直接本人に聞いたほうがいいとおっしゃったので」


 梶の名前に、可奈は勢いを取り戻した。


「そうよ! あんたがそんなだから、仲間だと思われて、私、グループから外されちゃったんだよ?」


「で? それをなんで私に言うの? 外したのは多城さんの友達でしょ? 私と仲間だと思われるのイヤなら文芸部やめたら?」


「だからっ、なんで私が」


? そっくりそのまま返すけど。部活に来なかった多城さんのために、同じクラスだから連絡事項を頼まれて伝えただけの私が、なんで責められるの?」


「だ、だって。髪とかヘンだし」


 ハァッと菱沼は息をついて、一息に話し始めた。


「あのね、私の髪はなかなかガンコな癖毛でね。見られるようにするには縮毛矯正して、いいシャンプー使って、毎日時間かけてブローしないといけないんだけど、今のウチにそんなお金はないし時間もないの」


 いきなり始まった菱沼の身の上話に、可奈も紗葉も、とまどいながらも聴き入った。

 こんなにぺらぺらしゃべる菱沼を二人は初めて聞いたので、勢いに圧倒されていたのだ。


 どこか言い聞かせるみたいな口調で、淡々と菱沼は続ける。


「なんでお金がないかっていったら、別に親がいないとか働けない病気とかじゃなくてね。アトピー貧乏っていうの? 肌がかゆくてたまらない病気みたいなのでね。それを改善するための食べ物とか薬みたいなのは諸説あるんだけど、たいがい高いのに続けないと意味なくてね。でも使ったからって完璧には治らなくて。ちょっとよくなっても、季節の変わり目とか環境の変化によるストレスで、夜中にかゆくてかきこわしたり、興奮したらかきくずしたりで、ぐちゃぐちゃになって、また初めからやり直すループで、お金がどんどん溶けるの。ふたりとも、ここまではわかった?」


 菱沼家には両親が健在だけどお金がない、理由は治りにくい病気のせいらしい。

 紗葉はうんうん頷いたが、可奈は、


「そ、そんなあんたの事情なんて、どうで」


「『どうでもいい』んなら、私だって多城さんのことなんか『知らんがな』になるけど?」


 可奈は口を閉じた。


「で、私は成長するにつれておさまって、ほぼほぼ出なくなったんだけど、イライラしたら頭をかいちゃうクセだけ残っちゃってね。なんでイライラするかっていったら、うちは5人きょうだいの、私は歳の離れた長女で、お母さん枠。夜中に起きた子の相手したり、お風呂に入れたり、ごはん作ったりするから、家で自分のために使える時間はほとんどないの。ちなみにうちは3LDKで、小部屋に弟2人、大部屋に女子3人で、誰も個人部屋を持ってない。寝るときですら一人じゃなくて、毎日修学旅行みたいなにぎわいでね。だから学校で出された宿題も課題も、できる限り自習室で終わらせたいし。朝も家事したりみんなの用意を手伝ったりで、自分の髪をいじる時間なんてないし。弟か妹の誰かが朝から『学校行きたくな〜い』ってグズグズ言い出したときは、自分の顔を洗い忘れてて、さすがに自分でもヤバいと思ったけど。でも授業に遅れるほうが困るから、そのまま行くしかないよね。弟妹が病気の時は親が休んでみてくれるだけマシなんだ。つまり、私にとって学校は、家事や弟妹から離れて、自分と勉強のことだけ考えてればいい場所なの」


 紗葉は、なるほど、よく見かけるフケは、朝なにかイライラする出来事があって、無意識にかきむしって出てしまってたのか、と納得した。

 けっこうな頻度なので、毎日に近い勢いでイライラしているようだ。


「自分と勉強だけじゃなくて! クラスメイトに配慮してくれてもいいんじゃないの?」


「配慮? それこそ冷遇してくる相手に気を使わなくちゃいけないの? あんたたちは私に配慮しないのに、私だけに気遣いを求めるのっておかしくない? そもそも、私がこの学校を選んだのは、成績上位者には授業料免除枠があるからで、学校に友人関係は求めてない。私はこのまま成績キープして、授業料免除枠で大学にも進学したい。免除枠に入れないと、本気で大学いくのきびしいから」


「授業料免除枠って、成績上位3位までの? え、ヌマエル、そんな頭いいの?」


「入学式での新入生挨拶は特別科の首席がしましたが、菱沼さんは入学時からずっと普通科の首席ですよね」


「よく知ってるね。1位2位3位が、全額、半額、3分の1免除なら、そりゃ全額を狙うでしょ」


「マジで?」


「菱沼さんなら特別科でも普通にやっていけそうですけど」


「やっていけるとは思う。でも、特別科は修学旅行先が海外だから積立金が高いし。あと、特別科あっちで2位以下になるより、確実に1位がほしいから」


 菱沼の高校での目的は『いかにして授業料を安くし大学に進学するか』なのだ。


「だからね」


 ここで初めて、菱沼は申し訳無さそうな声になった。


「多城さんも困ってるのかもしれないけど、私は私と家のことで手一杯。他人の人間関係とか、他人からの私の評価にまでかまう余裕ないんだ」


 そりゃそうだろう。紗葉は心からそう思った。

 紗葉は今まで、菱沼のことを身なりを気にしない、いわゆる勉強にしか興味のない子だと思っていた。


 でも今、菱沼の家庭の事情を聞いて、少しでも成績を落としたら進学自体ができなくなるのを我が身で想像し、ゾッとした。

 進み続けないと道がないのはみんな同じだけど、菱沼は、横にも後ろにも行けないように思えたからだ。


「お金も時間も取られない文芸部には助かってるから。勧めてくれた梶先生には感謝してるし、私ができることはしたいとは思ってる」


 可奈は思い出したように口を開いた。


「あ、その、私、お笑い好きで。コントのも好きで。どうやってあのコント書いてるのか、聞いてもいい?」


「コント書けるのは弟妹のおかげだと思う。あの子らいっつも騒いで変なこと言ったりやらかしたりしながらゲラゲラ笑っててさ。手間かかるし腹立つけど、笑いのツボは私よりわかってるんだ。最初は当たればメッケモンみたいな気持ちで、出せる限りの懸賞系に出してた。川柳とか、標語とか、キャッチコピーとか、短くてすぐ出せそうなの片っ端から。調べたらいっぱいあって、必死にそれっぽく書いて出してた。いくつか景品もらえたりもして、食料品はほんと助かった。でも、だんだん意識しなくても、授業の合間とか試験が終わった瞬間とかに、ふっとコントネタが浮かぶようになってきて。毎日まいにち耳に入ってくるバカ話だから、むしろ、あいつらの恥さらしたれって気持ちで半分キレながら出したら、賞金もらえて。それからは、浮かんだネタは忘れないようにメモだけして、移動中に頭の中で文章にまとめて、寝る前か起床してすぐにスマホで書いてる。書くだけならそんなに時間かからないし、書くの楽しいし。現金だけど、賞金もらえてからはやる気も倍増した」


「そう、なんだ。ちょっとスゴ過ぎて真似できそうにないかな。あ、でも、教えてくれてありがとう」


「どういたしまして。……もういい?」


「私はいいです。多城さんは?」


「あ、うん。時間とって話してくれてありがとう。勉強がんばってね」


「ありがと。じゃあ、お先に。あ、ここ30分借りてるから、時間ギリギリまで使ってくれても大丈夫。悪いけど、番号札ばんごうふだの返却はお願いします」


「ちゃんと返しておきます」


 約5分間怒涛のように話し終えた菱沼は、視聴覚スペースをさっさと出て行った。

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