・香ばしいふわふわの経験値のバターロール - -パン屋、勇者と出会いて覚醒する

 パン生地が完成した。

 後は発酵を待つだけだ。


 いつもは一晩寝かすのだけど、今は時間がない。


 このままだと膨らみが悪いかもしれないけれど、それでもパンが足りないよりずっといい。

 夕方遅くまでに完成させて、村の宿にお届けしたかった。


『思わぬことになった……。勇者の力を与えたつもりが、それが、パン屋の力に変わるとは……』


 攻略本さんが重々しい声でそうつぶやいた。


「だってあたし勇者じゃないもん、ただのパン屋だもん」


 パン屋き窯の準備も終わって、後は発酵を待つだけだ。


 パン生地作りもそうだけど……

 女の子が1人でするような仕事量じゃないなと、いつも思う。


『素材の特質を見抜く能力、こちらでも確認した。君と同じ現象が私にも見えるようだ』

「そうっ、よかった! これってあたしの頭がおかしくなったわけじゃないんだね!」


『これでより美味しいパンが焼けるようだな……』

「うん、そうかも! ありがとう、攻略本さん!」


 元気に感謝の言葉を投げかけても、攻略本さんから返事は返ってこなかった。


 どうやってこの力で村を救えばいいんだろう。

 あたしだって当然そう思った。


 だけど今さらしょうがない。

 こうなったらがんばるしかない!


「前向きに考えよっ、美味しいパンが焼けたら、なんか上手くことが運んで、それで村が救われるかもしれないじゃない!」

『そうだろうか……』


「そうだよっ」

『だが、具体的にどうやって……』


「それはわかんないけど……。とにかく! なんでもやってみるしかないよっ!」

『コムギ……。そういえば君は、そういいった性格の人だったな……』


「え、攻略本さん、あたしのこと知ってるの?」


 ……あ、そっか。

 あの時流れ込んできた記憶、あれが攻略本さんの記憶だったとしたら……。


 それってつまり、ちょっと信じられない感じだけど……。


 攻略本さんはもう1つの世界からきた勇者様。

 ってことになるんだよね……?


『あの幸せだった頃に帰りたい……。そう願ったところまでは覚えている』

「じゃあ、攻略本さんってうちの村の人ってことだよね!? 誰なのっ!?」


 もしかして――ロランさん?

 ホリンが憧れる騎士ロラン。あの人が一番勇者様らしい。


 強くて格好良くて大人の気品があって、凄く素敵な人だ。


 しかも独身!

 あんなにカッコイイ人が独身だなんて、世の中どうなってるんだろ!


『わからない、自分が誰だったか記憶がないんだ。気づいたらこの姿で、身動きが取れなくなっていて、誰にも気づかれずにあそこに放置されることになっていた……』

「……ねぇ、それってちょっと困らない?」


『既にちょっとどころではないくらい、私は困り果てている……』

「質問! もしこの世界の勇者様が死んじゃったら、どうなるの?」


『魔王を倒す者がいなくなる』

「それって……すっごく大変なことじゃないっっ!?」


 勇者が復讐の旅に出て、命を燃やし尽くして魔王を討つ。

 それが世界にとってのハッピーエンドだった。


 その台本を書き換えることって、もしかして、すっごく危険なことなんじゃ……。


『言いたいことはわかる。でも、君だっておとなしく殺されることを受け入れるわけにはいかないだろう。私と同じように、コムギにだって守りたい人たちがいるはずだ』


「だったら自分が誰だったか、その辺りだけでも覚えていてくれたらよかったのに……」


 あたしは手持ちぶさたもあって攻略本さんを手に取って、もう一度アッシュヒルのページを眺めた。


「ねぇねぇ、この『隠しアイテム』って何?」

『勇者にだけ見える宝の数々だ。『調べる』を行うと、宝物がタンスや壷、地中から宝が現れる』


「……え、なんで?」

『なんでと言われても、そういうものなのだ、勇者の視点から見える世界では』


「へー……。なんか勇者ってお得だねっ!」


 攻略本さんにあれこれ教わりながら、攻略本の読み方も教わった。

 彼はアッシュヒルの運命を変えようと一生懸命だった。


 けどあたしはちょっと違う。

 攻略本を眺めていると、なんだかワクワクしてきた。


 そこには色んな町や都が載っていて、田舎者のあたしが知らないものがいっぱいだった。


 勇者がどんな冒険をしたのか、具体的に語られてはいないけれど、文脈と情報からなんとなく読み解けた。


 特にこの王都の大噴水ってやつ、いつか見てみたい!


『皆を守りたい……。私はただそれだけなのだ。ただそれだけのために、私はここに存在しているんだと思う……』

「わかった、全部信じる! 2人でどうにかしよ、攻略本さん!」


『いいのか……? そう言ってくれて嬉しい。ありがとう、コムギ……』


 元勇者様の攻略本さんと話し合って、あたしは一緒にアッシュヒルの運命を変えることに決めた。

 だってあたしだって死にたくない。


 大好きなこのアッシュヒルが魔物の炎に焼かれて、ホリンの大風車まで骸骨みたいにされるなんて、そんな終わりは絶対に嫌だった。


 それに悲しい最期を迎えてしまったこの勇者様に、本当のハッピーエンドを見せてあげたいと思った。


 あたしはパンしか作れない。

 だけどきっとどこかに、アッシュヒルを救う方法があるはずだ。


 世界を救った英雄の最期が破滅で終わるだなんて、そんなのあたしは嫌だった。

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