[16] 危機
黒く長い毛に体を覆われながらも、その体の持つ肉感は見て取れる。皮膚の下にはぎっしりと筋肉がつまっている。今にも躍動し敵対するものをひねりつぶさんと蠢いている。
両の拳を地面につけた状態でもその頭はジャングルジムより上に位置する。でかい。まともにやりあえば体格差だけでどうにもならないレベル。
背中のあたりがぎらぎらメタリックな光を放つ。あれはなんなんだろう。よくわからない。残滓は通常の動物を象っているようでそこから大幅に踏み外している。子供がいい加減に作った出来の悪い怪物みたいなものだ。
聖剣を構える。すぐ後ろには慧がいる。
こんな状況は今までなかった。誰か自分以外の人間が傍にいて残滓と対峙しなくてはいけないという状況。学園長及びその部下の人たちがうまく手配してくれていた。
黒ゴリラは鼻息荒くこちらをにらみつけている。その胸のあたりを中心に私は全体を眺めた。
基本的に残滓は聖剣の使い手つまりは私を優先して攻撃する。
感覚の範囲内に他の人間がいて大きな隙を晒していたとしてもそちらを目標に定めることはない。建物などのなんらかの構造物に狙いをつけることもなかった。
そうした習性から予測するに慧の危険度はそんなに高くない、はずだ。
しかしそれは今までの経験に基づく予測にすぎない。どこまでいっても確証にはならない。
下手に動けば私よりも慧が注意をひく可能性もある。向こうが聖剣の存在をきちんと認識しているのか、それを確かめる術はない。
故に私はひとまず慧を自分の近く、安全な場所に置くことにした。
膠着状態。どちらが先に仕掛けるか。
最良の展開は私が先攻してその一撃が決まってゴリラが消滅すること。
勝負は終わる。慧の心配も何もする必要がない。
だが本当にそれは可能だろうか。あまりに分の悪い賭けにすぎる。
日が落ちていく。赤い世界。長引けばどちらが有利になるのか。
多分向こうの方だ。こちらは感覚の大半を目に頼っている。暗くなればその情報量が落ちる。
集中力の問題もある。どんなにがんばったとしても私の集中力はそんなに長くはもたない。
長く見積もったところで30分。いやその範囲内でもかなり落ちてってるはず。
動くか。動け。動いてとりあえず一発当てろ。致命傷でなくともいい。
ゴリラのターゲットを私に固定しろ。それから慧を遠くに逃がせ。
そこで一旦仕切り直し。改めてサシの勝負。いつもと同じ。決着をつける。
「そのまま動かないで」
振り向かずに慧にそれだけ伝えた。
走り出す。聖剣を水平に構えた。狙いはその地面につけた両腕。まとめて薙ぎ払う感覚。
影は動いた。
巨体は驚くほどの速さで後ろに下がる。
刃は中空を滑っていく。まずい。振り抜く。振り抜きながら体をねじった。
黒い拳が落ちてくる。目の前を通り過ぎていく。
轟音を立てて地面に大きな穴をあけた。風圧が私の髪を激しく揺らす。
まさに間一髪。両手をつきつつ態勢を立て直す。地面を蹴って左へと跳んだ。
敵の状態は見えない。けれども感じ取れている。その行動を脳裏に描くことができる。
崩れた姿勢のまま反撃を企てる。それは決定打にはなりえない。私は十分に理解している。
声の限りに叫んだ。「慧、逃げて!」
返事はない。返事はいらない。軽い足音が遠ざかっていく。
こういう時にためらわないのは慧のいいところだ。無駄な感傷を抱かない。
この局面において不必要な逡巡は全体を危機にさらす。そのことをわかってくれている。
不吉な予感。
理由はない。理由が認識できない。
それでも予感だけある。
手ごたえがない。
そこにいるはずのゴリラに剣が当たらない。
なんで? どうして? 私の知覚がバグっている?
周辺世界をうまく構築できない。
地面があって空がって公園があって慧がいてゴリラがいて私がいる。
その配置が頭の中でまとまらない。散らばったまま組みあがらない。
背後で鈍く地面が鳴り響いた。
ゴリラは近くにいるはず。その考えに構わず振り向いた。
彼は大きく跳躍していた。私に背を向けている。その背が目に痛い銀色の光を放つ
拳は高くかかげられていた。
真っ黒な岩みたいな拳。その落ちていく先には友人の背中。
ライトブラウンの髪が揺れる。小さな背中。
声は届かない。届いたところでどうしようもない。
残滓は感情を持たない。ただ目的だけを持つ。
人類を殲滅する。
その目的のためだけに行動する。ひたすら純粋な存在。
交渉の余地などない。誰も助けてはくれない。
ゆっくりと落ちていく。彼女はその迫る破壊に気づいていない。
あるいはそれは幸運だろうか。
認識すらできないままあっけなく終わるのだから。
視覚だけがクリアに働いている。
音は消えていた。コマ送りの世界で情報は順にそぎ落とされていく。
色がなくなる。輪郭だけがはっきり映る。
時間の進行がゼロになる。
――動け。
電気的信号が、脳内で弾けた。
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