第22話 ねがいを責めずにおきましょう
アルティエールが横に置いてあった編み籠のふたをあけた。ジェクリル……レクスが覗きこんで、嬉しそうに声をあげ、破顔した。
「美味しそうだ。木の実のジャムを挟んだパン、入ってる?」
アルティエールも笑って、頷いた。
「もちろん。あなたの大好物だものね」
レクスは妻のそばに腰を下ろした。エルレアを振り返り、手招きする。
「エルレアもいっしょにたべよう。アルティのジャムは絶品なんだ。甘酸っぱくて、元気が出るよ」
エルレアは立ちつくし、動けない。判断がつかない。
これはなんだ。空はどこまでも広く、空気は芳しくやわらかで、肌を撫でる風を感じる。踏み締める地面に実感もある。現実の世界としかおもえない。が、そうであるはずがなかった。
怯えるような、戸惑うような視線をレクスに向けると、彼は困ったような顔で、それでもしずかに笑ってみせた。手をエルレアの方へ伸ばす。レクスの意図を理解し、エルレアは思考感応の準備をした。わずかにふれ、すぐに手をひく。
それで十分だった。そこにあったのは、しずかな光だった。レクスのアルティエールに対する想い。満ち足りた感覚。信頼。あたたかさ。たかくを望まず、卑屈でもなく、ただただそこに在ることを喜ぶ、いのちに感謝する、その優しい色だけが、エルレアに流れ込んできた。
「さあ、座って。たべよう」
レクスがうながす。アルティエールは清潔そうな布のつつみをエルレアに差し出した。歩み寄って受け取り、また少しだけ離れ、なかば茫然として腰を下ろす。包みをあけると炙り肉とパンの芳香。まだ、あたたかい。
しばらくそのまま動けない。ふたりのほうを見る。レクスが頬張ったものを飲み下せずに苦しげに胸をたたいて、アルティエールが手をくちにあてて笑いながら、その背中をさすっていた。
空は、たかい。鳥の声。
座っているひざが、ゆっくりと陽光であたたかになってくる。わずかに風が吹いて、エルレアの前髪をゆらめかせる。風景が、かがやく。
エルレアは疑っている。レクスを、アルティエールを。目の前の風景を。闘いのさなかである。死闘がすぐ傍にまっている。これは、罠でしかあり得ない。理解している。
なのになぜ、涙が浮かんでくるのかを、自身で説明できないでいる。
なにを護る、といったのだったか。なにとたたかうと言ったのだったか。滅する、破壊する。なぜ、なににたいして使ったことばだったのか。
エルレアは頬にこぼれそうになった水の粒を手の甲で拭い、包みの中のものを口に入れた。目に映っている風景と同じ味がした。
と、一陣の風。やや強く吹いたそれは、エルレアが膝においていた布をふわりと持ち上げ、空に運び去った。あっ、といって手を伸ばすが、届かない。
レクスとアルティエールも振り返る。
アルティエールは左の手のひらを胸にあて、右の手をそらに掲げた。なにかを呟く。右手の指先に紫色のひかりが集まる。
舞い上がった布のまわりに光がながれた。空中で急に静止したそれは、やがて反対の方向へ動き出す。くるんと輪を描いて、布はアルティエールの手の中に収まった。
照れたような表情を浮かべるアルティエール。エルレアは呆然とそれを見ている。
神式を使ったようにも思われたが、手を離れているものを動かせるちからなど、彼女は聞いたことがなかった。あくまで接触するものの性状を変化させてなんらかの効果を生むことが神式の本質であり、作用である。熱を得るにしても、衝撃を生じるにしても、少なくとも周囲の気体を媒介にする。
手を触れていないものをじかに動かせる。それがどれだけ危険なちからか、エルレアは本能的に理解した。
「……アルティは、能力者なんだ。神式ではない、だけど説明できない、不思議な、とても強いちからを持って生まれた」
レクスがアルティエールの手を握る。アルティエールもその瞳を見返す。
「僕たちは幼なじみだ。小さい頃、聖女の儀式をうけたときのこともよく覚えてる。アルティはなにも隠さなかったけど、聖女としては見出されなかった。でも、大きくなるとだんだん、ちからが強くなってきた」
「よく怒られたわ。あなたや、町のひとたちに」
「君はだれかを助けるためにちからを使うことを恐れなかったからね。小さい頃から。僕はそれをとても危ういと、ずっと思ってた」
「……ごめんなさい」
アルティエールがいまのレクスのことばに対して謝ったわけではないこと、みえない時間、みえない場所をみて云っていることが、エルレアにも伝わった。レクスがアルティエールの髪に触れる。
「謝ることはない。君がすることは、なにも間違っていなかった」
「でも、そのために……」
アルティエールがなにかいおうとしたが、言えなかった。レクスが彼女を抱きしめたからである。
「……いいんだ。いいんだよ」
あれだけ穏やかだった空に、俄かに雲がわく。ほとんど瞬時にして空は灰色となり、遠くに雷鳴すら聴こえる。風が強くなる。自然現象としてはあまりに不自然な推移だったが、エルレアには違和感なく受け止められた。
雨が落ちてきた。レクスはアルティエールの肩を離し、空をみあげた。
「今日はもう、帰ろうか」
そしてエルレアのほうを見て、手を伸ばす。エルレアはそれに応じることに、迷わなかった。
指先が触れるとともに風景がかわった。
暖炉で薪が穏やかな炎をあげている。その上の窓から見える、ちらつく雪。室内はあたたかく、静かだった。赤茶色の木組みの壁のそばのテーブルを囲んで、三人は座っていた。灯された小さな灯が揺れる。
「レクス、明日もお仕事は早いんでしょう。もう休まないと」
エルレアの正面のアルティエールが、皿を集めながらレクスにいう。
「いや、もう少しだけ、話がしたいよ」
「そんなこといって。もうお酒はだめ。最近、飲みすぎよ」
レクスが頭を掻いた。
草原の場面から、まったく脈絡がつながっていない。レクスに肩を抱かれて項垂れていたアルティエールは、いま、日常のなかで穏やかな時間を過ごす妻の表情をしていた。レクスもそれにあわせるように、もうずっとここで酒を楽しんでいるように、顔をまっかにして笑っている。
が、エルレアは、それでいい、と思っていた。理由はない。理解していない。しかし、こうであれ、と考えていた。
「エルレア。君はアルティと寝室で寝てくれ。悪いけど、狭い家なんだ」
レクスがエルレアに頭を下げる。エルレアは、ごく自然に頷いていた。
アルティエールが食器を片付けるのを手伝い、身支度をして、彼女らは寝室へ向かった。レクスはすでに別の部屋で寝ているようだった。
豪奢ではなかったが、清潔で行き届いた寝具が与えられた。エルレアはすこしごつごつするベッドに横たわり、しばらく目を閉じ、それから半歩ほど横で同じように休んでいるアルティエールに顔を向けた。
「……あなたは、あの神殿の地下で、眠っているひとね」
エルレアはなんの気負いもなく、苦しみも伴わず、自ら困惑するほど穏やかに、けっして語ってはならない内容を、アルティエールに告げた。
アルティエールは、薄く目をあけた。
「……わからない。そうかもしれない」
「ジェクリルは……レクスは、あなたのために闘っているの?」
アルティエールが首を振るのが見えた。暗がりでも、哀しげに表情を歪めていることがエルレアには感じられた。
「あのひとは……わかっていない。わたしが、苦しんでいないことを。わたしがどれだけ幸せだったかを。あの日のことも、わたしはずっと以前から、わかっていた」
「あの、日……?」
それには応えず、アルティエールはエルレアのほうに顔をむけた。
「あなたは、精霊の子ね」
なぜ知っているか、という疑問はもう、エルレアには浮かばない。
「……あなたも、おそらく」
「そう。あなたと同じ。それがわかったのは……最期のとき、だけどね」
「……」
アルティエールがふたたび目を瞑った。エルレアもそれ以上は言わず、天井をみあげているうちに、いつのまにか眠りに落ちていた。
◇
第二十二話、今日もおつきあい、ありがとうございました。
時間にも、空間にも意味はなくて。わたしたちがそれをどう感じているか、わたしたちがそのなかでなにをするか。それだけが、だいじなんだろうと思います。
今後ともエルレアを見守ってあげてください。
またすぐ、お会いしましょう。
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