25話 『ロンデル・エンリ 八』



 白い息をはいた僕は……なけなしの気力を振り絞って剣を構えた。


 狐帝は姿を消した。


 それと入れ違うようにして、出来損ないの狼がやって来た。身を低くして僕の隙を伺っている。


 そして、その後ろにアルくんがいた。


 今ならアルくんに干渉できるかもしれない。けれど、僕にはもうそのつもりは無かった。


 おそらく狐帝は何か対策を打っているだろうし……それ以前に、僕はアルくんのことを傷つけたくなかった。


 ――アルくんに、狼が襲い掛かるのが見えた。


 すんでのところで狼の攻撃を防いでいる。けれど、十メルくらい離れたここからでも、見るからに身体が固くなってしまっているのが分かった。


 そんなんじゃ、ウスラに怒られちゃうよ。


 笑いを嚙み殺しながら、僕はアルくんの様子を見つめていた。


 たしかに、この狼はアルくんがこれまで戦ってきた中で飛び抜けて手強い相手だろう。いくら弱体化した僕の、さらにその欠片だとしても、そんじょそこらの魔物とは比較にならない。


 けれど、だからと言ってそんなふうになってたら、この先が心配だ。


 十五歳で『儀式』を受けたら、アルくんは神官に選ばれるだろう。そうしたら、同じような魔物に何度でも出会うことになる。


 せっかくだし……この狼を使って、アルくんに経験をしてもらおうかな。


 ――その時、狼が僕に襲い掛かってきた。


 どうやら狼は力を行使しているらしい。目で視える狼を避けたら、狼の口に自ら飛び込んでしまうことになる。我ながら嫌らしい戦法だ。


 そのままやり過ごそうと突っ立っていると――


「ぐぇッ……」


 脇腹に衝撃。


 びっくりして下を見る。


 必死の形相のアルくんがそこにいた。


 二人して雪の上を転がってから、僕はよろよろと立ち上がった。


 アルくんは真剣な顔をして、幻像の方を見つめている。どうやら、僕を助けてくれたらしい。


「……助かったよ」

「怪我はないですか?」

「うん。ちょっとだけ掠ったけど、大したことはないよ」


 さっきまでガチガチだったアルくんは、ようやくいつもの調子を取り戻したようだった。研ぎ澄ました刃のような、ピリピリとした空気を感じる。


「ロンデルさん。あの魔物が何をしているか分かりますか? 一瞬で場所が変わってるように見えるんですけど……」

「アルくんの言う通り、一瞬で移動してるんじゃないかな」


 適当なことを言っておく。自分の頭で考えることが大事だから、答えを教えるつもりはない。


 アルくんの発案で、僕とアルくんは背中合わせで剣を構えることになった。


 そんな僕たちを前にして、狼は攻めあぐねているようだった。


 何度か『声』を書き換えようとしてきたけど、それは全部、念のため僕が防いでいる。そのことを警戒してか、なかなか直接攻撃してこようとはしない。


 とはいえ、時間の問題だろう。理性を持たない魔物は、そんなに我慢強くはない。


 気楽にその時を待っていると――森の中に、緑の炎が灯った。


「……ここは」


 知らない場所に、僕は立っていた。


 足元には白色の玉石。それは視界の果てまで続いていて、緑煙の陰に消えている。


 そして白い地面の所々には……なんだろう? 朱色の、見たことのない建造物が、数えきれないほど立ち並んでいる。


「ここは我の殻の中です」


 声が聞こえた。


 見ると、正面に狐帝が立っている。赤い葉で彩られた着物をまとった、どこか艶やかな女性。左手には巻物を持っている。


「黒狼様の願い、しかと聞き届けました」


 そう言いながら、狐帝は巻物の紐を解いた。すると、巻物はひとりでに動き始めた。スルスルと開き――数メル、数十メルの長さに伸びる。


 それはまるで龍のようだった。僕と狐帝を幾重にも取り囲み、ゆらゆらと蛇行しながら飛んでいる。


「たとえ何を犠牲にしてでも、娘の成長を見たい――その願い、叶えて差し上げましょう」


 狐帝の右手には筆が握られていた。


「……本当に?」

「ええ……ですが、対価は支払っていただきます」


 狐帝の瞳は、黄金色に怪しく光っている。


 この取引に応じてはいけない。そんなことは分かっている。


 けれど、一瞬の間も置かずに僕は応えていた。


「僕にできることなら」

「では――黒狼様を従える権利を頂きます。一度だけ、それがどのような命令であったとしても、黒狼様を服従させる権利を」


 権利。おそらくそれは、契約なのだろう。僕がどれだけ泣き叫ぼうとも、絶対に逆らうことのできない契約。


「もしもそれが……イーナを傷つける命令だったとしても、僕には逆らえないってことなのかな」

「どのような命令であったとしても、服従していただきます。……ですが、黒狼様の願いは叶えます。我自身の意志で、イーナ・エンリを直接害することはありません」


 僕が狐帝に願ったのは……イーナの成長を見守ること。もしもイーナの身に何かがあれば、成長することもできないはずだ。


「それは、イーナの安全を――」

「黒狼様。我の気はあまり長くありません。我は黒狼様の願いを叶えて差し上げる、と言っています。黒狼様は、どちらを選ぶのですか?」


 有無を言わさぬ声だった。


 そうだ、最初から答えは決まっている。今の状況を、僕ではどうすることもできない。それがどんな契約であったとしても、受け入れるしかない。


 僕が無言で頷くと、狐帝は筆を振るった。


 同時、巻物に極大の力が宿る。


 スルスルと紙が筒に巻き取られる。最後に紐が結び目を作ると、それを左手に掴んだまま、狐帝は僕の方へと歩いてきた。


 すぐ目の前で立ち止まる。それから、おもむろに巻物を僕の胸に差し込んだ。


 痛みはない。けれど、少し気持ち悪い感触がする。それを我慢しながら受け入れると……ズブズブと胸の中に沈みはじめた。


「黒狼様の願いを聞くにあたって、イーナ・エンリを確認しました。やはり彼女は眷属ではなく、魔物だったようです」

「……どういうこと?」


 困惑する僕に、狐帝は笑顔を向けた。


「このようなことは我としても初めてでしたので、気付くのが遅れてしまいました。……通常、眷属は人間に力を与えることで作りますが、黒狼様の場合は自我の欠片に力を与えました」


 イーナは、もともとウスラの『声』だった。ウスラの『声』を奪って、それを僕の力で包み込んで……そうして、イーナは生まれた。


「おそらくは、自我に力を与えるというよりも、力に自我を与えることになったのでしょう」

「力に自我を与える……」

「要するに、我々と同じです。自然の中を巡る力が滞り、やがてそれは魔物という形を得て動きはじめ、最後には自我を持つ存在になる。イーナ・エンリは魔物です」


 巻物が完全に埋まった。


 僕の中に浮かぶ巻物から、狐帝の力が滲み出てくるのを感じた。それは僕の深層の奥深くまで伸びてきて……自我にくさびを打ち込んだ。


「眷属であれば、確固とした自我を持っています。力の扱いも誕生したその時から理解しています。ですが……イーナ・エンリには、その力を御するほどの自我はありません。育つためには、少なくとも数百年の時が必要でしょう」


 狐帝の話を聞きながら、僕は眉をひそめていた。


「狐帝の力なら、自我の成長を早めることができるってこと?」

「いいえ、我にもそのようなことはできません。黒狼様もご存じでしょう? 自我は、それが自ずと成長するのを待つしかありません」

「でも、そんなのを待つ時間は」

「そうですね……このまま力を取り込み続ければ、いずれ限界が来るはずです」

「限界?」


 僕の顔を見て、狐帝は首を傾げた。


「おや、ご存じなかったのですか? てっきり、その問題がどうにもならないからこそ、我に頭を下げたのだと思っていたのですけれど」


 狐帝の隣に緑の炎が浮かぶ。


「そもそも通常の魔物であれば、本能的に力を取り込むのを止めるのですよ。ひたすら力を引き寄せ続けることはありません」


 緑の炎が大きくなっていく。


「ですが、イーナ・エンリはちっぽけな自我と、分不相応な力を持って生まれました。そのせいで、力が力を引き寄せる引力を、御することができていません。このままですと――」


 炎が弾けた。


 白い玉石の上を、炎の欠片が転がっていく。


「イーナ・エンリの自我は壊れます。知っての通り、力をどれだけ失おうとも大した問題ではありません。ですが、核となる自我が壊れた時……それは魔物にとっての死を意味します」

「そんな……イーナが」


 ちょっと待ってほしい。でも、イーナが死ぬって……そんなの。


「そのように取り乱さずとも、大丈夫ですよ」


 狐帝の指先には、赤い葉っぱが摘ままれていた。それをクルクルと回しながら、


「たとえ何を犠牲にしてでも……黒狼様は、そうおっしゃっていましたよね。その言葉に偽りが無いのであれば、我は黒狼様の願いを叶えることができます。本当にお気持ちは変わりませんか?」


 黄金の瞳が、僕の目を覗き込んでくる。


 その目を見つめ返して、僕は笑みを浮かべた。

 

「イーナが今のように笑って、幸せそうにしている姿を見るためなら、僕は何だってするよ」

「……愚問だったようですね」


 狐帝は小さく笑って、葉っぱを白石の地面に投げた。


 緑の炎が燃え上がる。


 それは狐の形をしていた。


「力に対して自我が足りないのであれば、自我を加えてあげれば均衡が取れるはずです。……黒狼様。あなたの自我を、イーナ・エンリの中に加えます」

「僕の自我を?」


 狐帝は頷いた。


「ですが、ある存在の中に自我は一つしか存在できません。単に黒狼様の自我を入れるだけでは、いずれかの自我は消滅してしまうでしょう。黒狼様の願いは『イーナ・エンリの成長を見たい』でしたので、どうしたものかと考えたのですが……」


 傍らの狐の頭を撫でると、狐帝は意味深な視線を向けてきた。


「その狐を使うの?」

「ええ。この子――我の力で黒狼様を包み込めば、二つの自我が共存できます。ですが……ちょうど先ほど、黒狼様は経験されましたよね。我の力で包まれると、黒狼様は力を行使できなくなります。外の世界を見られるようにはしますけれど、それだけです」


 僕は話を聞きながら、さっき狐帝が言っていたことを思い出していた。


 たしか、イーナの自我が成長するには時間がかかると言っていたはずだ。


「じゃあ僕は、数百年間はイーナの中でジッとしてないと駄目ってこと?」

「いいえ、違います。一度混ざった水を分けられないように、力を分けることはできません」

「つまり……イーナが生きている限り、永遠に?」


 その言葉にも、狐帝は首を振った。


「我の力であっても、徐々に溶けてしまいます。おそらくは……百年前後。それが限界です。その時が来たら、いずれかの自我は消えなければなりません」


 ……百年。


「そっか……でも、うん。本当はもっと見たいけど……それだけ見られたら、僕は満足かな」

「……その時には、黒狼様が消えるということですか?」

「当たり前だよ。だって僕は、イーナのお父さんなんだから」


 狐帝は少しの間を開けてから、顔を歪ませた。


「それは寂しくなりますね……黒狼様ほど付き合いの長い方は、あまりいないのですが」

「ははっ、狐帝にそう言われるなんて光栄だな」


 狐帝は寂しいなんて露ほども感じていないだろう。


 そう思って僕は笑ったんだけど、狐帝は真面目な顔をしていた。


「さて、あまりのんびりとしている暇もありません。黒狼様の準備がよろしければ始めますが……如何ですか?」

「え、ああ……うん。準備は――」


 途中まで言いかけて、僕は口を噤んだ。


「……僕がイーナの中に入るってことは、もう会えないってことだよね」

「当然そうなりますが……最後にお別れの挨拶をしておきたいですか?」


 僕は無言で首を振った。


「狐帝の力を分けてもらえないかな? 最後にやっておきたいことがあるんだけど……力が足りなくて」

「我の力を?」


 困惑している狐帝は新鮮だった。


「対価を支払うなら構いませんが、いったい何に使うのですか?」

「ちょっと、ね……最後に『声』を書き換えておきたいんだ。僕がいなくなっても、イーナが困らないように」


 狐帝は僕のことを無言で見つめると、面倒くさそうにため息をついた。

 

「分かりました。対価は、そうですね……黒狼様の力を一度だけ使う権利、ではどうですか?」

「……うん、分かった。それだけでいいなら」


 狐帝は頷くと、僕に手を差し出してきた。


「どうぞ。必要な分が溜まったら教えてください」

「ありがとう」


 狐帝の滑らかな手のひらに指先を乗せる。すると、そこから力が注ぎ込まれてきた。


「ごめん、もうちょっともらえる?」

「これくらいですか?」


 力を注ぎ込まれる速度が上がった。


「……いったい、どれだけの力を行使するおつもりですか」

「そうだね――」


 充分な力を得た僕は、イリエルからロンデルになった日のことを思い出していた。


 あの日、イーナの母親は消えてしまった。そして今日、僕もいなくなってしまう。


「全部。僕に関わる全ての『声』を書き換える」

「……なぜ、そのようなことを?」


 僕は笑顔を狐帝に向けた。


 狐帝には感謝している。狐帝のおかげで、僕の願いは叶えられる。


 でも、この気持ちを教えるつもりはない。


 イーナには親が必要だ。僕がいなくなったら、独りぼっちになってしまう。


 ちょっとだけ悔しいけど、クレアさんなら……きっと、可愛がってくれる。イーナも懐いてるみたいだしね。


「――よし、これくらいでいいかな」


 全てを終えた時、僕の力はほとんど空っぽだった。


「終わりましたか?」

「うん。これで心置きなく……行けるよ」

「では、そこで動かずに立っていてください」


 狐帝が手のひらを向けると、傍らの狐が膨れ上がった。


 巨大な、緑色の炎でできた狐が、僕のことを見下ろしている。


「それでは、黒狼様。またいつか、お会いしましょう」


 狐帝の言葉を最後に、僕は炎に飲み込まれた。



 ○○○

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