05話 『幼馴染 前編』
物心が付いた時から、私の世界はうるさかった。
……うるさい、というのはちょっと違うかな。その状態が当たり前だったから。
お父さんだけが、私にとって静かだった――と言った方がいいかもしれない。
お父さんの胸に顔を埋めている間だけ、私は心を落ち着けることができた。
最初の頃に聞こえていたのは、ただの雑音だった。ザーザーという音が、いつも聞こえていた。
だけど……五歳くらいだったかな?
私は珍しく、一人だけで外出していた。
お父さんが、討伐に行ってしまって……家で待っているのが寂しくて、自分からお父さんを迎えに行こうと思ったのだ。
家の外は家の中と比べて、ずっとうるさい。
傍にお父さんがいたら少しだけ楽になるんだけど、一人で歩いていると、頭が割れそうな気がしてくる。
それが、顔に現れていたんだろう。
「大丈夫かい、イーナちゃん?」
頭に直接響いてくる音じゃなくて、耳から伝わってくる音。
地面を見つめていた私は、聞いたことのある声に顔を上げた。
そこにいたのは、近所のおじさん。お父さんと外出する時に、たまに会うことがある。
甘い果物をよくくれるから、嫌いな人ではなかった。
頭に溢れる雑音に耐えながら、おじさんに返事をしようとした時――突然、世界が静かになった。
「えっ……」
こんなこと、初めてだ。
お父さんに抱きしめられてる時でも、微かに雑音がするのに……。
キョロキョロと周りを見渡してみる。
遠くで泣いている赤ちゃんの声だけが、耳を通って聞こえてきた。
『……ああ、今日も可愛いな』
目の前から聞こえた。
ついさっきも聞いた声。
おじさんの声だ。
ちょっと、変な感じがするけど……。
私はおじさんの顔を見つめた。
おじさんも、私のことを見ていた。
手には、いつもの果物を握っている。
おじさんは、顔に笑みを浮かべた。
「あれっ、イーナちゃん。今日はお父さんと一緒じゃないの?」
「……はい」
うぅ……人と話すのは苦手だ。
おじさんとは何度か話したことがあるのに、やっぱり恥ずかしい。
おじさんが私の顔をジッと見てくるから……恥ずかしくなって、私は目を逸らした。
「はははっ、そうかい。お父さんも喜ぶだろうねぇ。そんな、頑張ったイーナちゃんには……はいっ! これをあげよう!」
おじさんは不愛想な私の態度に気を悪くした様子もなく、いつものように果物を渡してくれた。
いつものように、私はおじさんの手に腕を伸ばして……果物を受け取る時に、指先がちょっとだけ、おじさんの手のひらに触れた。
――私がいる。
場所は分からない。私の家に似てるみたいだけど、ちょっと違う。
目の前には寝台があって、そこに私は寝そべっていた。
そして……なぜか服を着ていなかった。
真っ白い肌が、目に焼き付く――
そんな光景が唐突に、視界とは別に、頭へ直接流れ込んでくる。
そのことに驚いて……私は、手を滑らせてしまった。
おじさんから受け取った、こぶし大の果物が落下する。
地面に衝突すると――ベチャリと、潰れてしまった。
土の上に、赤い果汁が飛び散る。
「あっ……」
それを呆然と見ていた私は、一瞬頭が真っ白になった。
「ご、ごめんなさい……」
慌てておじさんに謝る。
せっかく私にくれたものなのに、駄目にしてしまった。
「いやいや、こっちもごめんね。すぐに手を離しちゃって」
おじさんは、やっぱり気を悪くした様子もなく笑っていた。
『くそがっ……服に汁が散ったじゃねぇか』
笑いながら、そんなことを吐き捨てていた――口は笑っているのに。
視線を下に向けると、おじさんの服に、小さな赤い染みができていた。
○○○
『あー、だりー』
『掃除をして、ご飯を作って……』
『もうっ、どうして皆――』
『今日は早かったな。暇になったし何しようかな……』
『腹減った』
『やべっ、親父に怒られる』
『今晩は久しぶりに……』
意識を飛ばせば、村の人たちの雑多な『声』が聞こえてくる。
女の人、男の人、お年寄り。
内容も多種多様。当然、無駄な物や不快な物も多い。
『今日の討伐は楽だったな。さっさと帰って寝よ』
そんな『声』を認識した瞬間、その周りへ意識を向ける。
十人程度の『声』から統合してみると……どうやら、今日の討伐は終わったようだ。
つまり。
「お父さんが帰ってくるっ!」
椅子に座って、床に付かない足を前後に振っていた私は、椅子から飛び降りた。
お父さんが家を出発したのが今朝のこと。ほんの数刻前だ。
だけど、そんな短時間でも、お父さんと一緒にいられないのは寂しかった。
気持ちが落ち着かない。お父さんが帰ってくるのが待ち遠しくて、私は部屋の中をぐるぐる歩いた。
この、すぐに一周してしまう小さな空間が、私が過ごすことのできる場所だ。
家の外には、しばらく出ていない。怖かったり、嫌な人がたくさんいるから。
一日のほとんどを、家の中で、お父さんと二人っきりで過ごす。
……たまに、お父さんの友達って人が来るけど。
本当なら、私とお父さんだけの場所に、入ってきてほしくない。
だけど、この人はお父さんの次に静かな人だ。たぶん、頭をあまり使ってないんだと思う。
だから、たまに来ることぐらいなら、許してあげている。
私にとって、このおじさんよりも憎いのは、討伐とかいうものだ。
三日に一度、私からお父さんを奪っていく。その間、私は家の中で一人っきり……。
――何周くらい歩いたかな?
ちょっと目が回ってきた頃、玄関扉が音を立てた。
軋む音を立てながら、ゆっくりと開く。
「お父さんっ! おかえりなさい!」
お父さんが家の中に入ってきた瞬間、私はお父さんの胸に飛び込んだ。
「うん、ただいま」
お父さんはいつものように、私のことを優しく抱き留めてくれた。
お父さんの胸に顔をグリグリと押し付けると、お父さんの匂いで一杯になる。
私が一番大好きな匂いだ。
そして――
常に微かに聞こえていた音が、完全に消滅する。
聞こえるのは私の息遣いと、お父さんの心臓の音だけ。
トックン、トックンと、規則正しい音。
それを聞いていると……色んな嫌なことを、全部忘れることができる。
「……イーナ、やらないといけないことがあるから、そろそろ離れてほしいな」
しばらくすると、お父さんが私の頭を撫でながら言った。
本当はずっとこうしていたいけど……今日は早く帰ってきてくれたから特別。
最後に、胸いっぱいにお父さんの匂いを吸い込んで、私はお父さんを解放した。
すると、お父さんは台所に向かってしまった。その後を、当然私は付いていく。
「あっ、ごめんねイーナ。危ないから、椅子に座っててね」
私の姿を確認したお父さんは、火を付けながら言った。
お父さんから離れるのは嫌だったけど、火を使うんだったらしょうがない。
火は危ないのだ。触ったら火傷をしてしまう。
私は大人しく、さっきまで座っていた椅子に戻った。
机の上に両腕を放り出して、顎をヒンヤリと冷たい天板に乗せる。
宙に浮かんでいる足を、左右交互にフラフラと揺らす。
その姿勢のまま、台所で忙しなく動いているお父さんを眺める。
――しばらくして、お父さんが台所から戻ってきた。
お父さんが持ってきてくれた、熱いお茶を啜りながら、取り留めのないお話をしていると――
玄関扉を叩く音がした。
「おっ、来たかな……」
お父さんはそんなことを呟きながら席を立った。
それを呆然と眺めながら……私は、ここ数年で一番の驚きに固まっていた。
玄関を叩く音がした。
つまり、誰かが玄関扉を叩いたということだ。
誰かが、私に気付かれることなく、叩いたのだ。
「あっ、アルくん。早かったね。とりあえず、中に入って」
玄関からお父さんの声が聞こえた。続けて、別の声が聞こえた。
「お、おじゃましまーす……」
聞いたことのない声。男の子の声。
「じゃあ、お茶を淹れてくるから、座って待ってて」
お父さんは台所へ小走りで向かった。
それに少し間をおいて、床の上を歩く、コツコツという音が聞こえた。
……それ以外には、何も聞こえない。
――怖い。
何も聞こえないことが怖い。
頭の中で、全く、何も考えていない人なんていない。
この足音を立てている存在は……何なの?
足音は玄関から近付いてきて、右目の端っこに影が映った。
続けて、にょろりと白い腕が、視界に現れる。
その腕は、私の隣にある椅子を掴んだ。
いつも、お父さんの友達のおじさんが使っている椅子だ。
白い腕に引かれて、椅子が後ろに動いて……その人は、私の隣に座った。
何の『声』も発さないその存在が怖くて、目を向けることなんてできなかった。
ただ、両手で握っている自分の湯呑を、正面に見据えていた。
耳が痛くなるような沈黙が流れていた。私は一言も発することができずに固まっていて、その人も相変わらず静かなままだ。
……ただ、チラチラと、私に視線が向けられているのは分かった。
村の男の人たちみたいに、私のことを見て汚らしいことを考えるのかと思えば……やっぱり、そういう『声』も聞こえてこない。
おかしい。こんな風に私のことをチラチラ見る人は、大抵同じことを考えてるんだけど……。
最初の頃はそのことにいちいち衝撃を受けていたけど、今では慣れてしまった。
むしろ今は、何も『声』が聞こえないことの方が気味が悪い。
「こんにちは。今日はいい天気ですね」
かと思えば、その人は突然、今日の天気の感想を伝えてきた。
「会うのは初めてだよね。えっと、名前とか聞かせてくれないかな?」
私に話しかけているみたいだ。
返事をしよう、と思った。
けれど、喉が恐怖で張り付いていて、声が出なかった。
『声』が聞こえないことへの恐怖と、返事をしないと、という焦り。
二つに挟まれて、私は泣きそうだった。
お父さんの胸に飛び込んで、耳を塞いでしまいたい。お父さんと私しかいない世界に、逃げ込みたい。
「……見てるくらいなら早く戻ってきてくれませんか、ロンデルさん」
ロンデル――お父さんの名前。
その響きに、私は視線を持ち上げた。
両手でギュッと握りしめていた湯呑から、台所からこちらを覗いているお父さんへ。
お父さんの顔には、機嫌がいい時の笑みが浮かんでいた。
お父さんはほとんどいつも笑ってるけど、機嫌によって微妙に違うのだ。
唇の端っこがピクピク動くのは、機嫌がいい時。
「いやあ、わざとじゃないんだよ。ただちょっと面白かったから」
「それをわざとって言うの知ってました?」
お父さんは湯気をあげる湯呑を手に持ちながら、台所から戻ってきた。
隣に座っている人と、親し気な会話を交わしている。
ここで初めて、私は顔を横に向けた。
隣の椅子に座っている人の姿が、目に映る。
子供の、男の子だった。
私よりも身長がちょっとだけ高いけど、お父さんの友達のおじさんみたいにガッシリはしてない。
どちらかと言うと、お父さんと似た、ほっそりした体型をしている。
綺麗な金髪。窓から注ぎ込む光を反射して、キラキラと光っている。目は、薄い青色。
その男の子は……思わず見惚れてしまうような、明るい笑顔を浮かべていた。
男の子とお父さんの顔を交互に見て……胸の底に、黒い染みがポツンと生まれたのを、私は感じた。
○○○
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