3

その冷たい風が、怖かった。

 本当に戻ってこられない、奈落の底まで続いているような風。

 私は震えた。

 震えながら、肩を抱く兄の手をつかみ、のけた。

 兄は、ろくに力の入っていない私の手に、それでも従って手を話した。

 兄の手から離れる。 

 それがこんなにも簡単だということに、私は半ば恐怖さえ覚えた。

 だって、永遠に逃れられないと思ってきた。ずっとずっと逃れられず、手に手をとったまま、地獄の果まで落ちていくのがさだめだと。

 それなのに、兄はさらりと私を手放した。

 「美月。」

 兄の声は、優しかった。肉と肉とを交えた後の、粘っこいような優しさではなく、ただの兄妹として暮らしていたころの、ごく当たり前の優しさがそこにあった。

 私はそのことに驚き、兄を見上げた。

 兄の目から感じた最果ての風は、どこかに消えていた。

 そこにはやはり、抱き合うようになるよりずっと前の、兄妹としていたわりあっていた頃の静かな光があった。

 「この子のことが、本当に好きなの?」

 私は戸惑って潤を見た。

 好きだ。信頼している。それは、言葉では言い尽くせないほど。

 けれど、汚い私が潤に触れていいとは思えないし、誰に対してでも恋情を持つような権利は、とっくの昔に手放してしまっている。

 潤は私の目を見返すと、小さく頷いてくれた。

 それを見てようやく私は、兄の問いに答えることができた。

 「好きだよ。」

 すると兄は、ふわりとやわらかく目を細め、それは恋? と、問いを重ねた。

 私は正直に、分からない、と答えた。

 「……そっか。」

 兄が、そう小さく呟いた。

 そして彼は、私に背を向けた。

 「さよなら美月。」

 短い台詞だった。

 まさかそんな短さで、軽さで、これまで私と兄の間にあったことを、帳消しにできるとも思えなかったし、目をそらすことこだってできるとは思えなかった。

 それなのに兄は、再び改札をくぐり、どんどん歩いて私の視界から遠ざかっていく。

 嘘だ。

 私はとっさに兄を追おうとした。

 けれど、左手を引く潤が、それを許しはしなかった。

 「美月ちゃん。あれが最後の『愛してる』だよ。」

 ぽつんと、春の雨のような繊細さで潤が囁いた。

 私はどうしていいのか分からず、子供のように棒立ちになったまま、ぼろぼろと涙をこぼした。

 一緒に狂い、汚れ、堕ちた、私の男が去っていく。

 潤は、私を急かそうともせず、寒い夕方の改札口が夜の闇に沈むまで、ずっと私の隣に立っていてくれた。

 「……ありがとう、潤。」

 最終電車も終わり、人気のなくなった駅で、まだ涙の残滓が消せないまま、私はかろうじてそれだけ口にした。

 潤は、いいんだ、と肩をすくめた。

 「その代わり、俺がおとなになるまで、待っててよ。」

 私は思わず微笑み、繋いだままだった左手を見下ろした。

 「潤は、もう十分大人でしょう。」


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境界線 美里 @minori070830

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