3
「なに言ってんの? 救急車は?」
とっさに出た台詞はそれだった。私はまだ割合まともなのだと、内心、妙に冷めた安堵をしていた。
『呼んでないよ。まだちょっと脚動いてるし。』
それを聞いて、私は生々しく想像してしまった。
リビングのカーテンレールで首を吊る母の、痩せた二本の脚が、ぴくぴくと断末魔の痙攣をしている。
兄はそれを、一歩下がったリビング中央に立って、いつものあの穏やかな目をして眺めている。
半分開いたカーテンからは、午後の日差しが柔らかく母と兄を照らしている。
ぞっとした。
これは私のただの想像じゃなくて、今、実際に起こっていることなのだ。多分、ディテールに寸分の狂いもなく。
そこまできて、私から余裕は完全に消えていた。
「救急車……、」
繰り返した声は、力なく地面に落ちた。
兄にそうする気がないことは、とうに知れていた。
「……殺したの?」
声は震えていなかった。兄が否定すると、そしてそれが真実なのだと、心のどこかで分かっていた。
兄は母を殺してはいない。
ただ、不安定につま先立っていた母の背を、そっと押しただけだ。それは、なんの痕跡も残らないくらい、そっと、静かに。
『まさか。ちょっと話をしたらね、母さんが急に首を吊ったんだよ。ただ、それだけ。』
兄の声はいつもと変わらなかった。あの頃と……いや、その前からずっと変わらない、兄特有の穏やかさ。
「話って、なにを?」
その答えだって、私には分かっていた。訊かなくたって、本当はちゃんと。
『大したことじゃないよ。』
そう言って、兄は電話の向こうで少し笑った。ふふふ、と、少し女性的にさえ聞こえる笑い声。
『ただ、美月と会ってるって、また一緒に暮らしたいって、そう言っただけ。』
そう言っただけ。
ただそれだけで、母はとどめを刺されたのだ。そして兄は、それを承知で言葉を口にしたはずだ。母にとどめを刺し、私を取り戻そうと。
『美月、』
なに、とも、どうしたの、とも、言えなかった。ただ私は電話を切った。泣きながら。
兄が恐ろしかった。
母を殺した男。かつて私が睦み合い、今なお未練を断ち切れない男。未だに求め、欲し、欲望の全てを吸い込む相手。
美月、
その後の台詞には見当がついていた。
美月、また一緒に暮らそう。
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