「なに言ってんの? 救急車は?」

 とっさに出た台詞はそれだった。私はまだ割合まともなのだと、内心、妙に冷めた安堵をしていた。

 『呼んでないよ。まだちょっと脚動いてるし。』

 それを聞いて、私は生々しく想像してしまった。

 リビングのカーテンレールで首を吊る母の、痩せた二本の脚が、ぴくぴくと断末魔の痙攣をしている。

 兄はそれを、一歩下がったリビング中央に立って、いつものあの穏やかな目をして眺めている。

 半分開いたカーテンからは、午後の日差しが柔らかく母と兄を照らしている。

 ぞっとした。

 これは私のただの想像じゃなくて、今、実際に起こっていることなのだ。多分、ディテールに寸分の狂いもなく。

 そこまできて、私から余裕は完全に消えていた。

 「救急車……、」

 繰り返した声は、力なく地面に落ちた。

 兄にそうする気がないことは、とうに知れていた。

 「……殺したの?」

 声は震えていなかった。兄が否定すると、そしてそれが真実なのだと、心のどこかで分かっていた。

 兄は母を殺してはいない。

 ただ、不安定につま先立っていた母の背を、そっと押しただけだ。それは、なんの痕跡も残らないくらい、そっと、静かに。

 『まさか。ちょっと話をしたらね、母さんが急に首を吊ったんだよ。ただ、それだけ。』

 兄の声はいつもと変わらなかった。あの頃と……いや、その前からずっと変わらない、兄特有の穏やかさ。

 「話って、なにを?」

 その答えだって、私には分かっていた。訊かなくたって、本当はちゃんと。

 『大したことじゃないよ。』

 そう言って、兄は電話の向こうで少し笑った。ふふふ、と、少し女性的にさえ聞こえる笑い声。

 『ただ、美月と会ってるって、また一緒に暮らしたいって、そう言っただけ。』

 そう言っただけ。

 ただそれだけで、母はとどめを刺されたのだ。そして兄は、それを承知で言葉を口にしたはずだ。母にとどめを刺し、私を取り戻そうと。

 『美月、』

 なに、とも、どうしたの、とも、言えなかった。ただ私は電話を切った。泣きながら。

 兄が恐ろしかった。

 母を殺した男。かつて私が睦み合い、今なお未練を断ち切れない男。未だに求め、欲し、欲望の全てを吸い込む相手。

 美月、

 その後の台詞には見当がついていた。

 美月、また一緒に暮らそう。

 

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