大学の講義を終え、家に帰る電車の中でスマホを取り出すと、兄から電話が来ていた。それを見た瞬間、座っている座席がぽかんと真っ黒の穴になって、私を吸い込んでいくような気分になった。

 以前、兄と一緒に暮らしていた頃の私だったら、一旦電車を降りてでも兄に電話をかけ直していただろう。それは、どうしても、声が聞きたくて。

 今の私は、どうすることもできずにスマホを握りしめているだけだ。

 兄の声。

 私が確かに乞うたものだ。文字通り、乞食みたいに乞うた。

 ただ話すだけでは足りなくて、もっと近くで、もっともっと近くで、と。

 二人で暮らしていた頃、会話はあまりなかった。身体を繋げてばかりいたから、会話の必要がなかった。身体が触れ合うだけで、お互いの全てを理解しているような気になっていた。

 だから、兄と会話を重ねていたのは、まだ父と母が家にいた間、セックスなんかしていなかった頃のことだ。

 私達にはなにもなかった。言葉を重ねる以外、なにも。だって、それ以外のお互いを求めることは、天も地も、人の耳目も許さない。

 今では信じられないけれど、色々な会話をした。

 本当に伝えたいことは別にあって、ずっと、いつでも胸の中にあって、お互いもそれを承知の上で、まどろっこしいような会話だけしていた。

 お互いの恋人の話なんかをしたこともある。性欲むき出しの目で見つめ合っておきながら。

 もしかしたら、と思う。

 もしかしたら母は、兄と私の会話を耳にし、その姿を見ることも多かったはずの母は、セックスの現場に踏み込むより前から、わたしたちの怪しさに気がついていたのかもしれない。どうしたって、上手く隠せていたとは思えない。タブーが大きすぎる分だけ、私達はいつも怪しかった。

 ふう、と、長く息を吐く。

 会いたい。

 兄に一言言われれば、私はきっとまた会いに行ってしまう。私の中の欲望が、兄に向かって触手を伸ばしてしまう。

 一月、耐えた。

 二月、三月と、きっと耐えていけるはずだ。

 私はスマホを鞄にしまいかけ、思い直して潤にラインを送る。

 『兄貴から電話きた。』

 すると、一分もしないうちに返信が来る。高校はまだ授業をしている時間帯だから、授業をサボって保健室のベッドでスマホを弄ってでもいたのかもしれない。

 『なんて?』

 『わかんない。でてない。』

 『正解。無視しときなよ。』

 『そうする。』

 後は数分待っても返事が来なかったので、スマホを鞄に放り込む。

 潤が肯定してくれなかったら、私は電話に出ないという自分の判断が正しいのかすら分からないのだ。

 自分の情けなさに、しみじみとため息が出た。


 

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