家の最寄駅で私は、ここまででいい、と言おうとした。ここから歩いて10分間、兄と並んでいるのは怖かった。

 会話の種なんてもうとうに尽きている。電車の中でも、私と兄は無言だった。

 お互いに聞かせられるような、まともな話題が見つからない。

 母の具合はどうなのかなんて訊ねることはできようもないし、大学生活について話すことだってない。兄と二人で暮らしていた頃、ほとんど大学へはいっていなかったので、単位数はギリギリだし、おまけに兄とのことが誰かにバレるのではないかと疑心暗鬼になっているせいで、友人なんかは一人もいない。そのことは兄だって承知しているはずだ。

 だから、がらがらに空いた電車の中、わたしと兄は黙って隣同士に座り、まっすぐ前を眺めていた。

 一月前までならば、指と指とを絡ませ合い、脚と脚とを密着しあい、ぴたりと張り付くように座っていたはずだ。一時でもお互いの身体を手放すことが惜しくて。

 最寄り駅について歩き出すとき、兄は私の手を握ろうとした。

 私はそれを拒んだ。

 兄は私を咎めはしなかった。ただ、寂しげに目を細めて微笑んだだけで。

 ここまででいい。

 その一言が言えないまま、兄と私は私が暮らしているアパートの前まで到着してしまう。

 兄がここまでやってくるのは、別々に暮らすようになってはじめてのことだった。

 ここまででいい。

 今度こそそう言おうとした私の唇を、兄のそれが塞いだ。

 馴染んだ兄の香りがした。

 ばあ、と、記憶の箱をひっくり返したみたいに、兄との情事の場面が頭の中に次から次へと展開された。

 はじめての口づけは、兄の部屋で夏の夕方。怖いくらい真っ赤な夕日の射す日だった。

 はじめてのセックスは私の部屋のベッドで。父も母も寝静まった、秋の夜長だった。

 二度目の口づけも、二度目のセックスも、いつどこでどんな場面だったか、私ははっきり覚えている。

 どの記憶も消せなかった。愛おしんだと言ってもいい。性欲を持て余すひとりの夜、何度も何度も辿った記憶たち。

 ああ、だめだ。

 このままでは私は、また兄と……、

 とっさに、目の前に立つ兄の胸を両手で押しのけようとした。

 けれど兄は私の肩を掴み、口づけを深くした。

 舌の熱さも唾液の味も、ひとりの夜に辿ったまま、兄のものだった。

 意思が身体に負ける。

 何度も経験したことだった。

 兄と抱き合ったいくつもの夜。私は後悔しなかったわけではない。

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